「はあ、すき」
頬杖をついてため息混じりに言った私の視線を追って、それからまた私の顔を見てウォッカは呆れたように笑った。
「直接言ったらどうですかい」
「無理。だって、ジンだよ?」
理由にならない言い訳をする。あの方の腹心で、疑い深く冷徹だと評判の男だ。コードネーム持ちだってなかなか一緒に行動はできないし、できれば正直したくないと思わせるような、そんな男。
「アニキはいつもアニキですぜ」
ウォッカは哲学みたいな事を言う。バーカウンターで話すには、それなりに詩的で良いのかもしれない。
「直接言って無反応でも悲しいし、意識して引かれても辛いじゃん」
ジントニックを一口舐めてから、乙女心勉強して、とトントンとウォッカの心臓の位置を指でつつく。ウォッカはサングラスの向こうで微かに目を細めた。
「アネキは案外アニキをわかってないんスね」
「おっ喧嘩売ってる?」
「まさか」
彼は大げさにシラを切った。どう言うことよと拗ねて見せると「本人に聞いてくださいよ」とフッと笑った。ジンを兄と慕うウォッカの方が彼に詳しいことなど当たり前だけれど、私は組織内での名前を持たない頃から彼のファンで、一目見た時からずっと彼を見てきたのだ。なんだか悔しい気持ちになる。それ以上を追求しようと口を開きかけて、やめた。ああジンが戻ってきてしまう。

何がかっこいいってあの鋭く冷たい瞳も煙草を吸う仕草も引き金を引く躊躇いのなさもかっこいい。何が可愛いってウォッカに少しだけ甘いところもたまに言う笑えない冗談も鼠を追い詰めることを楽しむ姿も可愛い。何が好きって、もう全部すき。
「好きなもんは好き」
漏れる言葉にライは煙草の煙を吐くだけだ。
「わからんな」
「ライバルが少ないのは有難いことよ」
「やめてくれ、笑えん」
「ははは」
笑えれば苦労はない。ライは正直ジンに一目置かれている。もちろんそれは恋愛感情とは全く別のものだけれど、私としては愛や恋だの土俵に上がれないのなら、組織の一員として能力を重宝されたいところだ。それはつまり彼の眼中に入るということで、これがまたハードルが高い。本人には言わないが、私はライのことをかなりの節操なしだと思っている。惚れ込んだのなら男も女も関係なさそうで、もしもライがやる気を出したとなれば勝ち目はない自覚があるので実際笑い事じゃあないのだ。
ふうっと彼の口から煙が吐き出される。
「本人に言えよ」
「う。フラれに行けるほどハートは強くないの」
「ほぉ」
不思議そうにライがこちらを見る。私のメンタルを疑っているのだろうか。
「何」
「恋は盲目とは、ある意味そうかもな」
「は?」
彼の口元は笑っている。何がおかしい。
「こう言う時は嘘でも慰めるとか応援するとかした方がモテるよ、ライ」
「必要ないだろう」
何にもしなくてもモテる男か。私の気持ちなどわかるまい。ライは煙草を灰皿に押し付けると、フッと笑って去ってしまった。長い髪が揺れる。その後ろ姿を眺め、ジンの髪を撫でてみたいなあ、なんて思いながら、私もその場を離れた。

ある意味お似合いだと思うけど、なんてベルモットが呆れた顔で笑った。ある意味ってなんだ。
「気休めはいらないです」
「あら、そんな言い草は可愛くないわよ」
「二人がお似合いすぎてそうとしか聞こえません」
「やめて頂戴」
彼女は心底嫌そうに目を細めた。取引のためのパーティで、俄然目立ちまくっていた二人を見ていたら可愛くなんていられるものか。美男美女とはこう言うのを言うのだ。その後ろにくっついて歩く私はなんてちんちくりんだろう。自分のことはどうだっていいけれど、とにかくフォーマルに身を包んだ二人が並んで歩く姿は美しかった。いつもとは違う姿も好き。正直目の保養でしかなかった。私が一緒に呼ばれた理由がかけらも思いつかない。
「私もジンの隣に立ってみたい人生だった」
「あなたはそのままで良いのよ」
「まさかぁ」
私のことが信じられない?と彼女は艶やかに微笑んだ。いつかライに嘘でも慰めろとは言ったけれど、それはそれで疑ってしまうものだなと少し考えを改めた。
「私は応援してるのよ?」
そう彼女は私に頬を寄せて囁いた。その時。
「おい」
気付けばすぐ側にジンが居た。長身の男がこうも気配を消せるのは恐ろしくて感心してしまう。睨むように私たちを見下ろす。
「イチャつくな。帰るぞ」
「あらヤキモチ?」
くすくすと笑うベルモットを睨んだジンは思い切り舌打ちをした。ご機嫌斜めじゃないか。これこそ笑えない冗談だ。
「私はここで別れるわ」
彼女はグッドラックと微笑んで一人で先に会場を出て行った。

どうしろって言うんだ。今日はウォッカもいない。まさかポルシェの助手席に座る日が来るとは思わなかった。何この特等席。運転席に座るジンをつい眺める。
ハンドルを握る骨ばった手が色っぽい。チラチラと街の灯りに照らされる横顔が綺麗だ。色素が薄くて目立たないけれど意外と睫毛が長く、すっと伸びる鼻筋に重なっている。煙草の煙が鼻先を掠める。いつもの黒尽くめだってかっこいいけど、フォーマルなんて物珍しさもあって更にかっこいい。むしろ美しい。ああやっぱり好きだ。別に見た目だけの話じゃない。不機嫌なジンのあとにそろそろとついて行き、ポルシェを前にして戸惑い立ち尽くす私に、乗れ、といつもの調子で短く言った彼は、それでも助手席のドアを開けてくれた。エレベーターに乗り込んできた酔っ払ったお兄さんの目から私を隠してくれたし、普段は履かないヒールの高い靴で歩く私にスピードを合わせてくれていたことにも気付いている。彼は優しいのだ。育ちがいいと言ってもいい。口は悪いし、普段は表情も読み取りにくいけれど、あの方に忠実で組織に忠誠を誓っているまっすぐさを知っていれば意外でもなんでもない。そういう人なのだ。不要なものは切り捨て邪魔なものは消す。そのために彼はその手を汚すことを少しも厭わない。そういうところなのだ。どうしようもなく。
「何を考えている」
「、すき」
そう、あなたが好きだと考えていた。けれど、あれ。
…え、今、私、声に。
咄嗟に自分の口元を両手で塞いだ。待って待って今は車内で運転席にジンがいて助手席に私がいて後部座席には誰もいなくて、つまりさっきの問いはジンで、それに私は何て。発せられた言葉はもう戻っては来ない。私まじか。本人に言えという言葉を思い出す。それを否定した私を思い出す。言った。私、今。そろそろと、視線を泳がせながらもどうにかジンを見た。真っ直ぐ前を見ている。美しい横顔からは表情を読めない。車は変わらず進んでいる。
これは、ダメなやつではないのか。わざわざ断りの言葉も用意されないほど、何にもないんじゃないのか。当たり前だ。相手はジンだ。冷たく、強く、真っ直ぐで、美しいひとだ。私など眼中にない。上司と部下だ。それ以上の何者でもない。自ら漏洩しまくっていた感情だけれど、本人だけには秘めておかなければいけなかったのだ。いつにも増して女々しく、もやもやと思考が混ぜられ、泣きそうになる。耐えろ。泣くな。面倒がられるくらいなら、嫌がられるくらいなら、なんでもないやつの方がまだましだ。私たちはお互いに何も言えないまま、言わないまま車は進み、郊外のある場所で停まった。
「降りろ」
ジンは短く言う。一度もこちらを見ない。車を降りながら、滲んだ涙をひっそりと拭った。恋愛感情なんて持ち込んだ私は、罰せられるのだろうか。不純な動機でここにいると思われただろうか。彼に手を下されるならそれも良いかもしれない。思いを伝えることよりも死を覚悟する方が幾分か容易いことが少しだけ笑えた。
コンクリートむき出しのアパートの一室へと入る。途端にジンは振り向き、私の前に立ちはだかった。
「何を考えていた」
同じ問いを投げかけた。思わす見上げると、ジンと目が合う。
何をって。ああ悲しくたってなかったことにしてくれ方がいくらでも自分を誤魔化せたのに。死を覚悟するよりも難しいのだ、この言葉を伝えるのは。
「何って、その、」
「言えないのか」
応えられない。誤魔化してしまえばよかったのだ。咄嗟に冗談にしてしまえばこんな風に、明確に、打ち砕かれることなんてなかったかもしれないのに。
「この口は何のためにある」
瞳の色は変わらず、声音もいつも通りだ。ジンの左手が、頬に触れた。指先が、だんまりを決め込んだ私を責めるように、唇に触れる。ああ、どうしてそんな風に私に触れるんだろう。
「…すき」
だめだ、こんなのは狡い。灰色の瞳が私を刺す。好きなのだ、その視線も指先も声も。
「ジンを、すきだなって、思ってたの」
振られるのなら、いっそ全ての思いを。殺されるのなら、あなたの手で。涙も忘れて口にする。もうどうにでもなれ、と言う投げやりな気持ちもあった。
しかし予想外に、彼はフッと笑った。薄い唇の端が持ち上げられ、楽しげに歪む。ああ、それも私のすきな表情。思わず見惚れる私の唇を、その指先はもう一度撫でた。
「この唇で」
車内での様子が嘘のように、視線は私を捕らえて離さない。
「俺の名前を呼べ」
私の手を取って、自分の頬に触れさせる。彼の銀色の髪がひと束、さらりと滑る。
「この手で俺に触れろ」
左手は私の左の瞼をなぞり、私は目を細める。視線は逸らさない。
「この瞳で俺だけを見ろ」
そっと、被さるように彼は私に顔を寄せた。低い声が、響く。
「なまえ、これは命令だ」
そう言って姿勢を戻し私を見下ろす彼の唇が、笑みを浮かべた。まるで妖艶な悪魔との契約のようだ。
「できるな?」
ああ、そんなの、答えは決まっている。
「もちろん、」
声が震えそうになる。さっきまでの不安が嘘のように、嬉しくて泣きそうだ。この美しく残酷な悪魔に、私は喜んで魂を売ろう。
「いい子だ」
そう言って、ジンは私の髪を撫でた。




(溢れた言葉と私のすべて)

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