おやすみなさい、と電話越しに優しい言葉をかけた。こちらから通話を切るのがいつものことだった。
「律儀なもんだな」
ベッドで煙草を吸う男が、冷たく零す。窓から差し込む月明かりで透けるような銀色の髪が美しい男だ。
「可愛いものよ」
私は携帯をソファに放って、再びベッドに戻る。手を引かれ、彼の腕の中に収まる。
「部下に取られて悔しい?」
そっと彼の頬を撫でる。
「そんなモンじゃねえだろ」
低く冷たい声が耳元で囁く。
「あら、じゃあどんなモンか教えて?」
彼の首筋に唇を落とす。さらりと、銀色の束が彼の肩に流れ、私の頬を撫でた。彼の手が私の肌を撫でて、私の舌が彼の肌を這う。冷たい視線と言葉と裏腹に、互いの蜜は温度を増す。そこに愛があったとしても、ほんの欠片程度だ。そんな曖昧なものよりも確かに触れる体温の方がわかりやすくて好きだった。
必要以上の言葉もなく、吐息は乱れ、私は熱を増す彼を自分の中へと導いた。





(愛の在り処)





健気なほど義務的に私を抱いた男に背を向ける。
「手強い女性ですね、あなたは」
「あら、あなたこそ可愛い顔して情熱的で驚いちゃう」
目を細めて、にっこりと貼り付けた笑み浮かべ、しかしその青く美しい瞳はまるで汚れたものを見るように冷たく私を眺めた。幹部と関係を持っているというだけの理由で、情報を得るという目的のためだけに私と肌を合わせた男の本心だ。組織内では内側の情報ですら武器になる。この男がそういう男だというのはわかっている。そして彼も、私がこういう女だと理解しているようだった。
「虚しいと思わないんですか」
「愚問ね」
私はシャツに袖を通して、彼を眺める。ただ熱い肌を求める私と良い勝負だというのに、彼はそれに気付かない。愛なんていうものがそこに必要だと思っているのだ。そんな面倒より、冷たい言葉の方がましだ。それにしても酷いピロートークで、つい口元が緩んだ。
私は着替え終えると、そのまま部屋を出た。下らない純粋さを相手にする気力は私にはなかった。

扉をノックすると、彼はいつも優しく微笑んで扉を開けてくれた。
私は彼の首に腕を回し、背伸びをしてその唇に触れる。舌を絡めて、呼吸を混ぜる。背後で静かに扉が閉まって、私は彼のシャツの隙間から肌に触れる。
「急ぐなよ」
「急ぐわ」
困ったように笑う彼の唇をまた塞いだ。甘い言葉を囁かれる前に。
私たちはなだれ込むようにベッドへと移動する。優しくベッドへと横にさせる彼かもどかしい。早く、体温が欲しい。
「ボタン、ずれてる」
言いながら、彼は掛け違えたシャツのボタンを外していく。その間も私は、彼の額に、頬に、首筋に唇を這わせる。
「いい匂いがするな、」
彼は私の髪にキスをするように言って、私はそうでしょ、と口元を緩めた。他の男の使うシャンプーと同じ香りだなんて知ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「もう濡れてる?」
からかうように言う彼に、まるでそうよと相槌を打つように爪を立てた。汚れたままの下着を、そんな風に言う彼の都合の良さだけは少しだけ好きだった。
「、なまえ」
最中、彼は何度も私の名前を呼ぶ。切ない響きは、一瞬を満たすためには効果的だ。まるで恋をするような情事もたまにはいいと思わせるくらいに。
ただそれは、熱を膨らませるための潤滑油に過ぎない。汗に冷やされ、呼吸も整う頃にはそれは肌触りの悪い綺麗事でしかなかった。
ゆっくりと起き上がって、ベッドの端に足を組み端に座り足を組む。煙草に手を伸ばし、火をつけようとした途端に、後ろから伸びた腕が私を抱きしめ煙草を奪った。
「なあに、」
彼が私に触れる時、それは愛しげに優しく触れる。どうせなら乱暴にしてくれた方が実感できるのに、彼はひとつひとつがやけに優しくもどかしい気持ちにさせる。
「…なあ、好きだって言ったら、どうする」
「、何を?」
「あんたを」
私は、彼の手からすっと煙草を取り返し、腕の隙間から手を伸ばして火をつけた。煙を吸い込み、ゆっくりと吐く。私を抱きしめながら、彼はどんな顔で、そんなことを言うのだろう。振り向きもしないで、消えてゆく煙を眺める。
「私も好きよ?」
私はつい笑みを漏らした。下らない。
なんて馬鹿な男なんだろう。私のことを、知らないわけじゃないくせに。この言葉が、自分を肯定する言葉じゃないことだって、わかっているくせに。
一時の愛に言葉は必要ない。都合がよければそれでいい。だけど、何にも気付かないフリをして優しいだけの恋なんて、私は少しも好きじゃない。

自分のことは大切にして欲しい、なんて、なんて不愉快な言葉を、彼は言う。
「今更」
唇から零れた言葉が、思ったよりも自嘲的で驚いた。
青く痣になった縄の後を隠すように、彼は私の手首に包帯を巻く。ターゲットを罠に嵌めるだけの任務だ。後のことはバーボンとライが片付けてくれているはず。といっても、ただの脅迫だろうけれど。
ハニートラップを仕掛けた相手がそういう趣味だったことは事前に分かっていたことだ。こんなことは今までだっていくらでもしてきた。
「なんてことないわ」
「あるよ」
彼は巻き終えた包帯の上から、そっとキスをする。手首へのキスは欲望の象徴だ。それがただの欲情なら、随分と気が楽なのに。
「スコッチ」
切れ長の目が、細められる。覗き込むようにこちらを見るのは、彼の癖だ。それは哀れみのようで、私をどうしようもない気持ちにさせる。
「どうしてあなたがそんな顔をするのか理解できない」
「言っただろ。好きだからだ」
「理由にならないわ」
彼のことは嫌いじゃない。肌を重ねる瞬間は、いつだって愛している。誰とだって、目の前にいて、触れ合う相手のことは愛している。それが爪先程度のものだったとしても。
「ライクじゃないぞ。ラブの方」
「わかってるわ。でもだからって、あなたが気にすることじゃない」
「わかってないよ、なまえ」
好きな女が、任務とはいえ他の男にこんな風にされて平気でいられるわけがないだろう、と彼はじっと包帯の白色を見つめる。丁寧に巻かれたそれは、彼の誠意のようで眩しい。
「…愛してるなんて言うの」
「そういうとキザだな」
彼は小さく笑う。肯定するみたいに。
胸の奥が痛む。何を言っているんだろうこの人は、愛だなんて、そんなものじゃ私は満たされないのに。
「ねえあなたとの電話に、他の男の部屋で出たわ」
じっと彼を見上げる。
「あなたと会う直前まで、他の男と寝ていたこともある」
彼はじっと私を見つめ返して、表情を変えない。
「知ってるんでしょう?」
「それこそ、俺の気持ちを疑う理由にはならない」
「何で、」
お話にならない。まさかこの人は、世の中にばらまかれている映画や小説のように、私のことを好きだというんだろうか。
「愛なんて所詮つくりものよ」
「本物もあると思うぜ」
「違いがあるなら教えて欲しいわ」
ふっと私は鼻であしらって、彼の手を取り指を絡ませる。
「一緒よ。あなたも寂しいだけ」
私に手を伸ばす男たちと何の変わりもない。愛だ恋だと言って、酔いしれたいだけだ。束の間の安堵に溺れたいだけ。そうだって、認めればいい。愛についてこれ以上私に説くのなら、きっと彼とはこれで最後だ。
「私、言葉じゃわからないの」
そっと彼に唇を寄せる。彼は私に気遣うように躊躇して、なかなか触れてこない。そういう意地らしさが面倒で、そっと耳元で囁く。
「塗り替えて」
吐息が触れるように、懇願するように吐く。
「あの男の触れた肌もこの痛みもあなたが塗り替えてよ」
そうやって、優しさを利用して私は溺れる。愛なんて囁かなくていいのだ。ただ触れてくれればいい。熱い肌が汗の匂いが乱れる呼吸が、奪い合うような行為が私の心を一瞬でも満たしてくれればいい。
その夜、隣で眠るはずの彼は夢の中には現れず、私を抱いた男も私を殴った男も誰も、現れなかった。ただ生温い場所を一人彷徨うだけの夢の中は、やけに居心地が良かった。
私の眠る隣で、彼は私の目がさめるまでずっと私を見つめていたことなんて、私が知ることはきっとない。


もう数ヶ月、スコッチと会うことはなかった。避けていたのも嘘ではないが、彼からの誘いも特になく、だからどうということもなく変わらず私は他の男の隣にいた。
「しばらくご機嫌斜めじゃねえか」
「え?」
ジンは煙草を咥え、先にベッドを離れる。傷だらけの背中を眺めながら、心当たりがなくて首を傾げた。
「自覚がねぇのか」
「…機嫌が悪いとかじゃ、ないわ」
「男に構ってもらえねえのか」
「は。私でイッたくせに何言ってるの」
「当たりか」
クッと彼は喉で笑った。嘲笑だ。腹立たしい。
私は枕を彼に投げつけた。彼は、簡単にそれを受け止める。
「ベッドを共にした女に他の男の話なんてするもんじゃないわよ」
「他の男に抱かれながら誰かさんの事を考えてるやつに言われたくねぇな」
ニヤついた彼は、片手で枕を放ってベッドへ戻して、それからフッと真顔になる。
「あれはノックだ。切れ」
「、」
「心中でもするってんなら一緒に逝かせてやるぜ?」
耳元で囁いた彼から顔を背け、ベッドを降りた。服を拾い上げて、袖を通す。苛立ちがおさまらない。
「関係ないわ」
言って、部屋を出た。
なにが関係ないのか。彼との関係が?彼の正体が?考えるのも面倒で、足早に夜の街を抜ける。夜の濁った空気が胸糞悪い。

携帯が鳴った。着信は、スコッチからだ。出ようか迷って、通話ボタンを押す。
「何」
『なまえ、愛してる』
まだこの男は、そんなことを言う。
「曖昧なままが嫌なら、私から離れればいいのよ」
『はは、そうだな』
やけにあっさりと引き下がる。理解ができない。愛しているなんて、ほら、所詮そんなもんじゃない。
「手離すのが惜しいなら、私から言ってあげるわよ?」
『…ああ、さよならだ』
「、え?」
こちらの声にかぶせるように、彼は言う。
『せめてあんただけでも救いたかったよ』
「何を、言って」
『じゃあな』
「ちょっと!」
なによそれ。愛してるだなんて言って、さよならだなんて言って、救いたかった?私を?何を言っているの。
私は途切れた通話を切り、顔を上げる。
あれはノックだ。ジンの言葉を思い出す。
チ、と私は舌打ちをする。救うだなんて、何様のつもりだ。
大通りを、大通りを向こうからその時、大通りでクラクションが立て続けに鳴った。向こうから明らかになスピード違反の車が、向かっているこちらに走っている。
「ライ、」
よく知る車だ。私は咄嗟に柵を飛び越え、大通りへと飛び出し、暴走車の前に躍り出た。ライが目を見開いたのがを一瞬確認する。車体を滑らせるようにブレーキをかけた車は、私の目の前で停車した。運転席から睨むライを無視して、私は助手席に乗り込む。
「何のつもりだ」
「出して。急いでるんでしょ」
「お前に今構ってる余裕は」
「出せっつってんのよ!」
声を荒げた私に、チ、と舌打ちをして、彼は車を発進させる。舌を噛むなよ、
「スコッチね」
彼は答えない。まだこれは極秘事項と見える。あんなに簡単にジンが吐いたのに。
「ジンに聞いたわ。どこのノック」
「日本の犬と」
「…公安」
ぎゅっと奥歯を噛み締めた。文字通り、犬死にじゃないか。最後にすわざわざ電話なんて掛けてきて、なんて律儀で鬱陶しい男なのか。
ライは速度を緩めて灰色の街に集合ビルの群れのに車を止めると、私にここにいろと呟いて車を降りた。新人が何を偉そうに、と。私はライの姿が見えなくなってから、車を降りて煙草に火をつけた。メンソールがを取り出す。ああ、ライターを置いてきてしまった。ポケットやカバンを漁っても出てこない。車の中を探すと、マッチが出てきた。そういえば、ライはマッチなことが多い。吸い殻だけのの押し込められた灰皿がその中毒の度を示している。彼は一度だけ彼に触れたことがあるけれど、それは未遂で終わっていた。見かけによらずつまらない男だと。恋人の有無が行為の有無に関わるなんて。
火をつけて、ふっと息を吐くと、煙で白く濁る。儚く消えて行くゆく、一時的な満足感。
人気のない路地に、もう一台車が停まった。
「…バーボン」
「っライは!」
現れたのは、金髪褐色の肌の青い瞳だ。柄にもなく焦っているのがおかしい。
「中よ」
「チッ」
彼らはしばらく組まされていたはずだ。彼には、スコッチがノックだと知らされていないのだろうか。ライとバーボンは仲間同士でだからと信じているとでもいうなか。のか。バーボンは、彼はそれ以上の言葉もなく、ライが向かったビルへと姿を消した。
微かに足音だけが響いて、それも遠くなっていく。灰になって溢れる煙草を捨てて、私も後を追うように足を進めた。
薄暗い階段を上っていく。パンプスのヒールが鉄の板を叩いて音を響かせる。それは上を登るバーボンの足音と重なって耳障りだ。馬鹿みたい、たった一人の裏切り者をそれぞれの理由で三人も追いかけている。それぞれの理由だなんて、じゃあ私が彼を追う理由はなんだろうか。半分ほど登ったところで、銃声が響いた。顔を上げる。歩みは止めない。
ざわざわと、心が騒ぐ。つい小さく笑ってしまう。あんなにも優しく、誠実で、もどかしくて面倒なあの男の顔を、声を、指先を、体温を、思い出す。愛なんてものを信じるつもりはない。私の求める愛がつくりもので、彼の与えようとした愛が本物なのだとしたら、なんて残酷なものをあの男は私に預けたんだろう。
屋上まで上がりきる。開けた視界の中に、、灰色の世界に、一層黒い人影と、美しい金髪と、鮮やかな血の赤が、佇む。
ライとバーボンが、睨み合う。私に気付いたライは微かに眉を顰め、バーボンは背を向けたまま動かない。
私は真っ直ぐに、壁にもたれ血に染まる男に歩み寄る。ライが手に拳銃を持っているけれど、おそらく状況からしてこれはライが手を下したわけではないだろう。ノックだという話は、確かなようだ。
「ばかな男みたい」
あなたがいうような、本物の愛だったというなら、こんな形でさよならを告げるのはちっとも優しくない。
「何が愛よ」
何が、私だけでも救いたかったよ。、よ。
自分の身一つ、守れないくせに。
「…くだらない」
「お前っ…!」
「何よ」
バーボンを睨む。死者に向かってへの冒涜だとでも言うのか。彼を憐めとでも言うのか。
彼からの愛を受け止められなかった私を、彼は責めることなんてできないはずだぁ。それを利用して私を抱いたくせに。あなただって共犯者だ。
私はまだ暖かい彼の頬に触れる。最後くらい面倒臭がらずに、茶番に付き合ってあげてもいい。私はそっと、彼の唇にキスを落とす。触れた。
「おやすみなさい」
いつかの夜のように、優しい偽りの響き。
さようならスコッチ。そうやって私の記憶に残るなんて、狡い男。
「ライ、バーボン。行くわよ、人気がないとはいえ、通報があったらたまらないわ」
「…血も涙もない、しかし、血も涙もないんですね」
「あなた、自分がどういうところにいるかそういうところにいる自覚を持った方がいいわよ」
冷たい瞳のまま、バーボンはじっと私を睨む。この男まで私に愛を説くようで、で苛立つ。
失われる愛なら最初から持たないのが正しいのだ。
「女の涙には涙なんて価値がないのよ」
増して死人に見せる涙なんて、尚更。私はその手の自己満足は美しくなくて嫌いだ。。
「あんたそのものに価値があるなんて思えない」
「そんな女を救おうなんて気を起こしたその男をたっぷり悼むといいわ」
「、」
「あんまり同情してたら、あなたもノックと疑われるわよ」
私は言い残して、階段を降りる。彼に背を向け、昇ってきた階段を降りた。
つくりものの愛と本物の愛と、もし違いがわかったとして、きっともう二度と、本物の愛なんて選べない。
そうやって私はこれからも色んな男に抱かれ、に抱かれ、その腕で眠りながら、きっと夢に見るのだ。私の上で見せえた切ない顔や、耳元で囁かれた愛の言葉を。




(愛の在り処)

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