小さな期待なら、外れたってショックは小さいから、なんて心を押さえつけながら、ないかな、ないよな、と何度も期待しては諦める。喧騒から外れた下駄の音が、夕闇に消えていく。
幼い強がりを思い出しては、友達の言葉を思い出しては、小さく反省したり、やっぱり言い訳したりする。花崎の素直な言葉を思い出す。昔の話とはいえ、あんなに素直に伝えられたらどんなにいいだろう。会ったら言えるかな。未だに燻っているこの心の火の玉のこと。
「うそ、」
公園の入り口に立ち竦む。ドン、と始まった花火のひとつめが弾けた。順々に花火が上がり、刻一刻と濃くなる空に花が咲く。
公園のど真ん中に、すらりとした影が伸びる。参ったな、話すことに、迷うな。
「…、はぎわら」
呟いた名前はきっと花火の音で聞こえなかったはずなのに、その影はふっとこちらを振り向いた。突然現れた私に驚いたのか、一拍おいてから無言で手招きをする。私は、ゆっくりと足を踏み出す。
「久しぶりだな」
「うん」
「りんご飴懐かし」
「え、」
彼は、あ、と口を開けて待つ。私は渋々彼の口元にりんご飴を差し出すと、彼は私の手を掴んで大口でりんご飴を齧った。
「はは、やっぱり不味いな」
「それでこそなの」
「しかしでかいの買ったな」
「浴衣が似合ってるからってサービスしてくれたの」
「わかってんなあ、おっちゃん」
もぐもぐと口を動かしながら、彼は笑う。どういう意味だろうか。私は彼の口の端についた赤い飴のかけらを指で拭った。彼は少し驚いた顔をして、それから照れたように笑った。私はその表情を見て、自分のしたことに気付き、誤魔化すように目をそらして花火を見上げる。久しぶりに会ったはずなのに、昔と変わらない距離でいることが不思議で、小さく安堵した。
「さっき、花崎にあったよ」
「へえ。告られた?」
「…彼女と一緒だったみたいよ」
「なんだ」
なんだとは、なんだ。
彼は知っていたんだろうか、昔私を好きだったという彼の気持ちを。私のことをあれだけ周りが気付いていたのなら、気付いていなかったのは私だけだったんだろうか。
「この公園、なくなるんだって」
「ああ、そうらしいな」
「それで、来てみたの」
「うん」
あなたを探しにきたわけじゃないとでも言い訳するように口にした言葉に、彼は特に疑問もないようだった。
花火を見上げるフリをして、チラリと彼の横顔を盗み見る。幼さの抜けた端正な顔立ちが花火の光に照らされている。背も伸びて、見上げる高さがより高い。すらりとした体格は変わらないけれど、華奢な印象はなく半袖から伸びる腕は逞しく、全体的にがっしりとしている。警察官になったのだと、母が言っていたけれど、じゃあこの男は普段制服を着ているのか、と思うと不思議な気持ちになる。とてもよく知った人のようで、全然知らない男のようにも感じた。大人になったんだ。彼も私も、きっと。
「ん?」
突然彼がこちらを振り向いて、目が合う。
「見惚れてた?」
「ばか」
「ひっで」
彼はにやりと笑って、私は目をそらした。図星だった。
「打ち上げ花火に飽きたなら、こっちにしよう」
彼は片手に下げていたビニール袋を持ち上げて、ガサガサと袋の中から何かを取り出す。
線香花火だ。
「ピンポイントすぎる」
「ここに来るならやっぱ線香花火っしょ」
「一人で線香花火とか寂しくならない?」
「結果ふたりいるから大丈夫」
やるだろ?と当たり前のように彼は笑った。やるけど。まるで私が来るのをわかっていたみたいな素振りだ。彼にとってもあの夏は特別なんだろうか。つい私がここに足を運んでしまったのと同じように、確信めいた期待を持っていたというんだろうか。そんな風に振る舞うから、私は変な期待をまた持ってしまって、素直になれない。
彼は花火の袋の封を開けて、こちらに差し出した。お互いに一本ずつ花火を垂らし、彼は取り出した煙草の箱からライターを抜き、火をつける。煙草、吸うんだな。変わったところを見つけては、わからないところが目に付いて複雑な気持ちになる。
それでもデジャヴみたいなこの状況に、まるでまだ夢を見ているような感覚に陥った。
「あの日みたい、」
それぞれの花火に火が灯った。
「勝負?」
「いいよ」
私たちは小さく笑い合う。ジジジ、と小さく花火の先が膨らみ出し、パチパチと小花が不定期に咲き始める。
「負けた方は秘密を言うってことで」
「、は」
「勝負だからね」
罰かご褒美が欲しいよね、と彼は笑って、私はその笑顔が可愛く思えてしまって、渋々頷くことしか出来なかった。
ドン、と少し離れた空ではまだ花火が上がっている。もう後半のラストスパートだ。手元では繊細な花が咲き乱れる。風に揺れないように、手元がブレないように気を使いながら見つめる。
「あ、」
萩原の花火がポトリと地面に落ちた。私が彼を見上げると、彼の視線とかち合う。
「萩原、?」
「ああ。見惚れてた」
「、」
「あの日みたいに」
彼は目をそらさずにそう言って、笑った。私は自分の花火も消えてしまっている事にも気付かずに、彼の笑みからただ目を離さないでいる。あの日をやり直すように、私たちは見つめ合う。
打ち上げ花火の音が止んだ。もうお祭りは終わりの時間だ。
「好きだ」
彼はしゃがみ込んだまま、私の目を見たまま言った。静かになった夜の中で、街灯だけがジジジ、と小さく鳴っている。
誰が、何を?
私は咄嗟に理解できずに、言葉を返せない。
「やっぱ俺、なまえがいいわ」
そう微笑んで、それからさすがに照れたように視線を外して立ち上がった。
「これが俺の秘密」
いつかのように、こちらに手を差し出す。いつかと違い、私はその手に自分の手を重ねて、支えられながら立ち上がる。
「だから俺と、」
「っ私、も、」
「、」
彼が言い切るより先に、ずっと用意していて、ずっと言えなかった言葉を喉から押し出す。
「…好き」
重なったままの手が汗ばむようで、心臓の音も早まるようで、彼を見ることが出来ない。
「勝ち負けとかじゃ、なくて。もう、秘密にしたくなかったから、」
彼が、私を好きだと言ったからじゃない。次に会えたら、伝えようと思っていたのだ。こんな風に伝える事になるとは、思わなかったけれど。
彼は重ねた手を引いて私を引き寄せると、手を離す代わりに両腕で私を抱きしめた。
「嬉しすぎるし可愛すぎるんですけど」
「なっ」
「すげー好き」
「っ、」
「あー、好き」
「ちょっ、わかったから、苦しい…!」
彼のシャツを引っ張り訴えると、彼は少し腕の力を緩めて私を見た。真っ赤だ、と私の顔を見て笑い、なまえかわいいすき、とまたのたまった。なんだこの馬鹿の一つ覚えみたいな誉め殺しは。
「ね、もっかいちゃんと言って」
「は、」
「お願い」
語尾にハートマークでもつきそうな調子で言った彼の笑顔に、私は昔から弱いままだ。ぐっと覚悟を決めて、口を開く。
「私も、萩原のこと、好き」
確かめるように言葉を紡ぐ。彼の口元が緩んだ。
「俺と付き合ってもらえますか?」
さっき私が遮った言葉の続きだった。私は頷いて、はい、と小さく返した。
彼は照れて俯く私の頬に手を添えると、そっと上を向かせる。優しい瞳と目が合った。
「キスしていい?」
私の頬を撫でながら彼が言う。
「…聞かないで」
彼は私の態度に小さく笑って、耳元で、目閉じて、と囁いた。息が耳にかかって、くすぐったい。私はきゅっと目を閉じた。
優しく唇に触れる。
ちゅ、と音を立ててすぐに唇は離れ、私はそっと目を開けて彼を見る。視線が絡むと、彼は小さく目を見開いて、それからまた唇を寄せた。
「っ、」
啄ばむようなくちづけから、徐々に深くなっていく。しがみつく体は逞しく、そこに少年の名残はない。
「、は」
唇が離れて、息をつく。
彼はのっしりと私に寄りかかるようにまた腕の力を強める。
「はー、無理、止まんなくなりそ」
「はぎわ、」
「名前で呼んで」
「、え」
彼は耳元で私の名前を小さく呼ぶ。私は身動ぎをして、少しだけ体を離して彼を見る。困ったように、彼は眉を下げた。
「もう俺の彼女なんだから誰を気にすることもないし、昔みたいに名前で呼んでよ」
萩原があの子と付き合い始めてから、私は彼を名前で呼ぶのをやめた。いつからだったのか、どうしてなのか、彼は気付いていたのだ。
「………研二」
幼い頃呼び慣れていたその名前を、久しぶりに口にした。なんでか、やたらと気恥ずかしい。
彼はゆっくりと体を離して、口元を掌で覆うようにしてそっぽを向く。
「なに」
「いや、嬉しくてちょっと今見せられる顔じゃない」
「何それ」
私はついその様子が可愛くて笑ってしまう。折角綺麗な顔をしていて、軽薄なノリで歯の浮くような台詞だって平気で口にするくせに、こういうところがある。
あー、と少し間を置いてから、彼は私の手を取った。
「祭りも終わりだし、帰ろーぜ」
私は彼に手を引かれながら、公園を出る。
「子供じゃあるまいし、まだ時間大丈夫だけど」
祭りが終わった頃ということは、午後九時過ぎだろう。電車も気にしない地元では、これから出かけることもあるくらいの時間だ。
「んー、一緒にいたいのは俺もなんだけど」
繋いだ指先に力がこもる。
「子供じゃないとはいえ、とどまれる気がしないんだよねえ」
「何を?」
「…ナニを?」
半歩先を歩く彼は振り返らずに、いや、さっきみたいにきっと振り向けずに言う。
「…ばかなの?」
「あんなあ、俺も男なんだぜー?」
「わかってるし」
「大事にしたいから、今日はお預け」
「…別にいいのに」
きゅっと、指先を握り返すと、彼は立ち止まって私を振り返った。
「そういうのどこで覚えたの。すげー悔しい」
「は?言ったことないけど、他の人になんて」
「、そういうとこずるいよなあ、昔から」
ずるいだなんて、あんたにだけは言われたくないと思っていたのに。でも、悔しがる彼の姿に、私は口元を緩ませた。
私たちは並んでまた歩き出す。
「いつ向こう戻る?」
「月曜日」
「じゃ、一緒に帰ろ。俺車だし。今、杯戸町なんだろ?どうせ通るから」
「なんで知ってるの」
「おばさんがすげー情報提供してくれたよ」
にっこにこで研二のことを話していた母を思い出す。スーパーからの道のりという短い距離だというのに、得た情報量と流した情報量がかなりありそうだ。
「ん、わかった」
「明日の予定は?」
「えーっと、昼は高校の友達と会うよ。夜は瞳と美幸と宮地とご飯。来る?」
「行く行く。その後は俺が予約するから深酒しないように」
その後って、と一瞬考えて、さっきの話の流れを思い出し、一拍おいてまるで何でもないようにうんと頷いた。彼は満足そうに笑う。
家の前まで来ると、手を離すのがなんだか名残惜しい。
「じゃ、また明日ね」
ゆっくりと指先が離れて、私たちは向き合って視線を交わす。
「おう、」
彼はそっと顔を寄せて、私はついきゅっと瞳を閉じる。彼の唇は、唇ではなく額に触れた。
じゃ、と一歩下がって、彼は目を細める。
「やっぱり似合うな、浴衣」
いつかみたいに笑った彼を見送る。あの日に無理やり置いてきたいろんなものを、やっと取り戻したみたいに、ひらひらと手を振りながら帰っていく彼を見つめながら、口元が緩むのを抑えられずにいた。

家へ入ろうと玄関の門を開けると、玄関の扉が少しだけ開いていて、その隙間からにやけた母の瞳が覗く。
「なっ」
「やるじゃなーい!我が家はもう安泰ね!ね?」
「ちょっと中!入って!」
「ふふふ、ほらこれから事情聴取よ!自白剤はひやおろし!祝盃よ、祝盃!」
「絶対何も言わないから!」
けらけらと笑う母を振り切って、部屋へと駆け上がる。油断も隙もあったもんじゃない。
バレてること、伝えておかないと、と携帯を取り出し、さっき交換したばかりの連絡先の名前を見て、ああ、彼は今、私の恋人なんだな、と思うと感慨深くて、しばらくぼんやりとその名前を見つめていた。





(あの日の花火の続きをしよう)

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