懐かしい夢だった。
目を覚ますと、扇風機の風に乗って畳の匂いが香る。帰省中の私の部屋は、来客用の和室だった。大学の間中帰らずにいたら、去年帰省した時には自室が消えていた。
携帯を見ると、お昼を過ぎたところだ。昼前に帰ってきて早めの昼食を食べた後、疲れて少し横になるつもりが、もう二時間と少し立っている。夕方からは中学の同級生と会う約束をしていた。ゆるゆると支度を始めればちょうどいいだろう、と起き上がり、リビングへと降りていく。
「あら、起きたの」
「うん」
「さっき健二君が来てたのよー」
「は?」
テレビを見ていた母が嬉しそうに彼の名前を口にした。
「健二って萩原?」
「昔から綺麗な顔してたけど、予想を上回るくらいかっこ良くなっててお母さんちょっとときめいちゃったー」
はあ?とコップにカルピスを作りながら声を上げる。娘の同級生にときめくなんて何嬉しそうに言ってるんだ。
「なんで萩原が来るの」
「買い物の帰りに会ったのよ。今日帰って来たんですって。車で送ってもらっちゃった。格好いい上に優しくてモテるでしょうに、今は警察官ですって!ちなみに彼女はいないって言ってたわよ」
「あっそ」
久しぶりに会ってなんてこと聞いて来てるんだろうか。あんたこの帰省中にアピールしときなさいよ、と母は呑気に笑っている。私はカルピスを飲み干して、要らない情報をありがと、と背中越しに言葉を投げ、二階へと戻った。あいつがモテるのは今に始まった事じゃないし、あいつが今どうしていようと関係ない。
夢の中で笑ったあの顔を思い出す。ふぅん、警察官ね。随分とチャラい警察官だこと。私はさっさと支度を済ませて、早めに家を出ることにした。

五時のチャイムがまだ明るい街に響く。
久し振りに会った友人は、カフェに入って早々にさっき聞いたような話を口にした。
「萩原も帰って来てるらしいよ」
「あー」
私は気のない返事を返す。彼女は私の様子に、もう知ってた?と首を傾げた。母が買い物帰りに送ってもらったらしい、と、その母に受けた説明をざっくりと話す。
「おばさんが舞い上がるのも無理ないわ。大学卒業する前だったかな?年末に帰って来てた時ちょっと会ったけど、確かに期待以上のイケメンだった。ありゃおばさま方にモテる顔だわ」
彼女は昔から、萩原の顔はいい、と力説していた。キャラがダメだわ、顔はいいのに、と失礼なことを本人の前でも言っていて、本人はその度に顔面に免じて許せ、と笑っていたのを覚えている。
私はアイスコーヒーをストローで飲みながら、ふぅんと相槌を打つ。まあ顔がいいのは認めるけど、それだけじゃね。
彼女は私の様子を眺めてから、また口を開く。
「そういえばさ、高校一年の夏祭り、覚えてる?」
覚えているも何も、ずっと忘れられないでいるなんて言えるわけもなく、うん、とだけ頷く。
「あの日あの後、別れたらしいのよあの二人」
どきりとする。どうして今更そんな話を、と思いながら、へぇ、と返す。
「あれ、あんたが原因なんじゃないの?」
「っ、は?」
コーヒーを吹きそうになった。何がどうしてそうなるのか。
「最後の方、あんたイチャイチャしてたじゃん」
「してないし」
「してたしてた」
花崎と一緒にいるの見て、萩原あんたにちょっかいかけに行ってさ、今度は二人で花火始めて見つめ合っちゃってさ。
「あれ、すんごい顔で見てたよ、あの子」
よく覚えてるな、と思う。私にとってはともかく、彼女にとってはなんの変哲も無い夏の恒例行事でしかないはずなのに。
「だから二人が別れたって風の噂で聞いても、ついに萩原フラれたんだろうなーと思ってたんだけど」
成人式の集まりで、どうやらフラれたのはあの子の方だとわかったという。今まで彼女がどんなわがままを言っても、束縛しても、浮気疑惑が出た時さえそれを許してきた、あの萩原が振った、と盛り上がったらしい。うっすら気付いていたけれど、萩原もとんだ女を引っ掛けたものだ。若気の至りとは恐ろしい。
「あんたも萩原も来なかったから、もしかしたらあんたたちがついに付き合ってんじゃないかって声を大にして言いふらしたわ」
「おいやめろ」
彼女はカラカラと笑って、でも両思いだったじゃんあんたたち、とまた爆弾を投下する。
「あの子とはまあ付き合ってたけどさ、正直私たちは全然あんたたちのほうがセットだと思ってたわよ」
「セットって」
「しっくりくんのよねー。なまえと萩原って。二人揃うとなんか落ち着くっていうか」
私はいつかのあいつの言葉を思い出す。みんな勝手だ。こっちはさっきから、ちっとも心が落ち着かない。
「幼馴染だから、見慣れてるだけでしょ」
何年会っていないと思っているんだ。そろそろ、そういう少女漫画みたいな肯定感から抜け出したっていいのに。
私は一度お手洗いに立って、それをキッカケに話題を変えることに成功し、相変わらずの下らない世間話に花を咲かせた。
彼女は恋人と同棲していて、晩御飯は一緒に食べることになってるから、と日が暮れる頃に別れた。
彼女を駅まで見送って、私は歩いて帰る。高校時代に通った道た。昼間見た夢を思い出す。いつだって彼は思わせぶりだったけれど、じゃあ彼が私のことを好きだったかなんてわからない。じゃあ私は好きだったのかなんて、否定しかしてこなかった。してこなかってけれど。
黙々と歩く。街灯は続々と灯りを灯す。まさか、偶然、出会ったりなんて。しない、しないけど、もしも会ったら、何を話そう。ああ、こんな調子で、この帰省期間、私の心臓はもつのだろうか。

行ってきますと出がけに告げて、家を出た。買ったばかりの深い藍染めの浴衣を着て、おばあちゃんにもらったクリーム色の紗の名古屋帯を締めた。街行く浴衣の女の子たちは、襟元や帯にレースをつけていたり、兵児帯でボリュームをつけてふわふわとしているけれど、私はシンプルな浴衣が好きだ。学生ではなくなった今、少し大人の着こなしが出来ることも楽しい。
見せる相手もいないのに、と、浴衣を買ってきた私に文句をつけた母だったが、出がけには、健二君に会うかも知れないしね、なんてニヤついたので無視してきた。人の気も知らないで。
母が他に言うこともなかったのは、私が一人でお祭りに行くことを知ってのことだろう。なんだかんだで、むしろ今日のこの時間だけ、誰とも予定が合わなかった。もともとお祭りは行くつもりだったし、浴衣も着るつもりだったので、行かない理由にはならずにこうして足を向けている。
夏の暮れの賑わいが、単純に好きなのだ。浮かれた下駄の足音も、騒めきに混じる軽快な祭囃子も、甘かったり香ばしかったりする屋台の匂いも、楽しい気持ちと懐かしい気持ちに、少しだけ夏の終わりの寂しさが混じるこの空気が、好きだ。
小さな子供が満足そうに綿あめの袋を抱きしめて歩く。小学生たちが光る腕輪をたくさんつけて駆けていく。大人たちは子供にせがまれて屋台に並ぶ。学生が通りの端で固まって話している。恋人たちは触れそうで触れない距離で並んで歩いていたり、べったりと暑苦しいくらいにくっついていたりする。
私はその中を一人、人混みを縫って歩く。私の中のお祭りの定番菓子はやはりりんご飴だ。屋台のおじさんは浴衣姿を褒めてくれて、小さいりんご飴の料金で大きいりんご飴をサービスしてくれた。単純に嬉しくて、にこにことしてしまう。
街並みは少しずつ変わったけれど、お祭りのこの雰囲気は昔と変わらないことがなんだか嬉しかった。
「あれ?みょうじ?」
りんご飴を齧りながら歩いていると、男の声が私を呼んだ。振り返ると、見覚えのある顔と目があった。
「あー、…花崎?」
「おう。久しぶり」
「誰かと思った」
野球少年だった花崎は、記憶の中ではいつも坊主頭でだったけれど、さすがに今はもう普通のショートヘアだ。しかし、相変わらず好青年の雰囲気は変わらない。
「ひとり?」
「うん、みんな予定合わなくて」
「あー、」
彼は何か思い当たるのか、少し苦笑いした。何?と首を傾げる私に、いや、と下手くそに誤魔化した。
「なんか、綺麗になったな」
「、言うようになったな。浴衣マジックかな」
「んなことないよ。昔も着てたじゃん」
昔から知ってる人にストレートに褒められるのは、なんだか気恥ずかしい気持ちになる。
「俺、昔みょうじのこと好きだったんだよなー」
「は?初耳、」
「そりゃあ、言ってないから」
告っとけばよかったな、惜しいことをした、と彼は続けて、私はますますどうしていいかわからなくなる。
「そんな顔するなよ。昔のことだし、俺今彼女いるし」
そう言って、両手にひとつずつ持ったかき氷を持ち上げて見せる。
「まあ、告ってても振られてただろうけど」
「う、」
「みょうじってあいつのことしか見てなかったし」
「うん?」
確かに、私は彼をそんな風に見たことはなかったけれど、彼の言うあいつとは、誰のことなのか。わかっているくせに、私は知らないふりをする。彼もそれが誰かなんて、その名前を口にはしない。
「…じゃ、俺、彼女待たせてるから」
そう踵を返す彼に、うん、と手を振りかけたところで、彼は思い出したように振り返った。
「花火やった公園さ、来年には潰されるんだってさ」
それだけ言い残して、彼はじゃあ、と人混みに消えていってしまった。花火をやった公園、なんてきっとあの公園しかない。なくなるから、なんだって言うんだろう、と思いながら、また私は人混みに紛れた。あと三十分もすれば打ち上げ花火が始まる。
なんだって、言うんだろう。私は、まさかね、と思いながらも、人混みから外れて思い出を辿るように歩みを進めていた。




(あの日の花火の続きをしよう)

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