今日は大学の友人の結婚式だった。当時ダメ男に引っかかっては私に泣き付いてきていた彼女は、いい人だというのが笑顔から滲み出るような旦那様の隣で、美しい花嫁になっていた。既婚者や子持ちが年々増えているのは知っているが、今回一緒に参列した同級生の中で、独身者はまさかの私だけだ。
「はあ私も結婚とかしたい人生だった」
グラスの中で氷が溶けて琥珀色と透明な液体がうねっているのを眺めながら呟いた。参加者に家庭がある人が多いため、二次会でお祝いは御開きとなり、飲み足りない私はひとりいつものバーで飲み直していた。
「すればいいじゃないですか、そんな相手がいればの話ですけど」
カウンターの中でグラスを拭きながら微笑む見目麗しい男は、同期であり上司だ。すっかり忘れて入店してしまったけれど、今彼は潜入捜査でこのバーのバーテンダーを勤めている。
ブラック企業も驚きの働き者である私たちに恋人を作っている暇がないことはこの男もわかっているはず。いや、彼は器量がいいから、その合間にでも恋愛ができるのかもしれないけれど。
「ほとんど職場と家の往復しかしてないんですから、出会えもしませんよ」
「職場恋愛という手もあるじゃないですか」
「ふる…お兄さん、仕事仲間をそんな目で見ちゃうタイプですか?」
「さぁ…。あまり意識したことはないですが、可能性はあるんじゃないでしょうか」
見知った仲でもお互いに猫を被ることは得意だ。仕事上身に付けた技術でもある。同期であり上司、部下であるため、どちらの顔でいればいいのかは状況によって異なる。今日はたまたまそれがバーテンダーと客というだけだが、自分がプライベートだと思うと少しむず痒い。
「仕事仲間ねえ…。それなら裕也くんかなあ」
彼がほんの一瞬だけ動きを止めたのを、私は気付かないままウイスキーに口を付ける。
「…へぇ、いい人がいるんですか」
「いい人っていうか。職場の先輩なんですけど」
「下の名前で呼ぶんですね」
なんとなく声が低い。機嫌が悪いのだろうか。まあ、彼は一応仕事中だし、捜査中に部下の完全にプライベートなどうでもいい話に付き合うのは、彼からしたらそれなりに無駄なことだろう。しかしなんとなく付き合ってくれているのは、ほかに客も少なく閉店時間が近づいてきているからか。
「実は小さい頃近所に住んでて、よく遊んでたんです。仕事中はさすがに名字で呼びますけど」
「幼馴染が職場にいるだなんて素敵ですね」
「最初はちょっとホッとしましたよね。でもうっかり名前で呼んじゃうとお姉さん方に睨まれちゃうから」
へぇ?と彼は首をかしげる。裕也くんこと風見裕也は私のひとつ先輩で、つまり私と同じく彼の部下である。余程のことがないと私達と彼らが接触することは少ない。私はたまたま彼の素性を知っているのもあって、その方が話が早いと判断された場合はご指名で捜査を共にすることもあるが、しかし彼の同僚とは会ったこともないし、私の他にも限られた何名かは接触を持っているらしい。
彼の頭なら公安警察全体の顔と名前を暗記していそうだが、裕也くんのことも知っているのだろうか。最近よく単独で捜査に入っているから、彼も警備企画課の誰かとの捜査が多いのかもしれない。
「彼、わりと人気あるんですよ。真面目すぎるけど、そこが可愛いって。たまにふっと素が出るところなんて見たらたまらないと評判です」
年上に可愛がられるだけならともかく、この間は同じ内容を後輩からも聞いたので、裕也くんは意外と天然たらしなのかもしれない。しっかり者のはずなのに、なんとなく放って置けない感じは私もわかる。それを言ったら目の前の彼も同じだけれど。
へぇ、とまた呟いたきり言葉が続かないので様子を見ると、目が合った。
「?」
「…ラストオーダーの時間ですが、どうします?」
グラスのウイスキーはもう少ない。
どうしようかな、と迷っていると、送るからもう少し飲んでろ、一人だけ残っている他の客に聞こえないようにとひっそりと呟いた。そこまでしてもらわなくてもいいけど、断る理由も特にない。言い出したことは譲らない人なので、理由がない限りは彼のいう通りにするようにしている。
「じゃあ、同じのをお願いします」
「かしこまりました」
彼はにこりと営業用の顔で微笑んで手際よくウイスキーをもう一杯私の前に差し出し、それから他の客にもオーダーを確認しに行く。反対側の端の席に座っていた男性はここで切り上げて帰るようだ。会計をし、彼は出口まで見送りに行く。
顔は良いんだよな、と改めてぼんやりと思う。白いシャツにネクタイ、ジレ。その服装がよく似合う。同じ歳とは思えない可愛い顔をしているが、身長も高く無駄のない筋肉のつき方をしている。上司としてははちゃめちゃに厳しいが、根底の優しさも見えるので、こちらのハートさえ強ければ理想の上司だろう。警察学校にいる時や交番勤務の時なんかも、みんな憧れの目で見ていた。
裕也くんの人気とそれはきっと別物だ。彼を狙う女性も多いし、秘密の多い部署でなければファンクラブだって出来ていてもおかしくはない程だけれど、完璧過ぎて近寄り難い。現実味がない、というか。同期としては警察学校での様子も見ているし、まわりの特別視に対して彼も同じ人間なのにな、と思うことも多い。
カラン、とドアでベルが鳴って、彼が店内へ戻ってくる。ドアが閉まると、彼はすこしネクタイを緩めた。何をしても絵になる男だ。
「ああいうのが趣味か」
「え?」
「風見裕也だろう?」
「ああ、」
唐突に、同期の顔になった。作り物の笑顔が消える。さすがだ。やはりわかるものなんだな。
「趣味っていうか、あえて挙げるなら、一番気は許してるかなあって。まあでも裕也くんに限らずそんな風に見たことないし、そんな気もないけど」
くるくると氷を回す。彼はカウンター内に戻って、片付けを始める。
「結婚なんて全然するつもりないじゃないか」
そういえばそんな事から話を続けていたんだった。結婚式は参加するたびにいいものだな、と思うけれど、いつでも私のポジションは参列者でしか想像がつかない。美しい優しい空間に立ち会うことが嬉しいのだ。あの白を纏う自分も、その隣に立つ人も想像はつかない。
「だから過去形でしょ。出来るもんならしたかったなあ、って話。三十路手前にもなると、家族っていうものを考えたりもするの」
親もいい年になってくる。孫の顔も見せてやりたい気持ちもある。仕事には誇りを持っているけれど、このまま忙しさに追われて駆け抜けて、気付いたら独りぼっちになっていたら、と思うと自分が居た堪れない。親よりは先に死ねないとは思っているけれど、復帰出来ないほどの怪我をしたらどうしようとも考える。現状に不満はない。ただ、ふとした瞬間に、不安が過ぎる。
「とはいえ、今から出会ってもこれから関係を築いていくのなんて考えただけでやってられないわ。デートのひとつも碌にできる気もしないし」
「その気がないから面倒に思うんだ。ハニートラップなんかお手の物だろう」
「仕事とプライベートは違うのー」
意図的にしているわけでもないが、自分の恋愛モードをオフにしているからこそハニートラップなんて仕掛けられるのだ。そうやって擬似的な恋を演じているからこそプライベートで恋なんて出来ないのかもしれない。
「裕也くんかー。昔は好きだった頃もあったなあ」
「、」
ガシャン、と音がした。グラスの割れる音だ。彼にしては珍しい。疲れているのかもしれない。私はカウンターチェアから立ち上がろとするけれど、すぐに彼に制止されてしまった。彼が自分の指をペロリと舐めた。
「待って、絆創膏持ってるから」
「これくらい大丈夫」
「私が見てて痛いから貼って。ほら、手」
カウンター越しに手を出すと、彼は驚いた顔をしてから渋々自分の手を差し出した。指先まで綺麗だな、と思いながら、傷口からじわじわと溢れる血を遮るように絆創膏を貼る。
「はい、よし」
パッと手を離して彼を見上げると、ぼんやりとした様子でこちらを見ている。絆創膏を持っているなんて女子力を発揮した私が意外だったんだろうか。いや、それが女子力というのも滑稽な話かもしれないけど。
「…悪いな」
「いーえ」
彼は手を引っ込めてまた作業を開始する。洗い物を終えてあれこれをしまうと、表の扉の鍵を閉めた。
もう出られる状態らしい。ということは、あとは私のグラスを空くのを待つばかりか。彼も飲めばいいのに、とは思うけれど、学生の頃馬鹿みたいに飲んでいた彼は、今はもう必要のない限り自らアルコールを口にすることはない。
「風見は有望株だよ」
「狙ってる子に伝えておくわ」
「君に言っているんだ」
「そんなことを基準にするなら、降谷くんの方が有望株でしょ。突っ走るからハラハラしちゃうけど」
私は残り少ないウィスキーを一気に飲み干した。私たちの同期は事件や事故で何人もいなくなってしまった。みんな優秀な刑事だった。生き急いでどこかで死んでやしないだろうかと心配されていた彼が残されているなんて不思議な話だ。
「それも嫌なのかもなあ。同僚や友人を亡くすことがこんなに悲しくて、恋人や旦那さんなんて作った日には、失うことがこわくて気が狂いそう。この仕事を続ける限り、自分の命だって危うくて、大切な人に遺される辛さも身に染みてるわけよ」
昼間はあんなに幸せで暖かな空間にいたはずなのに、だからこそなのか、何をこんなに湿っぽいことを言っているんだろう、とふと気付く。酔ってしまったのかもしれない。自分には得られない幸せを、私は妬んでいるんだろうか。言い訳がましくて情けない。
同じ歳で、同じ仲間を失っている彼に甘えてしまっている。
「やめよう、帰ろう。ごめんね、仕事中なのに」
そう立ち上がろうとする私をエスコートするように、彼はとても自然な動作で手を差し出した。私もつい、その手を取ってしまう。暖かい手だ、と思った瞬間に、口が滑った。
「ねぇ、私たち結婚しよっか」
彼に手を取られて目が合った瞬間だった。イスから降りようとしていた事すら忘れ、何を言ったのか自分でも理解が出来ずにただ瞳を見つめることしか出来ない。
「は、」
「ごめん、いや、でもアリな気も」
「冗談なら聞き流してやる」
降谷くんは目を逸らさない。私、酔っているな。昼間の余韻に当てられた?しかし我ながら良案では?もちろん彼にも選ぶ権利はあるので、断られたら冗談ということにしてもいい。
「わりと、本気」
彼は目を丸くして私を見つめ返した。見慣れた美しい顔は未だに飽きない。珍しく驚きを露わにしていることにも、その瞳に拒絶の色が見えないことにも、むしろこちらが驚いている。
考えてもみれば、顔もよく仕事もできて稼げる上に、命を落とすかも知れないリスクだってお互い様だ。警察学校からの仲で馬鹿な時期も一緒に過ごしていて、まさかあの頃以上の恥はこれから出まい。上司としても友人としても尊敬できるし、男性として見たって、多少性格に難があるといえばあるけれどそんなのはもう慣れっこだし、それ以外は冷静に考えて魅力的でしかない。
彼は私が言った言葉に一度考えるようなそぶりを見せて、それからふっと小さく息を吐くと、ポケットから何かを取り出した。それをそっと私の指にそれを通す。
目を疑うとはこの事だ。
「プロポーズしたの、私だよね?」
「思いつきと一緒にしてほしくないな」
「た、確かに計画的犯行としか思えない…」
「当たり前だ、計画してたから」
私の薬指には、シンプルだけどこだわりの見える指輪が輝いている。恐ろしく私好みで、驚きを通り越すほどぴったりだ。準備の良さから、なるほど今勢いで言った私とは訳が違う。
しかし、つまりどういう事だ。プロポーズしたのは私で、指輪を用意していたのは彼。そうなると途端に相手の正気を疑いたくなる。
「次の捜査での設定とか、そういう話?」
「君の仕事はしばらくデスクワークだろう。その後加わるであろう捜査があるが、それに俺は関わらない」
「…じゃあトラップ?私が変なこと言い出すの予測して試されてる?」
「みょうじが変なこと言い出したのは予想外だよ」
少し拗ねたような顔をしているのが可愛らしい。
「………降谷くん照れてる?」
「うるさい」
ああなんてずるいんだろう。何がずるいって顔がいい。そんな顔で照れて目線を外してしまうその様子に、ドキドキしないわけがない。同じ年の男性とは思えない可愛さだ。そこそこ長い付き合いの私でも、意識しないなんていうことの方が無理だ。
「約束してあげる」
「……何を」
「あなたを残して居なくならないって」
私のプロポーズが続いていた。
恋人でもないのに、この人は私にプロポーズすべく指輪を用意していたということだ。そこまでしている癖に、そんな素振りを見せないままあんな照れながら指輪をはめてくれた。散々言い訳を垂れ流した酔っ払いの私の戯言を、ちゃんと受け止めてくれた。
こんな人を絶対に悲しませたくはない。
「なんで君がそれを言うんだ」
「愛してるより本気っぽいでしょ」
私が笑うと、彼は悔しそうに私を睨んでから、まだ掴んだままだった私の手を引っ張って私の体を抱きしめた。
「、結婚しよう」
酔った私よりも熱い体温に包まれた。お互いの鼓動が聞こえそうだ。
「うん」
私はその背中を抱いて、そう頷いた。



帰りの車内で、隣に座る降谷くんの顔をひたすら眺めていた。
「何」
いつものポーカーフェイスが嘘のように、さっきからずっと照れっぱなしで可愛い。
「いつから意識してたのかなって」
「言わない」
「ですよね。私、鈍感なのかな」
どちらかというと降谷くんはいけいけどんどんでアタックしていくタイプだと思っていたけど、それこそ仕事でなければ案外奥手なんだろうか。その割にはこんなに素敵な指輪を用意しているなんて、やっぱりちょっとズレている。
「風見はもういいのか」
「裕也くん?なにが?」
「…ちょっといいと思ってたんじゃないのか」
「だから、無理やり名前を挙げるならって話」
これはやきもちなんだろうか。照れと混ざって、表情が読み取りにくいけれど、そういえばさっきも裕也くんの話を出してからちょっと様子が違った。
仕事に生きている真面目な彼は、もしかして恋愛に対してとてもピュアなのかも知れない。
「………零くん」
「、っ」
「わ、」
信号で止まろうという時に呟いた私の言葉に驚いて、急ブレーキになる。前のめりになる私の前にさっと手が差し伸べられた。細く見えるのに逞しい腕だ。
「急に何だ!」
「婚約者なんだし苗字でずっと呼ぶのもなって思って。ごめん、そんなに動揺するとは」
「動揺してない」
じゃあ今の急ブレーキは何だったんだ、と思ったが、その強情さがますます可愛い。彼の正義感の強さも律儀さも知っているけれど、こういう面は初めて知る。
信号が変わって、再び車は動き出す。
下手なことを言ってまた怒られてしまうといけないので、それからは雑談を控えた。彼も特に何も言わなかったし、その沈黙も気まずさなどなく楽だった。意識してみれば尚更のこと、彼との空気は居心地がいい。私は勘が冴えている方だと言う自負はあったが、言ってみるものだな、と心の中で当然のプロポーズを自画自賛してみたりした。
心配性の彼は、マンションの入り口ではなく部屋の入り口まで私を送ってくれる。鍵を開けて、ドアに手をかけたところで、ふと振り向く。
「ちょっと上がっていく?」
なんとなしに言うと、また彼は照れているのか怒っているのかわからない顔をした。
「そんなに簡単に男を家に誘い入れるな」
「いや他の人ならここまでも入れないし零くんだから聞いてるの」
「ーっ、今日は遠慮する」
名前呼びに慣れないのか、動揺が顔に出ている。ああ、だめだ、いちいち可愛い。つい可愛くない私のいたずら心がくすぐられる。
「そっか…、いきなり過ぎるよね。零くん忙しいし、煩わせたいわけじゃなかったの、ごめんね」
そう眉を下げて笑うと、彼は少し慌てて弁解した。
「違うんだ、そうじゃなくて」
「うん、?」
「……その、」
口元に手を当てて、そっぽを向いた。
「今日綺麗にしているし、我慢できそうにない、から」
顔を真っ赤にして、言った。
途端に、こちらまでカッと顔に熱が集まるのがわかった。そこまで考えてからかったわけじゃなかった。そっか。そうだ。恋愛が久しぶりすぎて色々と考えが及んでいなかった。しかも綺麗だなんて、何もしなくても綺麗な人に言われると思っていなくて、それにも動揺してしまう。
「ああ、あー、そっか、ごめん私ちょっと浮かれて軽率なことを…」
いくら可愛い顔をしていても、彼も男なのだとようやく自覚した気がする。当たり前のことなのに、そうか、これが意識するということか、と改めて感じる。
「ええと、じゃあ、また明日、かな」
どぎまぎしながら、ドアを開ける。
「待って」
いうやいなや、彼は私の手を引いて振り向かせた。柔らかいものが、頬に触れる。
「じゃあ、おやすみ、なまえ」
「…お、やすみなさい、っ」
私は彼を直視できないまま、逃げるように玄関へ入りドアを閉めた。
鍵、ちゃんと締めて、と声が聞こえて、慌てて鍵を掛けた。その音を確認してから、足音が遠ざかるのを確認して、その場にへたり込む。先程彼の唇が触れた頬を、片手で抑える。
これはずるい。頬にキスなんて、唇にされるより、ずるい。なんだあの可愛い生き物は。私は顔の火照りをうまく冷ませないまま、右手の薬指に輝く指輪を見つめながら、しばらく口元を緩ませることしか出来なかった。




(想定外のプロポーズ)

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