三徹目の朝を迎える頃、休憩所でコーヒーを飲んでいた時だった。
「なまえくん、最近風見刑事との距離が近いんじゃないか?」
突然の言葉に、一瞬何を言われたのかわからなかった。声に目を向けると、一つ先輩の加藤刑事がコーヒー片手に立っていた。いたのか。
「…そうですか?捜査一緒なんで、一緒にはいますけど」
そもそもデスクワークでは席も離れているし、やりとりもメールが多いため一緒にはいない。薄々勘付いてはいたが、なるほどこいつがこそこそ私を付け回しているやつの一人か。
「捜査とはいえ男同士じゃないんだから、気を遣ったほうがいい。周りが勘違いするだろう」
誰が何をどう勘違いするというのか。ていうか男同士で距離が近い方が私が勘違いするしむしろ応援するし詳細が知りたい。
そもそも私を付け回すやつがいるから、風見さんにこそこそ指示して撒きながら動かないといけないんじゃないか。それを怠って童顔上司に迫力の怒りをぶつけられるのは私なんだ。下手したら捜査から外されかねない。ただでさえ最終突入に本庁に残されて事務処理に回されてるというのに。
「君が軽い女に見られるのは僕も心苦しい」
「はあ」
「僕という男がありながら、他の男に色目を使う女だなんて噂されたら」
「はあ?」
話が見えずについ声に出た。この男が担当している事件については今朝方全ての処理が終わったと別の担当刑事から聞いていた。それなのに何をまだ居残っているのかと思っていたら、意味のわからないことを言い出す。疲れてるのか?今夜帰れなかっただけのくせに?三徹目の私の前で?ああ、いや個人の能力差に文句をつけるのは駄目だぞ私。
「加藤刑事、話が見えません」
「徹夜明けで疲れているんだろう、仮眠でも」
「平気です。単純にあなたの言いたいことがわかりません」
仮眠を取る暇もなければ、本来ならこんな話に付き合う暇もない。思考能力はもちろん通常から落ちていようけれど、正常でもわからないものはわからない。
彼はわざとらしく盛大にため息をついた。
「ハッキリ言おう。僕という恋人がありながら、他の男と必要以上に距離を縮めるのはやめてくれと言っているんだ」
癪に触る。なんの話だ。初耳だ。そういえばさっき私のことを下の名前で呼んでいた気がする。気持ち悪いな。
「私は加藤刑事と恋人になった覚えはありませんが」
「仕事の忙しさで恋人のことすら忘れるような女だったなんて寂しい限りだ」
「私に恋人はいませんし、作るつもりもありません」
「そう偽って風見に取り入ったのか」
「話聞いてました?捜査です」
ドン、と彼は缶コーヒーを勢いよくテーブルに置いた。衝撃で中身が少し溢れてしまっているのが気になる。
「じゃあ君は僕を弄んだのか!」
「弄ぶって…」
「婚約指輪だって予約してある!」
「婚約指輪…」
いやいやいやいや知らんがな。どこをどうやったらそう勘違いできるのかわからない。嘘でしょ。
私は疲れで、疑問や苛立ちよりもただただ面倒で仕方なかった。
「わかりました、わかりました。じゃあ私と加藤刑事が恋人関係だったとしましょう。今ここで別れてください」
過去のことならなんだっていいから、事実でも嘘でもいいからどうだっていいから、今からの話をしよう。
「なんなら婚約指輪の納品まで待ってもいいです。プロポーズでも何でもしてください、誠心誠意お断りさせていただきます」
言い終わる頃には、相手の顔は真っ赤に染まって、犯罪者のそれとよく似た目をしている。なぜこんな男が公安にいるのか。
彼が怒号を発するためかスッと息を吸い込んだ、その瞬間。
ガコン、と自販機から缶が吐き出された。
咄嗟に、彼も私も自販機へと視線を向ける。長身の黒服の男が、長い足を折り曲げて自販機の口から缶コーヒーを取り出していた。
「あ、赤井さん」
「やあ。取り込み中のところを邪魔したかな?」
なんてわざとらしいんだろう。彼は振り向いてにやりと笑った。今日もかっこいいなおい。いつの間に居たんだ。
「お帰りなさい!終わったんですね!」
「ああ、降谷くんが君を探していたぞ」
「え」
ばっとジャケットやパンツのポケットを押さえる。しまった、携帯、デスクに置いたままだ。
「すぐに戻ります!」
「まだ話は終わっていない!」
休憩所を飛び出そうとした私の腕を、加藤刑事が掴んだ。私は掴まれた途端に自分の腕を捻り、その手を振り払う。
「勤務中です。仕事に戻ります」
「まだ話が終わっていないと言っているだろう」
はあ、とついにため息が出た。
「それでもあなた公安ですか」
この国を守るために動くべき私たちなのに、私情を優先するとは。事件に大小はないけれど、こちとら警備部企画課が絡んでいるんだぞ。なんならここにいるFBI捜査官だって共同捜査で動いている案件だ。
「フッ」
赤井さんが、小さく笑った。私は赤井さんを見上げる。
「何がおかしい」
加藤刑事が、噛みしめるように尋ねた。
「いや。降谷くんの部下らしいと思ってな」
「褒めてますそれ?」
「ノーコメントだ」
はあ、赤井さんが人の言葉に降谷さんを思い出すなんて尊い。是非突入に参加して二人が仲良く協力して立ち向かう姿を拝みたかったものだ。こんなことを思っているから外されたのかも知れない。
「俺と彼女の二人の問題だ。部外者は黙っていろ」
この男は彼のことをわかって言っているんだろうか。
「なるほど…」
なるほどではない。というか、赤井さんが言ったことが本当なら、私はもうそろそろ仕事に戻らないと本当にまずい。風見さんに叱られるならちょっとご褒美だが降谷さんにブチギレられるのはまずい。社会的に命がない。
「それなら俺の問題にもなるな」
「なぜ、」
「俺はなまえと恋人同士だからな」
「「はあ!?」」
不本意にも加藤刑事と声が揃ってしまった。いやそりゃあそうでしょう、さっき以上に寝耳に水だ。
「ああああかいさん…?何言って…?」
「こういうことになっているなら、隠すこともないだろう。俺も、恋人が他の男に言い寄られているのを見過ごせるほどドライではないしな」
待って待って待って、なんだこれ、夢?夢なのか?デスクで寝落ちしてて帰ってきた降谷さんにガチめに叩き起こされるオチ?どういうこと?え、ていうか赤井さんが私のことなまえって?どこの少女漫画だこれ?
「う、嘘をつくな!」
「嘘じゃないさ。君のような勘違いと一緒にしてもらっては困る」
「勘違いじゃない!俺は彼女を愛している!それに、彼女だって…!」
叫ぶ加藤刑事を眺め、赤井さんはどうなんだ?と言うようにこちらを見る。
いろんな意味でないですし、そんなことよりもう本当に戻らないといけない。まじで。
私は決心して、ひっそりと深呼吸をした。すっと、隣に立つ赤井さんの腕に自分のを絡めた。
「私が愛してるのはこの人だけです」
もうどうにでもなれ。見上げた先で、赤井さんの口元が笑った。
「そういうことだ」
「恋人はいないとさっき言ったじゃないか!」
なんだよちゃんと聞いてたんじゃないか。
「隠してたんです。FBI捜査官とお付き合いしているだなんて、大声で言うことじゃありませんし、増して仕事の場でなんて尚更」
「FBI、捜査官…赤井…?」
いくら彼が有能な刑事でなくても、この職場にいるからには彼の存在を知らないわけがない。その名前に怯みながらも、まだ身を引く様子はない。
「しょ、証拠を見せてみろ!」
どこの容疑者の台詞だろうか。彼は自分の滑稽さについに気付かない。
「証拠か」
赤井さんは、少し考えてから私を見下ろした。私の腕を絡めたまま腰を引き寄せ、ぐっと引き上げると、反対の手で私の顎を取った。
声を上げる暇もないまま、唇を塞がれた。
一瞬何が起こったのかわからずに目を見開いたけれど、赤井さんの顔が近すぎて思わず目を閉じた。
唇の隙間から、彼の舌が入り込む。
「…っ」
呼吸と唾液が混じる。ぎゅっと彼の上着を掴む。
やけに時間が長く感じた。
「っは、」
唇が離れると、赤井さんはぺろりと唇を舐めてから、ちらりと加藤刑事を見た。
「これで満足か?」
濃厚なキスシーンを見せつけられた彼は、顔を真っ赤にして、走って休憩室を出て行った。
「な、あ、赤井さん、何を…」
私が口元を手で覆って絶句していると、背後から視線を感じてぞくりと寒気が走る。

「赤井秀一」

聞き覚えのある声だ。
しかも、私の知る声のさらに上をいく御機嫌斜めもいいところの最悪の声音。
「俺の部下に何をしている」
錆びついたブリキのおもちゃになった気分で首を捻り振り向くと、そこにはもはや殺気を纏っていると言ってもいいほどの剣幕でこちらを睨む降谷さんと、その後ろで青ざめ困惑する風見さんが立っていた。




帰路に着いたのはそれから約二十四時間後のことだった。降谷さんには事情をおおまかに説明し、それはそれで大事なタイミングに連絡手段も持たずデスクを離れていたことにブチギレられ、しかしやることはやっていたので怒りの微々たる軽減には成功し、そこから鬼のように追加分の書類や調書を作成した。
四徹明けの朝日はこれでもかと言うほど眩しい。
「ひどい顔をしているな」
「え?…えっ!?赤井さん!」
辛うじて始発は動いているが、電車に乗れるモチベーションはカケラも残っていないためタクシーを拾おうと道端に立っていると、いつの間にか赤井さんが隣に立っていた。降谷さんも赤井さんも気配を消すのが上手すぎて心臓に悪い。
「お、お疲れ様です!」
「ああ、君もな」
やばい。あとは帰るだけだと思って、ちゃんと化粧を直していない。さらりとひどい顔と言われてしまって恥ずかしい。俯いて、無駄に前髪を撫でるようにして顔を隠す。
「さあ、車は向こうに停めてある」
瞬きをして、赤井さんを見上げた。
「300M向こうに昨日の彼が待っているが、大人しく尾行されるか?」
「げ、」
気付かれない程度に軽く後ろを見ると、たしかに路肩に車が停まっている。まだ諦めてなかったのか。
「降谷君からの許可も出ている」
「ううん…」
一体何の許可なのかわからないが、あの人も絡んでいるなら無駄な抵抗はやめたほうが良さそうだ。それに、タクシーでは尾行を撒けないだろうし、今の状態でかち合ってあの男の相手など出来そうにない。
「お願いします」
「ああ、いい子だ」
赤井さんはそう小さく笑って、さらりと私の腰に手を回して歩き出す。思考が回らない私は、乙女ゲームの主人公にでもなったつもりで寄り添って歩いた。もう近々死ぬのかもしれない。神様も最後は甘やかしてくれるじゃないか。
「疲れているところ、運転任せてしまってすみません」
「俺は昨日の午後からはオフだったからな。君こそそんな状態のままよく一人で帰ろうとする」
FBIは捜査協力までしか権限がないため、事後処理が少ない。彼なら何度夜を明かしても平然としていそうな雰囲気があるが、一足先に休めたのなら良かった。
「仮眠してから帰る人も多いですけど、私の場合は仮眠室もあんまり安全じゃなくて」
昨日の加藤刑事は行き過ぎた例だが、警察内部と言えどグレーゾーンで迫ってくる人間も多い。私は昔から粘着質な人に無駄に好かれることが多く、お陰でハニートラップはそれなりに得意ではあるがプライベートでは煩わしくて仕方がない。
「ああ、さっき君の自宅の様子を見てきたが、なかなかスリリングだったよ」
「自宅!?」
動揺して、シートベルトを締め損ねて金具に指を引っ掛けた。車が進み始めて、慌ててシートベルトを締め直す。
「降谷君に頼まれてね。もちろん中には入っていないから安心してくれ」
彼は発進させた直後にマッチで煙草に火をつける。いつもマッチで火をつけていて、その仕草が私は好きだった。
「君の帰りを待つ男が2人いた。切手のない手紙の主は男女それぞれ1人ずつ」
「バレバレじゃないですか」
「降谷くんも呆れていたよ。彼も気付いていたようだが」
「いっそ降谷さんが一番怖くないですかそれ」
ふふ、とつい笑ってしまった。彼が本気を出したら、特定の人物の情報なんて隅から隅まで露見してしまいそうだ。
「ちなみに、ブログに私への愛をささやき続ける女性ともう使っていないメールアドレスにメールを送り続けてる男性もいますよ」
「やめさせないのか?」
「実害がないので。触らぬ神に祟りなし、とでもいいますか」
日が昇り、世界が一層眩しくて目を細める。
「昨日の彼は仕事に害が及ぶので、どうにかしなきゃなあとは思ってたんですけど。三徹目の待機中に言うから煽っちゃって、赤井さんを巻き込んで上司にまで気を遣われちゃって、すみません、本当に」
赤信号で止まったタイミングで、赤井さんの顔を見上げた。
「ありがとうございました」
助手席でシートに埋もれて言うなんて偉そうかもしれないが、目を合わせてきちんとお礼を言いたかった。疲れと睡魔に襲われていて、姿勢をきちんと正せない。
「昔から変なのに好かれるんです。最初いい友人、同僚なんですけどね。私の何かが悪いのか、依存や執着がどんどん全面に出てきちゃって。自分の最低限のテリトリーだけはもちろん守りますけど、勝手にしてくれって思っちゃって。結局みんな私のことを好んでいるようにみせて、私のことなんて全然見てないんです」
喉が渇いているのに、私は饒舌だった。疲れて少し参っているのかもしれない。
「高校生の頃、兄のように慕っていた先輩に襲われかけたんです。何か私が思いつめさせたんだと思って話をしようとしたんですけど、わかってもらえなくて。そしたら、そのことについて相談していた同級生の女の子が、その先輩をカッターで切りつけちゃって。今思えば彼も彼女も異様に私に執着していて。先輩は地方の大学に進学して、彼女は不登校になって引っ越していきました」
とんだ昔話だと、我ながら思う。
「恋は盲目っていうけど、あれが愛や恋なら私は恋愛なんてしたくない」
日差しの眩しさに耐えられずに、目を閉じた。
捻くれた考え方だとは思う。彼や彼女を悪者にするつもりなどなかったし、じゃあ私が悪かったんだろうと責められても頷く気にはなれない。
「だから売れ残っちゃうんですよねえ」
自分で言って虚しくなって、小さく笑った。瞼を閉じると、もう睡魔には抗えず、うとうととそのまま眠りに落ちた。




目がさめると、知らない部屋だった。いい匂いがする。ぼんやりとしながら、寝返りを打つ。閉じられたカーテンの隙間からは光が差している。朝焼けか夕焼けかわからない。でも随分と眠った気がするから、夕方だろう。
ええと、私庁舎を出てからどうしたんだっけ。そう、赤井さんの車に、乗せてもらって…。
そこからの記憶がない。ハッとして起き上がる。見覚えのない、オーバーサイズのシャツを着ている。
「ああ、目が覚めたか。おはよう」
「おっ…おはようございますあかいさん!?」
声が上ずった。おそらくキッチンであろう隣の部屋から現れた彼は、紛れもなく赤井さんだ。ラフなシャツとスエットのパンツ姿で、完全なるオフモード。なんて美味しい姿なんだ。
視界に入る部屋の様子は確実にホテルではない。まさか赤井さんの家?そんなことある?じゃあこのシャツは?私、まさか。
「あああの、ここは、その」
「俺の家だ。あの状態の君の家に連れて帰るわけには行かなくてな」
「こ、この、あの、シャツってあの…」
「俺のシャツだ」
これはあれだ、彼シャツってやつだ。彼氏じゃないけど。憧れの赤井さんのシャツを着ている嬉しさとそんな姿で彼の前にいる恥ずかしさと出来ることならこのポジションを降谷さんと交代して頂きたい邪さが相まって、目が冴える。
しかし頭が冴えてない、記憶がない。
「覚えてないのか?」
彼はそっと私の頬に触れた。
「とんだじゃじゃ馬で驚いたよ」
クスリと耳元で笑った。
カッと顔が熱くなる。どういうこと。赤井さんとか絶対経験豊富なのにじゃじゃ馬と言わしめる私って一体何!?
「百面相だな」
「ご、ごめんなさい何も覚えてなくて…!」
「あっはっは」
私が顔を真っ赤にしたままベッドの上で土下座をすると、赤井さんは珍しく声を上げて笑った。えっちょっと何それかわいい。
「車を停めて声をかけても起きないから、抱き抱えてここへ運んだんだ」
部屋に入ったところで目を覚まして、お姫様抱っこをされていることに抵抗があったのか降ろせとせがみ、家に上がるわけにはいかないと逃亡しようとし、なんとか説得してベッドで寝かせようとしたら、寝支度をしないとお布団に上がれないと騒ぎ、化粧を落とし風呂へ入り服を着替えて髪を乾かししっかり水分を取ってから死んだように布団に倒れこんだのだという。
「よ、よかっ……いや良くないですね、すみません全然覚えてないんですけどお手を煩わせまして」
「流石に疲れ切った相手に手を出すほどは野暮じゃないさ」
「そ、んなことは露ほども!」
私の頭の中など単純なもので、簡単に転がされている。当たり前か、あの降谷さんと渡り合うような人だ。赤井さんは焦る私を見て、心なしか楽しそうだ。
「ただ、そのままうろつかれるとうっかり襲ってしまうかもしれん」
言われて、シャツの下はキャミソール一枚、下は下着だけと気付いて慌てて裾を下ろした。
「おおお目汚しを!」
しかしスタイルが良いとは思っていたが、赤井さんのシャツだけでもだいぶワンピースだ。とは言え、普段はパンツスーツな上私服ですらほとんどスカートを持っていない私には膝上丈のワンピースはつらい。動揺しっぱなしで挙動不審の私に、赤井さんがハーフパンツを貸してくれた事によりなんとか平静を取り戻した。
腹が減っているだろう、口に合うかはわからないが、とやたらと大きな鍋で作られたカレーと少し硬めのご飯を頂いた。まさか赤井さんの手料理をご馳走になれるなんて思ってもいなくて驚いていると、以前潜入捜査で他人を演じている時に覚えたのだという。ただし、未だに煮込み料理しか出来ないとのことで、健気さと不器用さに五十億加点したい。
「いつか機会があればお礼に私も何かご馳走しますよ」
「ほー。君は料理をするのか」
「出来そうにないと思うでしょう?人並み程度には出来るんですよこれでも」
自分のために作るのは得意ではないが、誰かに食べてもらうなら美味しいものをと思う。誰かに料理を振る舞うのは嫌いじゃない。
「君は相手に尽くすことが当たり前なんだな」
「そうですか?やりたいようにしてるだけですよ」
「そういう優しさを向けられずに生きている人間はわりと多い。それに無意識に気付いて親切を分け与えて、好意を抱かれるんだろう」
「だとしたら、つけ狙われるのも因果応報ですね。飼えない野良猫に餌を与えるのと一緒」
面倒を見てしまうのに、抱えきれなくて責任を取れない。だとしたらやはり悪いのは私だろうか。
非情になれ、と降谷さんに言われたことがある。お前はそれくらいのつもりでいないと、甘さに付け込まれる、と。
優しさと甘さは違うのだ。わかっているつもりだが、それでもきっと私は甘いんだろう。
自分で思い出しておきながら少し凹んでいると、聞き慣れた電子音が響いた。私の携帯だ。すみません、と赤井さんに断わりながら部屋の片隅に置いていた自分の鞄を漁る。液晶画面には、上司の名前が表示されている。私たちに完全なオフなどなかった…と悲しみながら通話ボタンを押した。
「はい、」
『じゃあ1匹飼ってみろ』
「え?」
一瞬なんの話かわからなかった。しかし、話の流れは今さっき私が言った言葉に続いている。まさかと思いがさがさと鞄の中を漁る。どこだ、どこについている、盗聴器。
『甘やかす相手は1人にしろ。そうしたら他なんてどうでも良くなる。適切に切り捨てろ』
まさか私の携帯自体に盗聴アプリが仕込まれているのかと最悪の場合を疑ったところで、鞄についているキーホルダーの裏に小型のそれを見つけた。
『幸いそいつはセコムには打って付けだしな』
「突っ込みどころが沢山あってちょっと理解が及ばないんですけど」
『そこにいる図体のでかい黒猫を飼い慣らせるって言ってるんだ』
「図体のでかい黒猫…」
私の視界には、高身長で抜群のスタイルの黒髪黒服のマッチョがいる。
「むむむりですよ!何言ってるんですか!私ごときが赤井さんを飼い慣らすなんて何言ってるんですか?そもそも赤井さんには降谷さんっていう…あっ違うこれ私の妄想だった」
『俺は今関係ないだろう消されたいのか社会的に』
「すみませんやめてくださいパワハラですお願いします」
携帯片手にひとりでペコペコと頭を下げている私は滑稽なことだろう。なんなら本庁に向かって頭を下げるべきだろうか。今日降谷さんがどこに出勤しているのかはわからないけど。
『恋人なんだろう』
「え?」
『いっそ本当に付き合ってみろ。どうせ最短でも数日は一緒に暮らすことになるんだ』
「は?」
私の家の安全確保ののち、さらに強制的に引越しが確定されているという。私のプライバシーとか関係ないようだ。おかしいな。さらに引越しが完了するまでの間このまま赤井さんの家で過ごせという。ホテルとか泊まるもんじゃないのかせめて。
『お前のストーカーの中に前科持ちがいた。加藤に関してもそうだが、警察内部で性犯罪者を出すわけにもいかない。そこで、お前のその性質を変えることに決めた』
決められても変わるものだろうか。そんなことに動いている労力がもったいない。
『それくらいのことをするくらいには、お前を認めているんだ。大人しく従え、いいな』
今確かに、降谷さんが言ったよね?一瞬呼吸が止まるかと思った。褒められた。
「………もう一回言ってください」
『大人しく従え』
「その前です」
『お前を認めていると言ったんだ』
それでも私はにやけて仕方がない。降谷さんが認めてくれている。最終捜査で現場ではなく事務に回されたことに、実はだいぶショックを受けていた私には、彼の言葉の威力は絶大だった。無茶振りも許容できそうな気になる。
そのあとは詳細は後で、とガシャンと勢いよく通話は切られた。結局なにをどうしろと言われたのか理解は追いつかないままだ。
「君が俺を飼い慣らすって?」
認めている、という言葉の余韻に浸っていると、上から声が降った。そうだ、問題はそっちだった。
「降谷さんも徹夜で気が狂ってるんじゃないですかね…勝手に引越しの手配をしているみたいでその間一緒に住めって」
「ああ、聞いている。最初からそのつもりで連れてきている」
「えっ言ってくださいよ!」
「言ったら大人しくついてこないだろう」
「確かに」
最初っていつからだろう。事件を追いながら、そんな手筈まで整えていたというのか。ずいぶんと恐ろしく親切な職場だな。これも福利厚生というのか。
「そういうわけだ。よろしく頼むぞ」
「………赤井さんはそれでいいんですか?」
今から降谷さんを止めるのは無理だろうし、私にとっては細かいことを置いておけば良いことづくめだけれど、それに付き合わされる赤井さんには面倒しかないんじゃないだろうか。
「君に愛していると言われるのは、悪い気はしない」
彼はそう不敵に微笑んだ。
「飼い慣らしてくれるんだろう?」
彼の手が私の頬に触れた。
ああ、彼と降谷さんが並んで立っているのを見るのが至高だったはずなのに、今や私は完全に赤井さんに対してときめいてしまっている。所詮私もただの女だったのか。妙なショックを受けながらも、彼から目を離せない。
「ずるいです、」
唇を寄せてくる赤井さんの口元を自分の手で塞ぐ。昨日のキスを思い出して、顔が赤くなる。こんなの、本気で拒めるわけがないのに。彼はそんな私の手を取って、簡単に引き寄せる。
「しっかり甘やかしてくれ、なまえ」
そう指先にキスをした。
彼を飼い慣らす前に、私の心臓がもちそうにない。





(百面相と黒猫)

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