私は遺体を前に、不謹慎ながら感心していた。つい先日、偶然とある事件の証人になってしまった際に、刑事さんから言われた言葉に納得をしてしまったのだ。
「あの子達と関わると、君も事件を呼ぶことになるかも知れんぞ」
その呆れ顔はいかに彼らが事件に遭遇してきたかがわかった。小学一年生の少年が捜査一課の刑事さんたちと仲良しなんて確かに妙な話だし。米花町へ住むことが決まってから平穏な日々が続いていたので、意外と大丈夫なんじゃないかと思い初めていたのに、とぼんやりと思っていた。
そして、その事件以来たった三日ぶりに路上に放置された遺体と対面している。しかし今回は少年探偵団ではなく、喫茶ポアロの店員さんであり毛利さんの弟子だという安室さんと一緒だった。彼も不思議な人だ。
血を流し倒れている人間に躊躇なく触れ生死を確認し、早々に警察へ連絡を入れてから遺体や周囲を確認する。その手際が良すぎて、たまたまスーパーで会って一緒に帰っていただけの私は、その様子を眺めていることしか出来なかった。
『任せときゃいいよ』
隣でささやくように聞こえて、私はどうせ出来ることもないし、と思いながらこくりと頷いた。遺体の前でしゃがみこみあれこれ調べている彼の隣にもうひとりしゃがみこみ、そしてその背後にもひとり立っている。もうひとりいたはず、と思ってぐるりと見渡すと、背後で大通りの方を指差している。
パトカーの音が近付いている。

幼い頃は生きている人間と死んでいる人間の区別が付かなかった。後者はいわゆる幽霊、というものだけれど、そう表現するには道行くだけならどちらも同じように生活している。視えてしまうことを気味悪がられることもあったが、亡き祖母が似たような体質だっただめ、家族で孤立することもなかったし、祖母の話を聞けたことで社会にどう溶け込むべきかは教わっていた。
さらに都合がいいことに、悪いものにはあまり近寄られなかった。だから冷静に見ていることが出来るのだと思う。

ポアロはお気に入りの喫茶店のひとつだ。人の出入りの多いところに彼らは集まりやすく、だから学校や団地などには怪談話が絶えない。そしてやはり商売をしているところ、そして長く続いているところも例外ではない。ポアロもそうだった。
カウンター席の一番奥の席には、黄昏時、いつも品の良い小柄な白髪の老紳士が座っていた。いつもお洒落で上品なスーツを着て、カウンターの端に杖を引っ掛けていた。生死のわからないほど当たり前の光景に見えた。
そこに、若い男達が加わったのがちょうど、安室透さんがポアロの店員として働きだしてからだ。初めて会った時、彼らは奥のテーブル席で談笑していた。そのうちの一人、優しげな顔立ちの短く髭を生やした男性と目が合って、彼がふっと笑ったのを覚えている。

目暮警部は私と彼の顔をみてため息をついた。言わんこっちゃないという顔だ。先日私にこそっと注意を促したのは他でもない彼だった。
「居合わせちゃいました」
「詳しいことは後で聞こう。まずはあの男だ」
呆れ顔のまま目で示した先で、安室さんがにっこりと微笑んだ。殺人現場に似合わない爽やかな笑顔だった。

あのあと、結局犯人は未だ分からずじまいで、捜査は続くが私たちは事情聴取のあと帰されることとなった。特に予定もなかったため警察署まで移動して事情聴取を行い、帰りはさすがにパトカーで送られるのは仰々しいので、安室さんからの申し出で彼の車で送ってもらうことになった。
「今日は大変でしたね」
「ええ、びっくりしましたね」
助手席で当たり障りのない会話をしながら、バックミラーに映る顔を視界の端で確認する。もちろん後部座席には誰もいない。
「……安室さんって、お友達を亡くされたこと、あります?」
彼らはおそらく安室さんとそう年の変わらないように見える。実際に亡くなった時の姿をしていないことも多々あるけれど、彼らはみんな友人のようで、だったらきっと安室さんとも友人なのだろうと思えた。親族や先祖という雰囲気ではない。
「……なぜです?」
「あー、いえ、」
あなたの周りに数人、ご友人の霊が見えます、なんて非現実的なことを言う気にはなれなかった。彼は論理的なひとだ。
「近しい人を亡くした人って、ご遺体とか見ても多少免疫があるのかなって」
そんなことはないだろうとはわかりながらも、上手く誤魔化す言葉が見つからなくて適当なことを言った。
「僕が探偵業をしていることは、ご存知でしたよね。それでたまに、死傷沙汰になることもあるので」
「あ、そうでしたね。すみません、立ち入った質問を」
「いえ、きっとあなたのような反応が普通なんです」
気にしないでください、と困ったように微笑んだ横顔を見る。後部座席から、猫っ毛の男性が腕を伸ばして彼の首元に絡めると、よく言うぜ、と笑った。もちろん安室さんはそんなことは少しも気付かない。
「僕の顔に何か付いていますか?」
赤信号で止まって、こちらを見て不思議そうな顔をした。あなたには男性の霊が四人も憑いています。
「いえ、見惚れてました」
「お上手ですね」
小学生の子供がするように、安室さんの背後から長めの髪の男性が人差し指を立てていて、こちらから見るとツノが生えているように見える。
「ふふ、」
つい堪えきれずに笑うと、安室さんは不思議そうな顔をした。
「気にしないでください、ちょっと、思い出し笑いです」
私は安室さんから目を離した。こんなに気さくな幽霊とは初めて出会った。きっと、安室さんは彼らにとても大切に思われている、と思うと口元が緩んで、窓の外を眺める振りをしながらひっそりと笑みをもらした。

玄関先まで送ります、との申し出を断って車を降りた。部屋の前まで着いてから見下ろすと、安室さんはまだマンションの前に停めた車の側で立っていて、こちらを見上げている。なるべくわかるように頭を下げて合図すると、安室さんは片手を上げてそれに返した。丁寧な人だなと思う。
きっと私が部屋に入るまでそこを動かないだろうと考えて、大人しく見送られることにした。安室さんの心配性につられて不安になり、左右を確認してから鍵を開けて、さっさと部屋へと入った。もちろん鍵のかけ忘れなんてしない。荷物を置いて上着を脱いでいると外で車の音がした。音が遠ざかる。かっこいい車乗ってたな、と思いながらソファに腰掛けると、一気に疲れが出た。
肉体の死の威力は、思っていたよりも気持ちを削るものなんだな、とため息をつく。このままソファでダメになってしまう前に、寝支度をしてしまおうと立ち上がった。

化粧を落とし、お風呂へ入り、髪を乾かし部屋着に着替えて、部屋へ戻る。その途端、チカチカと照明が点滅した。蛍光灯を見上げる。LEDだから、まだ切れるようなことはないだろうけど。しばらく見ていると、パッと電気が消えた。首を傾げて視線を下ろすと、ソファに人影があった。
安室さんに絡んでいた猫っ毛の男性だ。
「ーっ!?」
驚いて声を上げそうになるけれど、口元を人差し指で閉ざされ口が開かなかった。目の前で、静かに、と真剣な顔をしているのは、さっき安室さんに指でツノを生やしていた男性だ。唇にひんやりとした感覚がある。さっきのように電気の付け消しや物体を動かしたり音を鳴らすことの出来る存在は認めていたけれど、触れられたのは初めてで動揺する。どういうこと。
猫っ毛の彼が、顎で寝室を示した。もう一人は案内するようにすっと寝室へ向かって手を伸ばす。そちらへ移動しろということだろうか。
戸惑っていると、玄関先で小さな物音がした。彼らの目が、早く、と訴えている。玄関の音は彼らの仕業ではなさそうだ。私はそっと寝室へと入り、静かにドアを閉めた。一人で入ったつもりが寝室にはツノの彼がいて驚いたけれど、彼らには物理は関係ないことを思い出して平静を保った。彼はドアの横の壁際に座り込んで手招きをし、隣に座るように手で床を示す。私は戸惑いつつも、その指示に従う。
『じっとしてて。静かにね』
耳元で声がする。そんなはずはないのに、息遣いまで聞こえてきそうな距離だ。
リビングの床が軋んだのがわかった。息を殺す。人の気配がする。途端に、心臓の音が大きくなる。不思議なことに、隣にいる不可解な存在よりも、生身の人間の方に恐怖を感じている。膝を抱える指が震える。
寝室のドアに手がかけられた。ドアが開く。
心臓の音がうるさい。両手で口元を覆って、息が漏れないよう努める。
のそりと人影が寝室へ入ってくる。おそらく男性と思わしき影だ。開かれたドアの裏に隠されているため、人影はこちらに気付いていない。私が眠っていると思ったのか、人影は奥のベッドを睨んでいるようだった。
『今のうちに、部屋から出て』
私にしか聞こえない声はそう囁くけれど、恐怖で体が動かない。視界が涙で滲む。私は彼に向かって、子供みたいにふるふると首を横に振った。薄暗い部屋の中を、男は一歩一歩進んでいく。
『おい、早くしろ!』
気付けば目の前に猫っ毛の彼も座り込んでいる。私は涙目のまま彼を見上げる。わかってるけど、動けないの。心の中で叫ぶ。きっと私は今、懇願するような顔をしている。死者に対して助けを求めるなんてどうかしていた。
『許せよ』
他に方法がない、という顔で彼はそう唇を動かすと、私の顎を取るような仕草をして、顔を寄せた。唇にひんやりとしたものが触れた気がした。
「、」
途端に、目眩のような感覚に襲われる。血の気の引く感覚。しかし心臓はやけに大人しくなり、手足の震えが収まった。勝手に体が、動く。
静かに立ち上がると、ようやくベッドの前に立った男が振り向かないうちにゆっくりと寝室を出る。自分の体なのに、自分の意思とは関係なく体が動く。視線は常に男の背中だ。
リビング側から寝室のドアノブへ、ゆっくりと手を伸ばす。男がベッドに何かを振り上げたのを確認して、一瞬考え、しかしそれは本当に一瞬で、男がその手を振り下ろすのとほとんど同時にドアを閉めた。
「なんだ…!?」
男の動揺の声が聞こえる。
私の体は、リビングに置きっぱなしにしてあった上着を片手で掴む。
「チッ」
直ぐに寝室のドアが開いて、男が出てきた。手には、ナイフが握られている。
「どこに隠れてやがった」
男は焦りで半笑いになっている。
どうする。ここで下手に対峙して事を荒立てるのは得策ではないが、相手は刃物を持っている。逃げるにしても、背を向けたところに斬りかかられたら無傷で済むか怪しいところだ。
頭の中で、自分ではない思考が巡る。目に見えるものも体の感覚もはっきりしているのに現実味がない。だから安易に思ってしまったのかもしれない。無傷で済む必要はない。
まじかよ、と彼が思ったことに、うん、と緊張感もなく思った。もはや取り憑かれていると認識していいであろう状況で、さっきまでの恐怖が嘘のように、冷静だった。
私の体は男と向き合いながらジリジリと後退る。絶妙な呼吸だった。私を操るこの男性たちは一体何者なんだろう。
男が踏み出したその次の瞬間には、私は掴んでいた上着を男に向かって投げていた。そして照明のスイッチを殴るようにしてつけて目眩しして、そのまま玄関へと走る。流れるような動きだった。あと少しで、外へ出られる、というその時、右腕に痛みが走った。ガンッと玄関の扉に何かがぶつかって落ちる。さっき男が持っていたナイフだ。投げやがった。
すっぱりと切れた腕から、その傷口を広げるようにじわじわと血が滲む。左手で傷口を圧迫しようと掴むが、指先が震えている。
『くそ』
頭の中で声がする。右腕が熱を持ったように痛い。痛みを合図に、彼の支配が効かなくなっている。ぺたりとその場に座り込んだ。手が、足が震える。恐怖が体に戻ってくる。こわい。私、殺される。
「悪いな姉ちゃん。俺はもう、一人殺してんだ。昼間見ただろ?あんた、なんか見たか?いや、見てなくてもいいんだ、もう一緒だろ?何人殺したって」
勝手に涙が出た。ぼろぼろと涙が溺れているのがわかる。男は聞きもしないのにペラペラと喋る。目が血走っている。しかし、恐怖に支配された頭では言葉が入ってこない。
「もう、何しても一緒だよな?はは、あんた綺麗だから、女として死なせてやるよ、なあ、」
嫌だ。さわるな。主張しようにも、声が出なくて口元だけが小さく動く。
どうする。あいつはまだか。頭の中で彼が何かを待っている。
ガサついた手が、伸びてくる。

「汚い手で彼女に触るな」

声とともに玄関のドアが開いて、直後には男は鈍い悲鳴をあげて仰向けに倒れた。たった一発。何が起こったのかわからなかった。完全に伸びていることをさっと確認して、男を殴り倒した彼は私の前にしゃがみ込む。彼の背後にはいつもの面々も眉を下げてこちらを見ている。
「今、救急車がこちらに向かっていますから」
ビッと自分の服を破って傷口に巻きつけ縛る。私はその痛みに耐えられず、彼に寄りかかる。朦朧としながら、ありがとうございます、と、口を開いたつもりだった。
「遅ぇぞ、降谷」
勝手に声に出た言葉に、彼は目を見開いた。それを感じ取ったところで、私は意識を手放した。


翌日、昼過ぎに目が覚めると真っ白な部屋に横たわっていて、一瞬あのまま私も死んだのかと思った。しかし、意識がはっきりしてくると、なんの変哲も無い病院の一室だとわかる。腕には包帯が巻かれて固定されている。
それから事情聴取を受け、昨晩私が襲われたのは、昼間に見た殺人現場は犯行直後の状態で、そこに現れた私と安室さんが自分の姿を見られたかも知れないと思った犯人が、口封じのために犯行に及んだのだという説明も受けた。そういえば、ナイフを投げつけたあとにそんなことを言っていたような気もする。
それから、警察に連絡をしないで自発的に動いたことに注意を受けた。それは私の意思ではなかったけれど、何かあったら直接連絡を、と佐藤刑事の電話番号を手に入れることができたのでよしとする。佐藤刑事とのやりとりの間、猫っ毛の彼が目を細めて私たちを見ていた。

夕方になると、安室さんがコーヒーとサンドイッチを持ってお見舞いに来てくれた。昨日一日中、非日常を味わった私は、食べ慣れたポアロの味と香りに安堵する。
「ありがとうございます、助けて頂いて」
「いえ、もう少し早く着いていればこんな怪我をさせずに済んだのに」
「そんな!私が、その…無茶しちゃいましたから…」
無茶をしたのは私ではないが、それを弁解できないし、彼が私の体を動かさなければきっと何にも気付かずあっさり殺されていただろう。あれ、そういえば私あの時彼にキスされなかったっけ。必死だったため記憶が曖昧だ。口元に手を当て、さっきから病室で寛いでいる猫っ毛を見ると、彼はニヤリと笑った。
「…なまえさん、友人を亡くしたかと、聞きましたよね」
「え?」
安室さんはパイプ椅子に腰掛けて、そう切り出した。
「当たりです」
「…、」
困った顔で微笑んだのが、切なくて言葉が出てこなかった。わかっていて、聞いたくせに。
「昨日帰ってからうとうとしてしまって、不思議なことにその時夢にその友人の一人が出て来たんです」
懐かしむように彼は言って、私は目で病室を見回す。いつのまにか全員、ベッドを囲むように立っていて、その中のひとり、いつか私に微笑みかけた優しげな男性が、体格のいい短髪の男性に肩を組まれ、指を差されている。こいつこいつ!と、聞こえなくてもそう言っているであろう想像ができた。
「そいつが、あなたのところに戻れって言うんですよ。久しぶりに顔を見せたくせに、何言ってるんだと思って」
言われている本人は、苦笑いで彼を見守っている。安室さんにとって、彼らはとても大切な人だったんだろうと簡単に想像できる。
「そしたらもう一人、別のやつに大声で、いいからさっさと起きろ!って起こされて。あんまりリアルで夢か現実かわかりませんでしたよ」
肩を組んだまま、今度は俺俺!と短髪の彼がニカッと笑う。生者に干渉できるのはよほどの思いがあるからだと聞いたことがある。彼らはみんな、それほどに彼を思っている。
「ハッとして、行かなきゃいけない気がしてすぐに向かったんです。癪だけど、あいつらには感謝をしなくちゃいけない」
「私からも、お礼が言いたいです」
そう言うと、安室さんも笑った。他の面々も、どうだ、という満足そうな顔をしている。
「…あなたは、どこまで僕のことを」
「え?」
「いえ、友人のこともそうですが、気を失ってしまう前に、僕のことを普段と違う呼び方をしたので…」
「違う、呼び方…」
思い返す。曖昧だ。何か言おうとして、そうだ、違う言葉が出たのは覚えている。
『遅ぇぞ、降谷』
そう、私はそう言った。私の中にまだ彼がいたから、違和感がなくて気にしていなかった。こっそりと、猫っ毛の彼を見る。彼は人差し指を立てて口元に当てた。秘密、ということだ。
「すみません、覚えてないです…」
「そうですか。僕の聞き間違いかも知れませんし、気にしないでください」
そう取り繕った安室さんの小さな笑みが、安堵にも見えたし、そして寂しさにも見えた。
「…あの」
じっと安室さんを見つめる面々を見て、私は迷った末に話すことに決める。
「信じてくれなくてもいいんですけど」
彼は不思議そうな顔をして私を見た。
「私、全部が全部じゃあ、もちろんないんですけど、その、亡くなった人が視えるんです」
安室さんは突然の非現実的な話には、目を丸くした。戸惑っているのがわかる。
「ホラーな感じじゃなくて、…なんていうのかな、人を恨んでというより、誰かを守るために留まっている人しかわからないんですけど」
そう、だから彼らのお茶目な様子だけを理由に親しみを感じたわけじゃなかった。実際に、私は彼らに呪われるどころか命を救われている。
「初めて安室さんと会った時、隣のテーブルに居たんです。多分安室さんとそんなに変わらない年の男の人たちが四人」
安室さんは、心当たりがあるような顔をした。
「その中の、猫っ毛みたいなパーマのひととちょっと髪の長いシュッとしたひとが昨日うちに居て、それで助けてもらったんです」
信じがたいことを言っている。でも、どうせ気味悪がられるなり気が違っていると思われるなら全て話してしまおうと、わかる範囲の昨日の状況を話した。
二人が家に居たこと、異変を教えてくれたこと、どうするべきか指示して、動けなくなった私に取り憑くようにして逃してくれようとしたこと。
「きっと安室さんを呼んでくれたのって、優しい顔のちょっと髭生やしたひとと、短髪の体のがっちりしたひとですよね」
言うと、安室さんは少し俯いたまま、なにかを考えているようだった。
「気持ち悪いですよね、こんな話」
でも本当なんです、とまでは言えなかった。押し付けるつもりはない。勝手に彼の過去に、きっと人に触れられたくない柔らかな部分に触れるようなことだ。私のエゴで、それを口にしてしまっている。軽蔑されてもおかしくはなかった。
「松田陣平と萩原研二」
安室さんが口を開いた。
「君を救った男の名前です」
パーマが松田、髪の長いのが萩原、と彼は続けた。
「それから、俺のところに現れた優男が緑川博光、短髪が伊達航」
彼がそう紹介するのに合わせて、私はそれぞれの顔を目で追った。みんな恥ずかしそうで、でも満足そうな顔をしている。
「……今も、いるのか…?」
困ったような顔で、安室さんが尋ねる。
私は、みんなの表情に勝手に感極まってしまって、泣きそうになる。ぐっと堪えながら、頷いた。
「います。今も、いつも、安室さんのそばに」
彼は小さく、そうか、と呟いた。
その瞬間、みんなはそれぞれに笑った。伊達さんはわしゃわしゃと触れられないのに安室さんの頭を撫でて、それを見て緑川さんが困ったように笑い、松田さんはほんの少しだけ口元で笑ってそっぽを向き、萩原さんはその様子を見て肘で突いて笑っている。
私はおこがましくも、まるでみんなの仲間の一員になったような気持ちになって、その様子がとても幸福なものに思えた。

後日、退院した私は安室さんや彼らへのお礼を兼ねて、ポアロに顔を出した。まだ包帯は外せないけれど、利き腕が使えないことにより、左手であれこれするのにだいぶ慣れてきた。
夕暮れ時、珍しく他のお客さんはいなくて、梓さんの姿もなかった。いるのはカウンターの指定席の老紳士と、テーブル席で寛ぐ彼らと、カウンター内の安室さんだけだ。
「いらっしゃいませ」
安室さんはいつもと変わらずにこやかに微笑んだ。
「こんにちは。ホットをひとつ、お願いします」
かしこまりました、と支度を始めた安室さんが背を向けたタイミングで、ヨッと言わんばかりに手をあげるテーブルの彼らに小さく手を振って、それからカウンターの紳士に会釈をしてから、その隣に座った。
『ここのコーヒーは美味しいでしょう。彼が来てからはますます深みが増したよ』
「そうですね」
この席には初めて座ったし、お爺さんと話すのも初めてだった。低く落ち着いた声音をしている。
「呼びました?」
安室さんが、コーヒーを持ってカウンターから出てくる。
「このお店には、見えない常連さんもいらっしゃるんですよ。安室さんの淹れるコーヒーを褒めてます」
他に誰もいないのをいいことに、正直に教えた。彼は少し驚いた顔をしてから、すぐにこっこりと笑った。私の前にコーヒーを置いてから、私の視線を追ってか、お隣ですか、と尋ねる。頷くと、彼はすぐにもう一杯コーヒーを持って来て、老紳士の前に置いた。紳士が、微笑む。実際に飲むことはできないけれど、彼は深呼吸するようにその香りを楽しんでいる。
「ありがとう、って言ってます」
「こちらこそ」
私もコーヒーに口をつける。ああ、美味しい。隣の紳士が言うように、彼が来てから少しだけコーヒーの味が変わった。昔からのポアロの味でありつつ、より深みが増したという彼の表現はぴったりだった。
「そうだ、安室さん。私、みんなのお墓参りにいこうと思うんです。今回のお礼も兼ねて」
小さくテーブルを振り返ると、それぞれと目が合う。
「佐藤刑事に聞こうかとも思ったんですけど、何でって言われたら説明出来なくて。場所とか、教えてもらえませんか?」
「なぜ佐藤刑事に?」
「あ、松田さんに憑かれた時にちょっと同調してて、刑事さんなのはわかったんです。それと、佐藤刑事と仲良かったのも」
そう、私が佐藤刑事を知っていたというのも、彼女が松田さんの死に際に大切な存在になっていたのもあってか、その事はまるで自分の一部のように頭の片隅に残っている。ただ、他のみんなや安室さんが警察に関わることでの友人なのか、もっと前の、例えば学生の頃の友人なのかなどはわからない。
「…教える事は出来るけど、あまりお勧めはしません」
「どうして、ですか?」
「言えません。でも、今回のことよりももっと大きな事件に#name#さんが巻き込まれないとも限らない」
言葉が返せなかった。
そうだ、松田さんは爆弾処理をしていた。その辺のおまわりさんとは違うはずだ。警察の仕組みには詳しくないけれど、おそらく優秀な人しかそんな配属にはならない。もしも彼らが警察関係者だとしたら、みんながそれぞれ優秀なひとたちだったなら。
考えてもみれば、安室さんの年齢で友人をこれだけの数亡くしているなんて普通じゃない。それぞれが事件に巻き込まれて亡くなっているとしたら。
そして、そんな彼らの友人である安室さんが、ただの喫茶店の店員であるだろうか。探偵だからって、あれだけ冷静に遺体と向き合えるだろうか。
「あなたは人に見えないものが視えるかも知れませんが、それならば尚更、知らなくていいことがあることにも理解は出来るはずですよね」
「、はい」
頷くしかなかった。
近付いたと思った距離を一気に離された気分だ。だけど、言いたいことは痛いほどわかる。
「…やめておきます、お墓参り」
「あいつら、今日もいますか?」
「え、はい。割といつもいます」
「じゃあ、墓参りよりここに来てくれる方が彼らも嬉しいと思いますよ」
私はテーブルを振り返る。
「そうなんですか?」
聞くと、彼らは顔を見合わせてから笑った。
「そうみたいです」
あいつに言われたくはないけどなあ、なんて声も聞こえたけれど、それは安室さんには伝えないでおいた。

コーヒーを飲み干して、席を立つ。老紳士にまた一礼をして、テーブルにもひらひらと手を振った。
「ごちそうさまでした」
「いつもありがとうございます」
「こちらこそです。ますます通う理由が出来ちゃいました」
会計をして、安室さんからお釣りを受け取ろうと手を伸ばすと、彼の手は小銭ごと私の手を包み込んだ。
「それから…」
見上げると、ばっちりと彼と目が合う。
「彼らのことは僕となまえさんだけの秘密ですよ?」
にっこりと笑って、おまけにウィンク。
「も、もちろんです…!」
アイドルの握手会ってこんな感じなんだろうかという完璧なサービスで、うっかりときめいてしまいながら、ポアロを後にした。





帰路、なぜだかわたしの隣には松田さんがいた。安室さんのウィンクの威力を噛み締めながら心を落ち着かせているところに突然と現れたので、落ち着くどころかまた驚きに鼓動が早まった。心臓に悪い人たちだ。
「なんで…」
『なんか聞きたそうな顔してただろ』
小声で話しかけると、さらりと返された。それでわざわざ現れたことに、律儀な人だなあと思う。
「松田さん、私にキスしませんでした…?」
これが勘違いだったら随分と恥ずかしい質問だ。
『したな』
これまたあっさりと返される。幽霊とのキスって、咎めていいものなんだろうか。
「理由はありますよね…?」
あのタイミングで彼は私に憑依したから、おそらくそのためだとは思っているが、しかしその手段が必要なのかがわからない。
『動揺させる、かつ集中させた方が入りやすいらしくてな。怪我した瞬間は余裕がなさすぎて逆にこっちのコントロールがきかなくなったが』
なるほど、と思いつつも、だからって、とも思う。みんながみんな不敵な人たちだな、恐ろしい。類は友を呼ぶとはこのことか。
『油断するなよ』
「、!」
そう言った瞬間に、ぐっと何かに顎を取られ上を向かされ、既視感のある冷たい感覚が唇に触れた。
『こんな風にな』
目の前ににやりと笑った顔が見えた次の瞬間には、もう彼の姿はなかった。
「−っ」
私は口元を押さえて、声にならない悲鳴をあげた。まったく、次からポアロにどんな顔をしていけばいいのかわからない。
おさまらない動悸を落ち着かせる余裕もなく、ただただ早足で家へ帰った。






(不敵ゴースト)

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