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かすみ立つ春


「先生、好きです」

放課後の化学準備室。
テキストにペンを走らせる先生に愛の言葉を告げる。

「わたしと、付き合ってくれませんか?」

そう言っても、先生は顔も上げない。
わたしが解いた問題にマルを付け終わった先生は、大体できてるな、と呟いた。

「先生、わたしの今の告白聞いてました?」
「だから、生徒は恋愛対象じゃないって言っただろ」

あっさりと返されるのは、いつもと同じこの言葉。 
照れもせず慌てもせず、顔色ひとつ変えずに先生はいつもそう言う。

「ケチ!絶対いい女になるのに!」
「はいはい、この問題が解けたらもっといい女になれるぞ」

テキストを差し出され、また新しい問題を示される。
…うう、もう少しおしゃべりしたいのに。先生はまた問題を解けと言う。

「やらないなら帰るか?」
「や、やります!がんばっちゃう!」

慌ててテキストを受け取って、問題を読み始める。
先生、ひどい。いやまあ確かに、勉強を教わる、という名目でここに来て、ほんとは忙しい先生に時間を割いてもらってるんだから。勉強はしないといけない、のはわかるけど。でも、

「これ難しい〜!」

ペンを放り出して泣き言を言えば、先生は、へえ?とからかうような顔をする。

「確かに応用問題だが、名字なら解けると思ったんだがな」

…ずるい。
そんなこと言われちゃったら、もっと頑張らないといけなくなっちゃう。

いつもこうやってわたしを焚きつけて、やる気を出させるんだからやっぱり先生ってすごい。

「ヒントが欲しければ、お伝えしようか?まあ、名字なら余裕かな」
「……先生、遊んでます?」
「とんでもない。教師として君の成績を向上させるために尽力してるだけだよ」

そう言って、にっこりと微笑まれる。
…先生は優しいけど、なんだかちょっといじわるな気もする。




一年生のとき、わたしは化学の試験で20点を取ってしまった。
もちろん100点満点のテストで、だ。

なんとなくやばい予感はしてたけど、さすがにショックで。その日の放課後、職員室に駆け込んでマスタング先生に何時間も付き合ってもらって化学を教わった。

当時、先生の担当は隣のクラスで、わたしの化学の担当ではなかった。わたしがいつも授業で教わっている先生はそのとき、もう職員室にいなかったのだ。

何がわからないかもわからない、そんな状態で先生に泣きついた。

──大丈夫だ、考え方は単純だから。

──そう、そんなに難しく考えることはないんだよ。落ち着いて、順番に考えていけばいい。

──理解できるまで、何時間でも付き合うよ。

授業を担当している先生の教え方よりマスタング先生の方がわかりやすくて、丁寧で、優しくて。ちんぷんかんぷんだった状態がようやく少しはわかるようになった。

また先生に聞きに来てもいいですか、と。
そう言ったら、先生はちょっと渋い顔をした。

確かに、マスタング先生はわたしの担当ではないのだから。
いつも教えてもらっている先生を無視して別の先生に質問をしに行く、というのはやっぱりあんまりいいことではないはずだ。

きっと先生にも迷惑になってしまう。それがわからないわけではなかった。

今度はちゃんと担当の先生に聞きに来ます。そう言おうとしたら、先生は少し考えてから、小さくこう言った。

──職員室じゃなくて、化学準備室でなら。…あの部屋は、私しか使わないから。



それからは、先生のいる化学準備室に通うようになった。

苦手だった化学が次第にわかるようになっていくのが楽しかった。先生が褒めてくれるのが嬉しかった。

今では、平均点を超える点数を取れるようになった。最初20点だったのを思うと、大きな進歩だと自分でも思う。


「何がわからないかもわからないんですうって泣きながら職員室に飛び込んできたのが懐かしいよ」
「…な、泣いてはなかったもん…たぶん…」
「それを思えば、かなり成績も上がったな。名字はよく頑張ってるよ」

先生はいつも大丈夫だよと励ましてくれて、わたしの気が済むまで丁寧に説明をしてくれて、くだらない疑問も初歩的すぎる質問も、きちんと答えてくれる。問題が解けたら褒めてくれて、頑張ったな、と言ってくれる。

…こんなの、好きにならない方がおかしかった。

先生が教えてくれるから、化学を嫌いにならなくて済んだのだから。


「さて、次の試験が楽しみだな。これだけ勉強してるんだから、相当いい点数が期待できそうだ」
「…あ、じゃあ!はい!いい点取れたらご褒美ください!」

勢いよく挙手をして提案してみた。先生は怪訝そうな顔をする。

「ご褒美?勉強するのは自分のためだぞ」
「う、それは…わかってるけど…」
「それに、前から言っているが特定の生徒を贔屓するようなことは、……はあ、わかったよ」

先生はわたしを見て、諦めたようにため息をついた。

「…名字はいつも頑張ってるし、私にできることなら、できる範囲で、多少なら、聞いてあげよう」

最大限譲歩をしてくれたようで、やれやれといった感じでまたため息をついた。わたしは小さくガッツポーズをする。

マスタング先生がなんだかんだ優しいということはよーく知ってるんだ。

「それで、何がいいんだ?」
「キス!」
「却下だ馬鹿者」
「えー!」

秒で断られた。

「生徒に手を出していいわけがないだろう」
「合意の上でも?わたしがいいって言ってるのに?」
「ダメなもんはダメだ。そんなこと言ってるとご褒美もなし」
「ええ……じゃあ、購買のチョコクッキーが食べたい…そのくらいならいいですか?」

先生は少し吹き出して、まあそれならいいよと言ってくれた。

やったあ!これならがんばれる!と喜んでいるわたしに先生は冷たい一言を告げる。

「ああ、試験期間になったらここと職員室は立ち入り禁止だからな」
「…そうでしたっけ!?」
「試験前はいつもそうだろ。聞きたいことがあれば授業のときか明日までに」

明日!?えー!じゃあしばらく会えないんですか!と言ったら、君は何をしにここに来てるんだ、と真顔で返された。





先生に会えないのも、たくさんの科目の勉強もつらい試験期間。
心が折れそうになりながらも、先生とした約束を果たすために、わたしは一生懸命勉強をした。

試験二日目の数学のとき、マスタング先生がうちのクラスの試験監督に来てくれたのが嬉しくて、少し浮かれてしまった。

先生と目が合ったときに、こっち見てないで集中しろとアイコンタクトをされて、慌てて問題を解き始めた。

これで明日の化学もがんばれるかもしれない、なんて。
…やっぱり浮かれている。





「はい、約束のクッキー」

試験期間が終わり、数週間ぶりにわたしは化学準備室を訪れた。

化学の結果は、83点。
学年平均が72点だったので、上を見ればキリがないけど、わたしにしてはかなりいい点数だったのだ。

「やったー!これ大好きなんです!ありがとうございます!」

おめでとう、と渡されたクッキーの箱。
先生は、本当に購買で買ってきてくれたみたいだ。

うれしい、がんばってよかった。
…こんなの、もったいなくて食べられない。

「名字が頑張ったからだよ。…でも内緒だぞ。他の生徒にも先生にも、言わないように」
「はーい!わかってます!」

先生がわたしにくれたものだもん。
誰にも内緒で、自分だけの宝物にしておきたい。

「それで、先生!そろそろ恋人になってくれますか!」

何度も何度も言っているこの言葉。先生は、またそれか、と呆れたようにため息をつく。

「生徒は恋愛対象じゃないよ」
「…先生、わたしもう子どもじゃないです」

生徒だということは、否定できないけど。
でも、もう子どもじゃない。

「テストのご褒美がクッキーなのに?」
「それは、先生がキスしてくれないって言ったからだもん」

だって、わたしはもう17歳。
友達の中には恋人を作っている子もいるし、そういう話にもなるのだ。

「…もう、子どもじゃないです」

言い訳するようにそう返すしかなくて、なんだか駄々をこねているみたいだった。

「…そうか、もう、大人か」

先生は、ふっと笑ってそう呟いた。
次の瞬間、ぐっと手を引かれて気付いたら先生に抱き寄せられていた。

「せんせい、」

目の前に見えるのは、先生の綺麗な顔。
切長の目に見つめられて、恥ずかしくて、どきどきしているのに目が離せない。

もしかして、キス、

「っ…」

びっくりして、思わず目をつぶってしまった。
おでこに、やわらかい感触。

ちゅ、と小さい音がして、おでこにキスされたということに気が付いた。

「…おでこ、ですか」

おでこにされただけなのに、先生に触れられたところが痛いくらいに熱く感じる。どきどきと、心臓が音を立てていた。

「さすがにそれ以上はダメだ。私がクビになってもいいというならしてもいいが」
「……」
「迷うなよ。ダメに決まってるだろ」

ぴしっと頭をはたかれる。ぜんぜん痛くない。
…どこまでも、子ども扱いをされている。

でも、確かに。
おでこだけでこんなに心臓がばくばくしていたら、唇になんてされたら心臓が止まってしまうかもしれない。

「生徒は、恋愛対象じゃないんだよ」

どきどきしたまま先生をじっと見つめると、またその言葉。

「やだもう、その呪いの言葉みたいなやつ」
「事実だからな。生徒にそんなことできるわけがないだろ」

むっと睨みつけるように見つめると、先生は話を逸らすように壁の時計を見上げた。

「…ほら、もう6時過ぎてるぞ。そろそろ帰りなさい」
「…はーい」

もう少しここにいたかったけど、先生がわたしの相手ばっかりしていられないのはわかってる。おとなしく鞄を持って、立ち上がる。

「先生、…いつも、ありがとうございます」
「私も生徒が伸びていくのを見るのは嬉しいよ。特に名字は、ちゃんと頑張ってるから。…じゃあ、気を付けて」

先生に見送られてわたしは部屋を出た。


いい点取れたし、褒めてもらえたし、ご褒美のクッキーもプレゼントしてもらえたし。

お願いしたときはだめと言っていたけど、おでこだったけど、…キス、してもらえたし。

でも、何度言っても、生徒は恋愛対象じゃない、のひとことで一蹴される。

本気なのに。
…もう、子どもじゃないのに。

年齢ってそんなに大きいもの?
だってわたしが17才で先生が29才だからなんとなくだめな感じがするけど、例えばわたしが22才で先生が34才だったらぜんぜんオッケーな感じしない?…しないかなあ。

ふう、とため息をついた。
…いつか、信じてくれるのかな。




その後もわたしの愛の告白は受け入れてもらえないまま。

またひとつ学年が上がり、わたしはついに受験生になった。

残り少なくなった高校生活は受験一色になる。
友達といても、受験、勉強、進路。そんな話ばかりになる。

いつでも息抜きにおいで、という言葉に甘えて夏頃まではよく会いに行っていたけど、秋以降はさすがに忙しくなり、そんな余裕もなくなってしまった。

瞬く間に季節が移り変わり、どんどん月日は流れていく。








春が近いとはいえ、まだ寒さの残る三月初旬。
わたしは化学準備室を訪れた。

こうしてこの部屋に来るのはかなり久しぶりだった。

ノックをすると、どうぞ、と声を返される。
何度も何度も聞いた、いつもの声だ。

「…失礼します」

思い出のたくさん詰まったこの部屋。
中に入ると、先生は窓から外を眺めていた。

その姿がとても絵になる。やっぱり先生はすごくかっこいいなと考えてしまった。


「…名字、卒業おめでとう」

振り向いた先生は、微笑んでいた。


そう、今日わたしは卒業する。
慣れ親しんだこの学校から巣立って、新しい世界に行く。

…もう、先生には会えない。

おめでとうと言って、優しく笑っている先生とは反対にわたしは泣きそうだった。

それに気付いたのか、先生は大丈夫だよと言う。

「大学は楽しいぞ。勉強も、学校生活も。いろいろな人と出会って、素敵な経験をする。大変なこともあるかもしれないが、それは必ず名字の糧になる」

名字なら大丈夫。
そう教え諭すような口調は今までと同じ先生だった。


「…もう、会えないですか」

そんなこと聞かなくても、わかっているのに。
もう、会えないのに。

最後の悪あがきで、そう聞かずにはいられなかった。

「卒業生なんだから、いつでも来てくれればいいよ」

…違くて、そういうんじゃなくて。

やっぱり最後まで、わたしはたくさんいる生徒の一人でしかなくて、いつか忘れられてしまう存在で。何度も伝えたこの言葉も、信じてはもらえなくて。

好きですと何度言っても、その度に生徒は恋愛対象じゃないと言われていた。もっとちゃんと伝えていれば、わたしが真剣だってことが伝わっていたのかな。


「…たくさん、お世話になりました」

わたしは頭を下げた。
きっともう会えない。会いたいけど、やっぱりここに会いに来るのはもうできないと思うから。

「こちらこそ、…最初はどうなることかと思ったけど。教えたことをきちんと吸収して真面目に取り組む姿は素晴らしかった。教え甲斐のある生徒だったよ」
「…ありがとうございます」

褒めてもらえたのは嬉しかった。

でも、やっぱり最後まで「生徒」でしかないんだなと、何度も言われてわかっていたのにその言葉に切なくなってしまった。

「先生は、大人に憧れてるだけだよって、言ってましたけど」

最後にもう一度、ちゃんと。伝えたくて。

「先生のことが、好きでした。…伝わってないと、思うけど」

また、涙が滲んでくる。
泣いたら先生もきっと困っちゃうから、我慢しないといけないのに。

さっき、卒業式のときも泣かなかったのに。
ああもう、ああ、もう…


「…名字、俺がいつも言ってたこと、覚えてるか?」

先生は懐かしい思い出に浸るように呟いた。

「…君は、呪いの言葉だと言っていたな」

先生がいつも言ってたこと。…呪いの言葉。

「…“生徒は恋愛対象じゃない”」

いつもいつもそう言われて、好きだとも嫌いだとも言ってもらえなくて。そもそもわたしはその対象ではないのだと、言われていたんだ、ずっと。

「…じゅーぶん、わかってますよ」

そんな、最後に改めてそんなこと、言わなくても。
ちゃんと理解してるのに。


この学校だったから先生に出会えた。

でも、もっと別の場所で出会えていたら、もっと違う関係になっていたのかな。

ずっと、そう考えずにはいられなかったのに。


「…わかってないよ」

ふと、そんなことを言われて顔を上げた。
どういうこと、と言う前に先生はまた口を開く。


「…今日、卒業したんだろ」

はっと、わたしは息を呑む。

「…せんせい」

涙でぼやける視界の向こう、先生の顔はよく見えなかった。

「…ほら、もう泣かないで」

先生はわたしの涙をそっと拭ってくれた。


「…先生、好きです」

もう何度目かわからないこの言葉。

うん、と。
先生は頷いた。

否定せずに聞いてもらえたのは初めてだった。

開けたままだった窓から風が吹き込んで、カーテンが揺れる。
春の匂いのする、優しい風だった。


2021.2.8