本音を溶かして泡に沈めた
ロイがキッチンで夕食の支度をしているときに名前が帰ってきた。それを出迎えておかえりと言うと、彼女はいつものようにはにかんだ顔を見せる。
それから視線をダイニングテーブルに移して、わあ、と声を漏らす。
「これ、大佐が買ったんですか?」
「ヒューズに貰ったんだ。田舎から送られてきたと言っていた」
テーブルに準備していた三本のワイン。赤と白、そしてスパークリングワイン。
ワインがたくさんあるから取りに来い!といつもながら強引な誘いを受けて、非番だったロイは今日ヒューズの家に行ってきたのだ。
「…三本も、いいんでしょうか?」
「あいつの家にも売るほどあるらしい。箱で持って行けと言われたのはさすがに断ったよ」
彼女はボトルを持ち上げて興味深そうにラベルを見る。
「やっぱり乾杯はスパークリングワインがいいですね、でも赤も白も飲みたいなあ」
うきうきとした様子でワインを手に取る名前。
お互いそんなに弱くないとはいえ、さすがに三本は厳しいのではないだろうか。
「…明日お休みだし!大佐もお休みでしたよね?」
無理はしない程度に、飲んでみませんか?きっとおいしいですよ、なんて言うものだから。
「わかった、付き合うよ」
そう返したら彼女は嬉しそうに、やった!と小さく声を上げた。じゃあ少し早いけど食事にしようか。そう言って自分はキッチンに向かう。
まずはスパークリングワインを開けて乾杯をする。その後、食事に合わせて白ワインを開けた。
さすがに三本目の赤ワインまでは開けなかったが、食事が終わる頃には、二本のワインはあらかたなくなっていた。
その後も、ソファーに移動して残ったワインを二人で楽しんでいた。
「ヒューズ中佐のおうちって、ワイン農家なんでしたっけ?」
「いや、実家ではなく近所だか親戚だか、と言っていたかな…毎年大量に届くがさすがに夫婦二人じゃ飲みきれないと言っていた」
残りは白ワインだけだった。二人でまさかこんなに飲むとは。しかし軽い口当たりで飲みやすい。
まだたくさんあると言っていたから、また貰ってこようか。そう言おうとして隣に座る名前を見ると。
「…名前?」
こてん、と自分の肩に頭を預けてくる。
「んー…眠くなってきた…」
自分も彼女も酒は弱い方ではない。そんなに顔に出ないのもあって飲み進めていたが、どうやら結構酔いが回っていたらしい。
彼女が手に持っていたグラスを取り、ローテーブルに置く。白ワインとはいえ、溢れて服についたら大変だ。
「…まだ飲んでるのに」
「無理しない程度で、って自分が言ったんだろ」
「そうだっけ…」
正直なところ酔っ払った彼女はいつも以上に可愛いので普段から本当はこういう姿を見たかったりする。
しかし、そのために飲ませるというのは姑息というか彼女の信頼を笠に着ている気がして、自分から飲ませるようなことはしないようにしていた。
まあそんなに弱くもないので食事と一緒に嗜む程度ではこんな風になることもないのだが。
しかし、ああ、とため息をつく。
飲ませたわけじゃない、確かに今日のワインは美味かったからな、と頭の中で言い訳をする。
腕にぎゅうと抱きついてきた名前の髪をそっと撫でると、嬉しそうに微笑んだ。
「おいしかったですね、赤ワインはまた今度の楽しみですね」
「ああ、白もスパークリングもまだたくさんあると言っていたから、また貰いに行こうか」
「うれしい、今度はわたしも行きますね、中佐にお礼もしないと…」
「ヒューズも喜ぶだろう、まああいつが作ったわけではないが」
「ふふ、そうですね」
それを言って、しばらく彼女は黙っていた。
眠ってしまったのかと思い、ベッドに連れて行こうかと考えていたところで、ロイ、と自分を呼ぶ声がした。
「…名前?」
「ロイ、…わたしまだ、寝たくない」
空耳かと思った。
彼女は恥ずかしがって、いつまでも自分のことを名前で呼んでくれないから。
でも確かに、ロイ、と自分の名を呼んでいた。
名前を呼んでもらえただけでこんなに動揺している自分は、本当にプレイボーイだなんだと言われていたロイ・マスタングなのだろうかと自分でも思うほどだった。
「…名前」
彼女の顔を見ると寝ているわけではない。酔っているが寝言で言ったのではないようだった。
いつもすぐに目を逸らしたがるのに、今日は真っ直ぐに見つめ返された。
「…どうしたんですか」
「いや、名前で呼ばれた、から」
「うれしかった?」
「…もちろん」
「ふふ、かわいい」
その微笑みにどきりとする。酔ったときの彼女は魔性というか、危険で仕方ない。せっかくこっちが我慢して理性を保とうとしているのに向こうからそれを越えてくるのだ。
「…ね、こっち向いて」
顔を向けると、ぐっと押されて半ば押し倒されるような形になりながらも彼女を抱き止める。突然のことに動揺した自分を眺めて名前は満足したように笑った。
「名前、」
その声を呑み込むように名前に口付けられた。
触れるだけでなく、唇を吸うようにちゅ、と音を立てて何度もキスをされる。夜にする恋人同士のそれというよりは、子どものようなもの、だけど。
「ロイ、」
彼女からキスをされて、すぐ離れることなく何度も、というのはおそらく初めてのことだった。喜びと興奮と、ある種の怒り、なんでこんなに可愛いことをするんだ、といった思いに襲われていた。
キスの合間に名前を呼ばれることにもひどく興奮して、されているのは可愛いキスなのに、おかしいくらいに煽り立てられて、体がゾクゾクと震える。
このままいつもみたいに自分が主導権を握ってもっと彼女を味わってもいいのだけど。でもこんな機会はまたとないし、いつものキスはいつだってできるな、というなんとも贅沢なことを考えて、名前にされるがままになっていた。
首筋に唇が移動して、いつも自分がするようにキスをされる。とはいえ痕が付くようなものではない、可愛らしいキスだった。
口を離したあと、自分からしてきたくせに照れたように下を向いた名前に触れるだけのキスを返した。
「…こんなの、どこで覚えてくるんだ」
いつもの彼女からは考えられない行動だったので、誰かに吹き込まれたのか、というか今までにこういうことを他の男にしたことがあったのか、なんて不安になってしまった。
彼女は、んー?と少し考えるような素振りを見せる。
「喜ぶかなって、思って」
えへ、と笑った彼女の可愛いことといったら。いろいろ考えていたことは全て吹き飛んでしまった。
もうダメだ、ここまで耐えた自分をどうか褒めて欲しい。
抱き締めてその耳元に唇を寄せる。
「…名前、ベッド行こう」
今夜は彼女を朝まで抱き締めて、何度もキスをして、思う存分に愛し合いたい。もう我慢できそうにない。そう思った、のに。
「ぐー…」
これは、もしや。
「…寝てる?名前」
彼女は腕の中ですやすやと寝息を立てていた。名前、と呼び掛けても返事をすることはない。
簡単には諦めがつかないが、彼女を無理に起こすわけにもいかない。
はああ、と思わず盛大なため息が漏れた。
「…誘うだけ誘って…」
ロイはがっくしと肩を落とす。そうだ、彼女は酒を飲むと、特に今日みたいに飲めばすぐ眠くなってしまうことを忘れていた。そういえば先程も眠いと言っていた。
この状態でお預けはキツすぎるぞ、と文句を言いたいが彼女はもう夢の中だ。
仕方ない、ベッドに連れて行って寝かせよう。
またひとつため息をついてから、彼女を抱き上げた。
「…ん、大佐……」
気持ちよさそうに眠っている名前が呟いた。今度こそ寝言のようだった。
「…大佐、ね」
無意識の寝言に出るのがその呼び方ということは、やはり先ほど名前で呼んでくれたのは自分のためにあえて、ということなのだろう。
彼女のそんなところがたまらなく好きだ。
そして、本当に自分は名前に弱いし、甘いし、彼女には勝てないと思う。それでもいいのだ、惚れた弱みというやつか。
はは、と苦笑いが漏れる。
自分が、こんなことを考えるようになるとは。
起きないように名前をベッドにそっと寝かせて、ブランケットを掛ける。無防備なその寝顔を眺めてから、寝室を出た。
空になった瓶や置いたままのワイングラスを片付けてから、残っていたワインをひとり楽しむことにする。
ワイングラスを傾けて、またため息が出そうになったのを押し込んだ。
今度は箱であのワインを貰ってこよう。名前も喜ぶだろうし、それに。
…また彼女のあんな姿が見られるなら。
そんな邪なことを考えながら、残っていたワインを飲み干した。
2020.10.29