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たして、わけて、そして


はあ、と大きなため息が出た。

明日の執行会議で使う資料を作るようにと、上官から急に言われた。他のメンバーは出張や訓練で不在だから私しかいないのだと、そう言われて。

このところ、こういう急な指示が続いていた。

仕事や雑務を押し付けられている、というか。嫌がらせだと感じるようなこともあった。

そのせいでしばらくバタバタとしていて、最近は帰るのも遅くなっていて。

…今日は、ロイと食事に行く約束をしていたのに。
でも上官にそんなことを言うわけにもいかず、しぶしぶ依頼を引き受けた。

書類の山を前にして、もう何度目かわからないため息が出る。

この量、内容だとかなり遅くまでかかりそうだ。書類はかなり雑然と保管されていて、整理してファイリングするところから始めないといけない。

時計を見ると、時刻は19時過ぎ。
もしかしたら多少の残業で済むかもしれないという希望は完全になくなった。

上官が離席するのを待って、こっそりとロイの席に電話をかける。今ならまだ自席にいるはずだから。




電話口の彼に謝ると、彼は残念そうにそうか、と呟いた。

「…ごめんね、急な仕事が入っちゃって、」
『私もまだ仕事が残っているんだ。終わるまで待っていようか』
「…や、でも、いいの、…時間読めないから待たせちゃうだろうし」
『…大丈夫か?』
「大丈夫、今日は急に入っちゃっただけで、……あ、では、また明日ご連絡しますので失礼します」

廊下を歩いてくる足音が聞こえる。
私は後半を早口で捲し立て、慌てて受話器を置いた。


案の定、執務室に戻ってきたのは上官だった。

彼は、数ヶ月前に東方司令部から異動となり、中央に赴任した准将だ。

准将のことを知る同僚は、剣術や銃の扱いもそこそこ、学科や戦術もそこそこで、取り立てて目立った人ではないと言っていた。

そして何より、人望がないと言う。

こんな言い方はよくない、けど。
いわゆる「ハズレ」の上官だった。



「なんだ、頼んだことは終わったのか?」

執務室に戻ってきた准将は嫌な笑みを浮かべて私を見る。

「…いえ、まだです」
「そうか、電話をしていたようだったから、てっきりもう終わったのかと」

万年筆を握り締めて、すみません、と小さく言葉を返した。

「すみません、明日までには、終わらせますから」

准将はどかっと席に座った。数ヶ月前に来たばかりというのに彼のデスクはすでに書類が積み上がり、他の人のものより雑然としていた。

「中央の軍人は皆とても優秀だし、君は配属からずっとここだろう?田舎者の僕がやるより素晴らしい報告をまとめてくれるに違いないよね」
「そんなことは、」

この人は常々、こういうことを言っていた。
噂によると、従前からセントラルへの異動願を出し続けていたらしい。いわゆる出世コースにいる中央勤務の軍人にコンプレックスを抱いているのではないかという話だ。

彼は席を立ち、私のデスクに広がる書類を覗き込む。その進捗を確認してからまた呆れたようにため息をついた。

「名字少尉、明日の会議で、僕に恥をかかせないように頼むよ」

ぽん、と肩を叩かれてぞわっとする。
小さい声で、はい、となんとか答えた。

そうは言ったものの、これが明日までに終わるのか、会議に間に合うのかはよくわからなかった。

単純な書類整理だけではなく、報告の取りまとめと課題検討、提言までひとりでやれと言っているのだから。

これは、上席の業務ではないのか。
少なくともこの准将が異動して来る前にこの部署にいた上官は、この数ヶ月に一度の会議のため、念入りに準備をしていたはずだ。

前の上官は部下に丸投げするようなことはなかった。そもそもこれは自分ひとりで取り組むべきものではないと思ったが、それは言えなかった。


「まあ、終わらないなら…優秀なマスタング君に助けてもらったら?」

その言葉を聞いて、万年筆を握る手に思わず力が入る。

この人はしばしばこういう、冗談を言うのだった。

私とロイが恋人だということは、公にはしていない。
彼の立場を考えて、そして私のためにも、その方がいいとなったのだ。そのため軍部内で知っている人はほとんどいない。

それなのに、最近勘づかれてしまったようだ。
この人は鎌をかけるようにロイの名前を出して、私の反応を見ているようだった。


「…どうして、マスタング大佐のお話になるのでしょう?」

もう知られているようだけど、素直に認めたくはなかった。悔しくて反論するようにそう言った。

平静を装って、何も思っていない振りをして、目をそらしたら負けだと思って、私は彼を見る。

「どうしてって、君の恋人だろう?マスタング大佐は」

知らないとでも?そう言いたげな顔で准将はにやっと笑う。私はこの顔がすごく苦手だ。


「…ねえ、マスタング大佐はどうやって君をたぶらかしたのかな」

私が何も言わないせいか、彼は少し退屈そうに言葉を続ける。

「それとも、君があいつを誘惑したのかな」

でも、耐えられる。
余計な揉め事は起こしたくないし、私が我慢していれば済む話だ。

相手は上官だ、私が逆らっていいわけがない。言われた仕事をこなせばいい、我慢して、

「彼は人を騙すのが上手いよね、そうやって上層部にも取り入ったのだろうな。…君も騙されているのかもよ」

なんで、この人はこんなしょうもないことを言うんだろう。ロイのことを何も知らないくせに、こんなくだらないことを言うこの人に対して怒りが込み上げる。

ロイは以前、俺は敵が多いんだと言っていた。
自分は平気だが、そのせいで名前に迷惑をかけるかもしれない、それが心配だと。

でも、私だって。
自分がどう言われようと、子どもじみた嫌がらせをされようと、そんなことはどうでもいい。

彼が私を想ってくれているのと同じくらい、いやそれ以上に、私は彼を大切に思っている。自分のことよりも、自分の大切な人のことを馬鹿にされるのが許せなかった。

「まあ、内乱に派遣されたらそりゃあ手柄も立つだろうよ。ずるいよね、マスタング大佐は」

でも、我慢しなければ、


「人の死を利用してのし上がるなんて、図太いね、彼は」

その言葉で、頭に血が上った。
万年筆からインクが滲んで書類に大きな染みができていた。

彼がどんな気持ちであの内乱を戦ったか、そして今どんな気持ちで生きているか、この人には全くわからない、くせに、わかるはずもないくせに。

頭に血が上るとはこのことなんだろうなと思った。
何をしたいかはわからなかった。私は思わず立ち上がっていた。

私の手は、装着しているピストルに伸びていた。
私はこの人を許せない。許さなくて良い。

だから私は、



「お話し中に、失礼いたします」


その声は突然だった。
その瞬間は突然だった。

私の中でどす黒く渦巻いていた怒りがすっと落ち着くようだった。

だって、この声は。


執務室の入り口、開けたままだったドアの前に、ロイが立っていた。

…どうして。
どうしてここに?

そう思ったのは私だけではない。准将も同じく驚いた顔でロイを見ていた。


「マスタング大佐、どうしてこんなところに」

気まずそうに狼狽する准将と、余裕のある表情のロイ。
ロイはにっこりと微笑んだ。

「いえ、大したことではありません。恋人の帰りが遅いもので、何かトラブルに巻き込まれたのかと思いまして、様子を見に」

恋人、と、ロイはそう言った。

ああ、きっと私を心配してきてくれたのだ。
たぶん今までの会話は聞かれていたし、きっと何もかもバレてしまっている。

「ああ、准将はご存知でしょう。名字少尉は私の恋人です。近頃帰るのが遅いもので、今日も急に仕事が入ったと。心配にもなるでしょう?」

ロイはゆっくりと部屋に入ってきた。かつかつと、軍靴の音が部屋に響く。

「…トラブルなんてないよ、彼女には急ぎの仕事を頼んだだけだ」
「ええ、そうですね、トラブルというほどではなかったようです」

准将から私を隠すように、守るように彼は私の前に立つ。

「…あなたがしているのは、子どものようないじめですね」

どきりとした。
やっぱり、彼はすべて気付いている。

「私のことが気に入らないなら私が直接伺いましょう。准将のこのやり方は、いささか卑怯では?」
「何を言うんだ、なんのことだか」
「わからない、とは言わせませんよ。あなたの下劣な言動をしばらく聞かせていただきましたから」

やっぱり聞かれてしまっていた。
恥ずかしさと申し訳なさと、この問題を自分でどうにかできなかった不甲斐なさが込み上げてくる。

何より、准将の最低な言葉を彼の耳に入れたくなかったのに。

「耐えるのが大変でした。私は自分のことなら何を言われても構わないが、自分の大切な人のためなら何をするかわからない」

ロイは相変わらずにっこりと微笑んでいた。
でも、目はまったく笑っていない。

「…僕を脅すつもりか?…上官だぞ、マスタング大佐」
「脅しで済めばいいと自分でも思っていますよ。本当に殺したくはない」

ロイが手を挙げ、ぐっと指先に力を入れた。

それは、いつもの錬成の仕草だった。
これが何を意味するのか知らない人は、少なくとも軍にはいないだろう。
まさか、だめ、と言おうとしたが彼は左手で私を制す。

准将は掲げられた手とロイの顔を交互に見て、ぎょっとした顔を見せる。怯えたように、後退りをしていた。

「どうか、私をこれ以上怒らせる前にお帰りください」

その言葉が決定打となったようで、准将は逃げるように執務室を出て行った。



その姿を見送って、ロイは手を下ろす。

「名前、大丈夫か?」

私はそこでようやく安心した。
彼の顔を改めて見ると、涙が溢れてきた。

「…ロイ、でも、なんで…」
「このところ、さっきの電話もなんとなく様子が変だったから」
「…ごめんなさい」

なんで、彼はいつもこんなに強くて、私のことを考えてくれて、私のことなんてお見通しで、いつもいつも優しいんだろう。こんなにも、私を守ってくれるのだろう。

「…俺のせいだな。あの人は昔から、俺をよく思っていなかったから」
「そんな、ロイのせいじゃ…」
「…おそらく、以前は名前を気に入っていたんだろう?と思ったらあの気に食わないマスタングの恋人だったから癇に障ったってところか」

それは図星だったけれど、認めるのが憚られて私は目を逸らした。

以前は准将から好意的に思われていたらしく、セクハラまがいの言動や無理な誘いが多かった。
それは断っていたのだが、このところそれが逆になり、嫌がらせのようなことが続いていた。多分、ロイとの関係が知られたからなのだろう、と思う。

「…気付かなくて、すまない。俺のせいでこんなつらい目に遭っていたとは」
「ううん、ロイのせいじゃない。…それに、嬉しかった。ロイが来てくれるなんて思わなかったの」

ここが司令部だということも気にせず、私はぎゅうっとロイに抱きついた。さっきまで感じていた不安や恐怖、怒りはもうなくなっていた。

「私もう平気だよ、…ありがとう」

私を落ち着かせるように、彼に頭を撫でられる。
そこで、ロイが手にしているのは発火布ではなく軍用品の、普通の手袋だったと気付く。

「…これ、」
「ああ、これか?…腹が立って本当に火でもつけてしまったらまずいからな」

つまり、脅しだけで本当に攻撃をするようなつもりはなかったと。確かに、准将は錬成の仕草を見ただけで、かなり恐怖の色を浮かべていた。

「とはいえ、腹が立って仕方がない。これだけじゃ気が済まない」
「あのね、ロイがヒーローみたいに助けに来てくれたの、かっこよかったよ。…本当に、安心したの」

その言葉は心の底からの本心だった。
こんなお芝居の筋書きみたいなことが現実に起きるなんて、夢にも思わなかった。

ロイは私の頭をぽんぽんと撫でて、ふうと息をついた。

「無理しなくていい。早く帰って今日はゆっくりしよう」
「…あ、でも頼まれた仕事が…」

明日の会議で使うと言われているものだから、さすがにほったらかして帰るわけにはいかない。そう思ったが、ロイはデスクの上の書類をちらっと見て、ああ、と呟いた。

「明日の執行会議だろう?そんなものやらなくていい」
「でも、」
「大丈夫だ、これは上官の責任であって名前の仕事ではないよ。…何か買って帰るか、あったまるものがいいかな」

有無を言わさぬように腕を引かれる。積まれた書類はそのままに私たちは執務室を出た。






次の日の執行会議、各部の責任者が集うこの会議にロイも出席していた。そこでは、上官に詰められながらしどろもどろになる准将の様子を見ることができた。

執行会議では各部の報告を行い、課題の検討をする。
その準備を名前に丸投げしたようだが、本来、これは上席が行うべきものだ。適当な準備で乗り切れるものでもない。もちろん准将は今回きちんとした報告ができず、質疑にも答えられず。

これはただの報告会議ではない。
他者へのアピール、牽制といった権力争いの縮図みたいな場所でもある。そこでそんな気の抜けたことをしているから上に行けないんだと言ってやりたいくらいであった。

ロイよりひと回りもふた回りも年齢が上なのにほとんど階級が変わらないのも、この歳になるまで中央に呼んでもらえなかったのもそういうところだろう。

大した取り柄も功績もない者はすぐに梯子を外される。下士官は虎視眈々と上を狙っている。ここはそういう場だというのに。

そして、異動したばかりの彼にそれを助言してくれるような者も中央にはいなかったということだ。

怒りを通り越して呆れ、同情の気持ちすら湧いてくるようだった。




「准将、昨日はお騒がせいたしました」

会議後、ロイはにっこりと微笑んで准将に声をかけた。
今日は大活躍でしたねと皮肉のひとつでも言ってやりたかったが、その言葉を告げる前に彼は怯えた顔をして逃げていった。

その後ろ姿を見送って、ロイは息を吐く。

あの准将は先の内乱のとき、理由を付けて戦地への派遣を回避した。あの戦いに参加していないし、英雄とまで言われた自分の姿を見ていない。

昨日は名前の前だったし、脅しとはいえあまり彼女の前で自分のこういう汚い姿を見せたくなかった。出来るだけ穏やかに、向こうが進んで会心するよう働きかけたつもりだったが、どうやら効果はあったようだ。
そもそも名前が自分の恋人だと気付いているのにこんなことをするなんて、自分も舐められたものだ。

見えないところでまた名前に嫌がらせをするようなことがなければいいが。もしそんなことがあったら本当に殺しかねないと思っていたが、どうやらその心配はなさそうだ。

軍にいるのに随分と腑抜けた男だ。
だから目下の者にハラスメントをするのだろうな。




さて、会議も終わったことだし、ちょっとくらい休憩しても怒られまい。

そう思い、ロイは名前の執務室に向かう。話す余裕がないまでも、廊下からでも多少様子を見られたらいいんだが、と思っていたら。

ぱっと執務室から出てきた名前と廊下で鉢合わせた。

「…あ、大佐!…会議終わったんですか?」

手にたくさん書類を抱えて忙しそうに見えたが、時間はあると言う。

そのまま名前を連れて近くの休憩室に入った。

椅子と丸テーブルがいくつか置かれているだけの部屋、そこには誰もいなかった。廊下から離れた奥の席に座って、会議でのことをかいつまんで説明した。



「准将なら自業自得だ。相当詰められてたから、多少は懲りただろう」

昨日今日で心を入れ替えるとは思えないが、少なくとも名前への嫌がらせはやめるだろう。

「…そっか、ちょっと可哀想かなって思っちゃったけど、でも他のみんなもいろいろ困ってたし、やっぱり下士官からそんなことは言えなくて、」

ありがとう、と、もう何度目かわからない言葉を呟いた。

おそらく名前以外へのハラスメントの例もいくらでも見つかるだろうから、配置転換を人事局に進達した方がいいかもしれないなと考える。あの様子だとじきに自分から異動願を出すかもしれないが。


「…あのね、私、我慢するつもりだったんだけど、…ロイのことを悪く言われてカッとなっちゃって」

私のことはいいの。
でも、ロイのことを悪く言われるのは許せなくて。

そう、きっぱりと言った。
言葉とは裏腹に、彼女は泣きそうな顔をしていた。

「あの状態で、自分自身が何をするかわからなかった。…本当に、ありがとう」

司令部であまりよくないとわかってはいた。しかし、ロイは泣きそうな名前をそっと抱き寄せた。

ありがとうなんて言う必要はない。

「ごめんね、ロイ、いつも助けてもらってばっかりで」

謝る必要もない。

「俺は、…」

──俺は本当に名前を守れているのかな。

その情けない言葉が口から出てしまった。

自分のせいで、恋人にこんな思いをさせてしまうことに腹が立つ。
あんなつらい思いをさせて、平気だよ、大丈夫だよと恋人に言わせてしまう自分があまりにも不甲斐ない。

何かあったら言ってくれ、なんて彼女に言っていいのだろうか。
彼女はきっと、自分に心配をかけたくないと、そう思って何も言わなかったのだから。

いつもいつも、そういうひとなんだ。

関係を隠しているのも、恋人であることを理由に優遇されたり、他の上官から目をかけられたりすることを彼女が望まないからだ。
はっきりとそう言われたわけではないが、それはロイもわかっていることだった。

きっとあの嫌がらせだって以前からされていただろうに、悩んでいたはずなのに、そばにいたのに。これまで何もしてあげられなかったではないか。

そしてそれは、自分のせいなのだ。

お礼を言われるようなことなんて、自分は何も、


「…ねえ、ロイ、」

考え込むように俯いていたロイを、名前は真っ直ぐに見つめていた。

「私もっと強くなる、ロイを守れるくらいに」

それは思いがけない言葉だった。

「…名前が、」
「ロイがいつも私を守ってくれるから。だから、私がロイを守る」

いつもロイは、私のことばっかりだもん。
優しく、しかし真剣に。彼女はそう言った。

…ああ、確かにそうだ。
いや、名前だってそうじゃないか。

自分は平気と言って、相手のことばかり考えて。
お互い、相手のことばっかりだ。

…だから、自分たちはちょうどいいのだろう。

「私は、ロイがいるから頑張れる。…ロイも、でしょ?」

ああ、と返事をしたが、それは彼女に届いただろうか。

なんだか鼻の奥がつんとして、ありがとう、と返した自分の声がずいぶん小さく聞こえた。

溢れ出る感情を伝えたくて、でも上手く言葉にはできなくて。
もう一度強く彼女を抱き締めた。


2022.5.5