スカーレット
ロイが帰宅すると、名前はソファーに座り、真剣な顔で手を見つめていた。
ただいま、と言うと顔を上げていつもと同じ笑顔を見せてくれたが、またすぐに手元に視線を落とす。
何をしているのかと近寄ってみると、右手に小さいブラシを持って、左手の爪に何か塗っている。
「マニキュア?」
「…明日、結婚式だから、」
ああ、確か明日は友人の結婚式だと言っていたか。
話をしながらも、彼女は一生懸命に手を動かしていて、こちらを見てくれない。赤い液体の入った瓶にブラシを入れ、丁寧に塗っていく。
隣に座ってその様子を見ていると、名前は照れくさそうに少し横を向いて手元を隠した。
「上手くないし、…恥ずかしいからあんま見ないでください」
一応ごめんと返して、その様子を見ていた。
赤といっても激しい炎のような赤ではなくて、ワインカラーというのも違う。それを表す名前が思い浮かばなかったが、名前によく似合う色だと思う。
「よし、完成!」
しばらくして、名前が嬉しそうな声を上げた。
左手を掲げると、きれいに塗られた爪が鮮やかに光る。
「終わった?」
「はい、次は右手」
まだ、あるのか。それが終わるまで、そしてそれが乾くまでまだしばらくはその小瓶とブラシに彼女を取られてしまうのか。
おそらく自分の顔にはその不満がわかりやすいくらい浮かんでいるだろう。
それを気にも留めない様子で、名前は扇ぐように左手をひらひらと動かす。
そうして少し乾かしてから左手にブラシを持ち替えて、今度は右手に塗り始めた。
「あとどのくらい?」
「うーん、…乾かして、そのあと重ね塗りもするから、まだまだかかるかなあ…」
堪えきれず聞いてみたが、つれない返事。
顔を上げてくれない名前にちょっとちょっかいを出したくなって、ロイは肩にこつんと頭を載せる。
やめてくださいと冷たく言われるかと思ったら、もう、といつもの台詞を言われる。
「なあに、大佐も塗りたいんですか?」
その質問には答えずに、肩に手を回して抱き寄せた。
「もう、塗ってるんだから」
だめ、とこちらに背を向けて彼女はまた作業を続けようとする。邪魔をするのは良くないと分かっているのに、彼女をソレに取られてしまったようで悔しくなる。
後ろから抱き締めて、耳に唇を寄せる。
「…名前」
だめと言われてもそんな言い方ではやめることなんてできない。それでもこちらを無視して作業を続けようとするので、後ろから首筋にキスをした。
小さく声を上げる名前が可愛くて、口元が緩んだ。
向こうは手が塞がっているので、こちらの手を止めることもできずにされるがままだ。
「っ大佐、や、」
「…ほら、続けて。塗ってるんだろ?」
そんな意地悪なことを言って、でもそれを続けられないように後ろからそのやわらかい体に手を這わせる。
ちょっとは続けようと抵抗して見せたものの、すぐに彼女の手は止まってしまう。
もう、と怒ったような顔をしてこちらを向いたその唇を奪った。
舌を絡め、息ができないくらいに攻め立てる。
次第に力が抜けていって、抱き締めれば抵抗せずに体を預けてきた。
もう、解放できるわけがないのに。
そんな目で見られたら、止められるわけがないのに。
彼女が手に持ったままだったブラシを奪ってテーブルに適当に置いた。
ソファーにゆっくりと押し倒して、彼女の着ているブラウスに手を差し入れる。
「…だめ、マニキュアついちゃう、」
後で怒られるだろうなと思いながら、いいよそんなの、と呟く。
だめだってば、となおも声を上げる名前を黙らせるように唇を塞いだ。
「…ね、ほら、ついちゃったでしょ」
お互い適当に脱いだだけのシャツをまた適当に着直したあと、ロイのシャツを指して名前が言う。
言われてみれば確かに、名前が掴んでいたところ、腕や襟元などに赤いマニキュアがついてしまっている。この様子だと背中側にもついていそうだ。
「まだぜんぜん乾いてなかったんですよ。落ちるかなあ、これ…」
彼女は心配そうにシャツを見つめている。
「上に軍服着たら隠れるから平気だろ」
「だめですよ、けっこう目立つし」
「名前がつけた痕って感じで嬉しいけど」
「い、言い方!変な言い方しないで!」
割と本気だったのだけど彼女は恥ずかしそうに下を向いてしまった。
そんなことより、と彼女の手を取る。
「これ、悪かった」
きれいに塗られていた爪は、ところどころマニキュアが取れてまだらになっていた。
「…ほんとに。やり直しですよ、これ」
ごめん、と再度謝った。
ソレに名前を取られたようで悔しかったんだ。
素直にそう言ったら、彼女は目をぱちぱちと瞬かせた。
さすがに呆れさせたか。いい歳した大人が言うことではなかったなと、反省したのだが。
「…大佐、わたしが他の男の人に告白されても嫉妬しないのに、マニキュアには嫉妬するんですか?」
彼女が言っているのは、以前、彼女が行きつけのレストランの店員からラブレターをもらったときのことだろう。
その事実を彼女は隠していたが、それを知ったロイが特に動じず、彼女が案じていたような反応を示さなかったので、名前の方が驚いていた。
「名前が好きなのは俺だろ、だからラブレターくらいで揺らがない、なんて、そのときは言ってくれたじゃないですか」
そう言って彼女はくすくすと笑い出した。
「それはそうだけど、」
彼女のことを信じているから、そのくらいで疑いなどしない。それは本心だ。
でも今回は、かなりしょうもない嫉妬、というか。
構ってもらえなくて寂しくて、なんてあまりに子どもっぽくて、みっともない。
「…大佐、かわいい」
笑いながら、彼女は嬉しそうに言う。
以前から彼女はよくロイのことを「かわいい」と形容する。
なんだか情けないのであまり嬉しくはないのだが、名前はやたらと嬉しそうにそう告げるのだった。
自分が不機嫌になったと思ったのか、彼女はごめんなさい、と言った。
「怒っちゃいました?」
「いや、」
怒ってはいない。
自分が情けないと、思っただけだ。
それを見た彼女は、ふふっと笑う。
「…わたしが大佐のことしか見てないって、あなたが一番わかってるくせに」
ね、と名前はロイの頬に手を寄せる。
その言葉の通り、真っ直ぐ自分を見つめる名前の瞳には自分だけが映っていた。
「…名前」
そのまま名前からキスを受ける。
少し触れて、それはすぐに離れた。
「…そうでしょ?」
どうして。
普段は、こんなことはしてくれないのに。
恥ずかしがるばかりで、こんなことはしてくれないのに。
たまにこういうことをして、自分を惹きつけて離さない。気まぐれなのではなくて、本当にたまに、自分のためにと、こういうことをする。
手を取って、まだらに染まった爪にキスを落とす。
これは彼女からの愛の証だと思うと、自惚れてしまう。
腹が立つくらいに、愛おしい。
「…まだ、足りない」
彼女を腕に閉じ込めて、囁いた。
…うん、いいよ。
その甘い声に誘われて。
またゆっくりと、その体をソファーに沈めた。
2021.12.3