エストレリータに届くまで
彼の家に着くと、リビングに通された。
いつか連れて行ってもらえるのかなと、以前は淡い期待を抱いていた。こんな形で入ることになるなんて。
座っていてと言われて、ダイニングテーブルに着く。
テーブルには意外にも花が飾ってあった。
白くてかわいらしい花。女性に貰ったのか、あげる予定だったのか、わからないけど。
しばらくして戻ってきたロイは手にマグカップを持っていた。渡されたそれは温かくて、やわらかなハーブの香りがする。
その香りでようやく少し落ち着いた気がして、私は小さく息を吐いた。
「…お花、きれいだね。なんていうお花?」
正面に座るロイを見ることができなくて、何を話して良いかもわからなくて。とりあえず、目に留まったそれについて話す。
「ああ、…アスターというんだ。前に、種を貰ったから」
「自分で育ててるの?」
「初心者でも育てやすいと言われて、確かにあまり面倒を見られなくて思い出したときに水をやるくらいだったが、…ちゃんと咲いてくれたよ」
「そうなんだ、…すごくきれい」
お花を育てるなんて意外だなと思った。それに、こういうかわいらしいお花を好むとは思わなかった。
…でも、よく考えたら私は彼のことをあんまり知らないんだ。
顔を上げると、彼と目が合った。
その顔を見て、ここに来た理由を思い出す。
そうだ、話があると言われていたんだ。
小さく息をついて、何を言われても覚悟はできているんだともう一度自分に言い聞かせる。
ロイも覚悟を決めたように口を開く。
「…信じてもらえないかもしれないが」
頼むから聞いて欲しい。
そう言って彼は話し出した。
このところ仕事が忙しかったのも、休みが取れなかったのも事実。仕事が終わるのはいつも夜遅く、電話をするにはためらうような時間だった。
名前からの誘いは嬉しかったが、仕事が立て込んでいて最近では断ることも多くなった。追っている案件が佳境ということもあり、それを片付けてから、落ち着いて会いたいと思っていた。
ごめん、と謝るたびに彼女はいいの、気にしないで、と言っていた。
寂しい思いをさせているのだろうか、と思っていたが。
どうして会えないの、もう少し私のことも考えてよ、なんて、彼女はそんなことを絶対に言わなかった。
会えば笑顔で迎えてくれ、仕事ばかりの自分を責めることもない。無理しないでね、とか、大変だもんね、と言ってくれて。
その言葉に甘えていた。
いつの間にか、彼女なら自分を待っていてくれると思って、驕っていたのかもしれない。
仕事も落ち着いてきて、久し振りに会える予定だった今日。
帰り支度をしているところに先程の女性が来た。
告白されたが、恋人がいるともちろん断った。
名前が執務室の扉を開けたのと女性に抱き着かれたその瞬間が最悪にも重なったのだ。
恋人ならば怒って、何してるの、その女性は誰なの、と問い詰めてくれればいい。
自分を信じてくれているなら、別に何でもないんだよね、と言ってくれるかもしれない。
しかし名前はそのどちらでもなく、おそらく嫌味ではなく本心から、邪魔をしてごめんなさい、と言ったのだ。
まるで、こうなることを予期していて、それを受け入れるかのように。
自分が他の女性に会っていても止める権利なんてないのだと言うかのような表情で。
慌てて追い掛けて、やっと見付けた名前は自分にこう言った。
――だって、……だって、ロイは私のこと好きじゃない、でしょ。
がつんと頭を殴られたような衝撃。
…ずっと、そう思っていたのか。
いや、確かにそうだ。
何日も会えない、連絡も取れない。そんな状態が続いたら不安に思って当然だ。彼女がそれを口に出さなかったのは自分の邪魔をしないようにと、気を遣ってくれていたからだ。
忙しかった。疲れていた。余裕がなかった。
それは事実だ。
しかし、彼女はどれだけ不安だったのだろう。
そんなことに気付かない、そんな彼女を見ようとしなかった自分はなんて自分勝手なのだろう。
彼女は自分を信じてくれているのではなく、自分のために我慢して、ずっと折れてくれていたのだ。
彼女はもう自分との関係を諦めているのだと、ようやくそこで理解した。
「名前は俺を信じてくれているから大丈夫だろうとか、名前ならわかってくれる、待っていてくれるとか、勝手にそう思っていたんだ」
本当に、勝手だよな。
独り言のように彼はそう言った。
つまりそれは、どういうことなんだろう。彼の話を聞いても、頭がうまく働かないようだった。
「…これまでのこと、本当に悪かった。不安にさせて当然だ」
どうしていいかわからなくて、私はマグカップを握り締める。期待していいのか、そんな都合の良いことが起きるのか、それとも、
「俺は、名前が好きだ」
彼は、はっきりとそう言った。
「…名前の気持ちは?」
彼は私を見つめる。
その瞳は不安げに揺れていた。
いつも冷静で、余裕があるロイのこんな顔は初めて見たかもしれない。
彼が説明してくれたのは言い訳とか嘘とか、そういうものじゃなくてきっと本心なのだと思うことができた。
その瞳に促されるように、私は恐る恐る口を開いた。
「…私は、…ロイが、私のこと好きじゃないのに、付き合ってくれてると思ってた」
私に告白されて、今は恋人もいないからOKをしてくれたのかと思っていて。私ばっかり好きなのだと、思っていて。
だから仕事が優先なのは当然で、会えないのも当然で、私が我慢していればこのままでいられるのかと思っていた。負担になりたくないし、困らせたくもなかった。
彼の前では聞き分けのいい恋人でいるように努力した。好かれなくてもいいからせめて嫌われたくなくて、たまにしか会えなくてもいいからこのまま、恋人でいたくて。
でも、本当は、
「…もっと会いたいし、夜遅くてもいいから声が聞きたいし、私のことを好きになって欲しい」
何より、寂しかった。
ずっとひとりでいるみたいで。
言えるわけがなくて何回も呑み込んできた言葉を彼に伝えた。
「それが、名前の気持ち?」
彼の声に、私は頷いた。
これが私のわがままだっていうことは、わかっている。
彼を困らせたくなかったから、言ったことはなかった。
でも、本当はずっと言いたかった。聞いて欲しかった。
「…ありがとう、教えてくれて」
ああ、言ってしまった。
気持ちも顔もぐちゃぐちゃで、どうしていいかわからなかった。
顔を上げられなくて、彼の反応が怖くて、私はずっと手の中のマグカップを見つめていた。
「…名前、別れよう」
彼は決心したかのようにそう言った。
瞬間、息が止まるかと思った。
心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃。
…でも、そうだね、それがいいと思う。
何度も頭の中でイメージしてきた瞬間がついに来ただけだ。想像していたより何倍も辛くて、悲しくて、私の覚悟なんてぜんぜん足りなかったんだなと思ったけど。
今までありがとうと言って、幸せになってねって言って、そして…
「別れて、今までの関係は終わりにして、…改めて俺を名前の恋人にして欲しい」
その言葉を聞いて、私は思わず顔を上げた。
「…やり直したい、ちゃんと」
まさかそんなことを言ってもらえるとは思っていなくて、そういう意味で言ったのだとは思わなくて、言葉が出なかった。
「名前は、…どうしたい?」
ロイは真剣な顔で私に問い掛ける。
真っ暗な中にいる私に、手を差し伸べるように。
緊張で、心臓が痛いほど音を立てる。
彼は真剣な顔で私を見つめていた。
言っていいのかな、この言葉を。
…彼の手を取って、いいのかな。
しばらく躊躇って、怖くて、言葉が出なかった。
でも、彼はちゃんと伝えてくれた。
…だから私も、きちんと伝えたい。伝えなければいけない。
私も彼を見つめて、震える声で答えた。
「…私も、ちゃんと、…ロイの恋人になりたい」
ロイを信じたい。
だって私は、あなたが好きだから。
…その言葉を聞いて、彼はやっと安堵した表情を見せる。よかった、と呟いた。
「…抱き締めてもいい?」
その言葉にどきりとしたけど、私は小さく頷いた。
彼は立ち上がり、私の隣に座る。腕を引かれて抱き寄せられた。一応これまでも恋人であったはずだけど、こういうことをするのは初めてだった。
さっきとは別の緊張が私を襲い、心臓がどきどきと音を立てていた。
抱き締め返していいのかわからなかったけど、私はそっと彼の背に手を回した。
ぎゅっと抱き締めてくれた彼はあったかくて、優しくて。
「…名前、好きだ。これからはもっとちゃんと伝えるから、信じてもらえるように努力するから、」
その言葉を聞きながら、自然とまた涙が出てきた。うん、ごめんなさい、と泣きながら私は頷いた。
こんなこと、もうずっと前に諦めていたことだったから。
私の気持ちがちゃんと届いたんだと、ようやく、ようやく思うことができた。
背中をぽんぽんと叩かれて、落ち着くまでしばらくそうしてくれていた。
「…ごめんね、もう平気だから、…ありがとう」
腕の力が緩んで少し離れたところで、彼と目が合う。
「…ロイ、あの、」
「名前、目を閉じて」
どき、と心臓が音を立てる。私はそっと目を閉じた。
彼から触れるだけのキスを受けて、また抱き寄せられた。
「…今まで、我慢してたんだ」
「…え?」
「軽いとか遊びだとか思われたくなくて、…付き合ってすぐに、っていうのはしたくなかった」
「そう、…だったの」
彼に求められてない、好かれてない、って私が感じていたのは、きっとそこにあったのかと理解した。彼の気遣いを私が勘違いしていたせいだったんだ。
「…でも、そのせいでかえって不安にさせてしまったんだな」
申し訳なさそうな顔をしているのを見たら、違うよ、と思わず声に出していた。
違うよ、だってそれは、
「…それは、私のことを思ってくれてたから、でしょう?…それなら私は、その気持ちがすごく嬉しいよ」
素直に、正直に。
自分の気持ちをまっすぐに。
私は彼のことが好きで、彼も私を想ってくれていると、もうわかったのだから。
「…名前のそういうところが好きなんだ」
ロイはぼそっと呟いた。
「…名前は優しいから、…優しいから、寂しいと思ってても俺に気を遣ってそんなこと言えるわけがないって、わかるはずなのにな」
悪かった、と彼はもう一度頭を下げる。
「ロイのせいじゃない、…もう、謝らないで」
今度は私から彼を抱き締めた。
それでもまた彼はごめん、と呟いた。
背中に回された彼の手が、そっと髪を掬って撫でる。
「…名前、髪切ったんだな。可愛いよ」
耳元でそう言われて、私は小さく息を呑む。
「…気付いてくれてたの?」
「ああ。…そのワンピースも。すごく似合ってる」
「…そんなこと、」
…そんなこと、今までぜんぜん言ってくれなかったのに。
私が言いたいことが伝わったのか、彼は顔を隠すように下を向いた。
「…照れくさかったんだ、これでも」
…照れくさい、なんて。
女性への褒め言葉なんて挨拶代わりに言っているような人だと、思っていた。
そんな彼が私にはあまり何も言ってくれないから、…やっぱり私にはあんまり興味がないのかな、なんて、思っていたのに。
照れたように口元に手をやるロイはやっぱり嘘をついているようには見えなくて。
…いつも余裕があって冷静に見える彼が、こんなに不器用な人だったなんて。私は彼のイメージに囚われて、本当の姿をきっと知らなかったんだ。
「…なんだか、このお花、アスターってロイに似てる気がする」
テーブルに飾られた花。彼が育てたというその白い花を見て、そう呟く。
なんとなく、そう思っただけで理由はわからないのだけど。
それを聞いた彼はふっと笑った。
「…俺は、名前に似てるなって思ったんだ」
可憐で、素朴で、可愛らしくて、…と言われて、顔が熱くなる。
「そんな恥ずかしいこと、言わないで…」
「…もう、我慢も遠慮もしないから」
「…そ、それはそれで怖いかも…」
「好かれてない、なんて勘違いさせないくらい愛してみせるよ」
きっとわざと明るく、こういうことを言ってくれているんだろうなと思って、彼の優しさに改めて触れるようだった。
今までだってきっとずっと私のことを考えてくれていたのに気付けなかったなんて、そんな自分が情けない。
それを驕りだと彼は言ったけど、それでも私を信じてくれていたことに変わりはない。
でも、私は彼のことも、自分のことも信じられなかったんだ。
私は彼を信じたい。
そして、彼が好きだと言ってくれた自分のことも、信じてあげたい。
そう、これからは。
「…ね、ロイ。今度お水あげに来ていい?アスターに」
「気持ちは嬉しいが、そろそろシーズンオフだぞ」
「えー!そうなんだ…」
…そうなんだ、知らなかった。
お花のことをこんなに知らないのも恥ずかしかったし、なんだか雰囲気を壊すようなことを言ってしまったことも恥ずかしかった。
そんな私を見た彼はくすくすと笑う。
「また来年、かな。今度は一緒に育てよう」
彼はそっと微笑んだ。
嬉しくて、なんだか言葉にならなくて。
うん、と小さく頷いた。
私に似てると言ってくれた小さな花が、笑うように咲いていた。
fin.
2021.2.21