ウェディングラプソディー
「なあ、マスタング大佐が結婚するらしいぞ」
「嘘でしょ!?」
「あの人もやっと身を固める気になったのか」
「相手は誰?」
そんな会話が、司令部の中で聞こえてきた。
休憩所で何人かが話しているらしい。
名前は手に持っていた書類を落としそうになるのをこらえて、休憩所の外から聞き耳を立てる。
少し遠いようで微かにしか聞こえないが、彼が元いたイーストシティの名家の令嬢が相手らしいということが聞こえてくる。
「確かに家柄も申し分ないな」
「すごい美人だったよな?お似合いだなー」
今までも噂になるようなことはあったが、最近司令部中で出回っているこの噂は信憑性が高い、ように思えるのだ。
話がなかなか具体的だったり、みんなが口を揃えて同じことを言っていたり。どうにも真実かのように思えて、
「何やってるんスかー名字少尉」
いきなり現れたハボックに声をかけられ、びっくりしてまた書類を落としかける。
「は、ははハボック、なんだハボックか……」
「なんだとは失礼な」
「あ、いや、もう執務室に戻るから気にしないで」
会議が終わったにも関わらずなかなか戻らない自分を探しに来たのかと思い、名前はそう言った。
「休憩所、大佐の話ッスか?」
名前は図星を突かれてついに書類を床にぶちまけた。
「あーあー落としちゃって」
ハボックは慌てもせず屈んで書類を一枚ずつ拾い集める。
「なんか最近噂になってますよねー結婚するとか、しないとか」
「へ、へえ、そうなんだ」
平静を装いつつ名前も書類集めを行う。
「……結婚するんですか?名字少尉」
「し、しないわよ!」
慌てまくりながら否定する名前を見て、やっぱりねーと呟いた。
「噂の相手は少尉じゃないんですか。じゃあやっぱりガセか」
集め終わった書類をトントンと揃えて名前に手渡す。
「じゃ、午後は俺が会議なんで不在になります」
ひらひらと手を振ってハボックは去っていった。よく見ると彼も自分の書類や手帳を持っていて、会議に向かう途中のようだった。
もともとあっさりとしたところがある男だが、彼は司令部内で盛り上がっている直属の上司の噂など気にも留めていないようだった。
名前は気分の晴れないまま執務室に向かって歩き出す。
執務室に戻ると、みんな出払っていた。唯一残っていたフュリーも打ち合わせだということでこの後出ちゃいます、と言う。
「午後はわたし一人か……」
まあそんな時間もたまにはいいのかな、集中できて。そんなことを考えていたら。
「あ、マスタング大佐はもうすぐ戻られると思います。出張が予定より早めに済んだと連絡がありましたから」
「え!?」
「あ、噂をすれば」
執務室のドアを開けて、ロイが戻ってきた。
出張に出ていたということでコートを着たまま、荷物も多い。
「なんだ、今日はこんなに少ないのか」
「大佐、お疲れ様です!私も打ち合わせがあるので席を外します」
言い残してフュリーはばたばたと執務室を出て行った。
「…お疲れ様です、大佐」
「ああ」
あんな話を聞いた後では気まずくて仕方ない。
悶々としている名前をよそに、ロイは自分のデスクに戻り、溜まった書類の確認を始めた。珍しく仕事熱心のようだ。
自分も慌ててデスクに戻って書類を取り出して中身を確認する。が、内容が頭に入ってこない。
──そういえば、今回の出張もイーストシティに行っていたはず。最近のロイは頻繁にイーストシティを訪問しているようだった。それって、さっきの噂の相手に会いに行っていたんじゃ…。
いやいや、仕事で行ってるのに女に会うなんてそれはおかしいよね。そう考えたが、さっきの噂では相手は名家の令嬢だという。そうであれば交遊の一環として訪問し彼女に会うというのも可能ではないか。
そこまで考えたら止まらなくなってしまい、名前はつかつかと歩み寄ってロイのデスクの前に立つ。
「……大佐、あの、……」
「どうした?名字少尉」
「あの、大佐は、……」
こんなこと聞いてどうするの、というか仕事中だし。でも、あの噂が本当だったらどうするの?いろんな考えが頭の中をぐるぐる回る。
「早く言いたまえ」
「……あの、大佐は…結婚、されるんですか?」
「は?」
いろいろ考えていたものの、結局いい言い方が思い浮かばずストレートに切り出した。
「司令部で噂になっているようで、ついにマスタング大佐が結婚する、って…」
それを聞いたロイは頭を抱えている。
「すみません仕事中に。気になってしまって…」
「……名前、君は私からプロポーズをされたか?」
「いえ…」
「君がされていないのに私が結婚できるわけないだろう。……どうして恋人を差し置いて私が誰かと結婚するんだ」
ロイの苦々しげな表情とその発言で、噂はただの噂であったと理解した。
「……わたしじゃない人と、結婚するのかと……」
相手として名前が挙がっている女性は、確かに国軍大佐の妻にふさわしそうな家柄、資産、美貌で。
これからもっと上を目指していく彼は自分ではなくそういう相手と結ばれるべきではないかと、薄々感じていたことに自分で気付いてしまった。
いままでだって多方面からお見合いの話を受けていたことは名前も知っている。
「私はそんなに信用がないか?」
「そ、そういうわけじゃ、ないけど…」
名前は、彼が怒っているようだとようやく気付いた。
根拠のない噂に振り回されて、ロイを信じられなかった自分が情けなく思えてきた。
「…ロイ、ごめんなさい」
素直にそう言うと、彼は小さく息を吐いた。
「おいで、名前」
名前はおずおずとロイの隣に移動する。何をされるのかと思ったら、自席から立ち上がったロイに抱き締められた。
「ちょ、ロイ…?」
「不安にさせて、すまない。俺が悪い」
誰もいないとはいえ司令部の執務室。いつ誰が入ってくるかもわからない。
身じろぎをしたが彼に強く抱き締められていて逃れられない。
「ま、待って、誰か来るかも、」
「噂になっているのは知っていたが、所詮噂だ。まさか名前がそんなに気にしているとは思わなかったんだ」
イーストシティに行く機会が増えたのもただの仕事で。後ろめたいことが全くないからこそ、特に取り繕いもせず、噂もそのままにしていたという。
「頼むから、噂じゃなくて俺のことを信じて欲しい」
とても真剣な声色。
確かに、彼が自分に嘘をついたことなどない。不誠実だったことも、信用できなかったこともなかったのだ。
「……うん」
不安な気持ちがじわじわと溶けていくようだった。
「不安にさせたお詫びに、今日はいっぱいわがまま言っていいよ」
抱き締められたままぽんぽんと背中を優しく叩かれる。勝手に自分が疑っただけなのに、そのことについては何も言わない。そんな優しいあなたが好きよ、とは言えなかったけど。
「……ほんと?」
「ああ、なんでもどうぞ」
「じゃあ、……おいしい紅茶淹れて」
「わがままって、そうきたか」
耳元で小さく聞こえる笑い声。
「あ、あと、そろそろ離して…」
「それはいやだな」
「なんで!」
「いま俺が幸せだから」
「仕事中!大佐!」
ぱしぱしと背中を叩くと、名残惜しそうに腕の力を緩めた。
「仕方ない、いまはこのくらいで」
解放されると思ったら、唇にキスを落とされる。
触れるだけのキスだったが、それでも名前の羞恥心をくすぐるのには十分だった。誰もいない執務室で上官と、なんて小説の中の話みたいだ。
「し、仕事中……です、大佐」
「悪かったよ名字少尉、仕事に戻ろうか」
ようやく腕から解放され、名前は恥ずかしそうに顔を赤く染めながら抗議の声を上げる。
ロイは先程とは打って変わってやたら機嫌がいい。
「は、早く仕事しましょう!」
「はいはい、わかってるよ」
誰か戻ってきたらどうするのと思い慌てて自席に戻ろうとしたところで、
「ハボック戻りましたー会議の時間勘違いしてましたー」
タイミングを見計らったかのように、ハボックが執務室に戻ってきた。そして見つめ合うロイと名前をまじまじと見る。
「あれ、大佐と少尉、何して……あ、俺お邪魔でしたね!完全に!」
「あ、ち、ちがっ……」
すぐに合点がいったのか、ハボックは名前が訂正する声も聞かず、いま開けたばかりのドアの向こうに消えていった。
「俺少し出てますからご自由にどうぞ!」
ドアの向こうから声が聞こえる。要らぬ気を回されたようだ。
「あいつ、知ってたのか」
俺たちのこと、と感心したようにロイが言う。
二人の関係は、親しい友人などを除き伝えていない。
特定の者と関係があることが周りに知られるのはあまり得策ではないとロイは考えていた。自らの地位からして、恋人に危険が及んだり、他者から利用されたりすることを危惧してのことだった。
直属の部下に対してもそれは同じであり、特に知らせる必要もないだろうということでハボックにも伝えてはいない。が、どうやらとっくにバレていたようで。
「……確かに、さっきその話ししてたけど、ハボックはロイの噂なんてまったく信じてなかったみたい」
「この件であいつに信用されてても嬉しくないぞ」
ロイは至極迷惑そうな顔を見せる。その顔に名前が笑い出し、二人は顔を見合わせて笑った。
「まあでも、しばらく外してくれるというならお言葉に甘えて、もう少し……」
彼にまっすぐ見つめられ、今度は「仕事中です」と言う気も起きず。
目を閉じて、彼のキスを受け止めた。
2020.3.9