09
あの日以来、彼には会っていない。
お店に来てくれることもなくなってしまった。
理由は、聞いていない。
ごめん、と謝られただけ。
いつも楽しみにしていた水曜日と金曜日は、特別な日ではなくなってしまった。
こんなのだめだってわかっているのに、仕事に身が入らなくて。
告白なんてしなければ振られることもなくて、お客さんとしてハボックさんはまだお店に来てくれたのかもしれない。
あんなこと言わなければよかった。
今さら会っても気まずいだけなのに、またお店に来てくれないかな、なんて考えてしまっている。
それからしばらく経った水曜日の夜。
会いたい人には会えないのに、会いたくない人は来てしまった。
いつだったか、ハボックさんが追い払ってくれた迷惑なお客さん。お話が長いのと、…馴れ馴れしい感じがするので苦手な人だった。
今日も閉店が近いお客さんがいない時間に来て、20分くらいお話に付き合っていた。
一応、今日はいくつか商品を買っていただけたので、ドアを開けてお見送りする。
見送るだけのつもりが、流されて店の外まで来てしまった。
「ねえ、彼氏いないんでしょ、名前ちゃん」
彼氏、と言われてハボックさんの顔を思い浮かべてしまう。
いや、彼氏じゃない。振られてしまったんだ、もう会えないと言われて。最初からずっとわたしの片思いだから。
「だからこのあとさ、待ってるから食事行こうよ」
「えっと、そういうのは…」
「もう閉店だしいいでしょ、おいしいお店知ってるから、連れてってあげるよ」
手を掴まれて、距離を詰められて、そんなことを言われる。
ああ、いやだ、どうしよう。うまく断れない。
厨房と店の奥にはまだスタッフがいるから、誰か出てきてくれないかな、なんて思うけど誰も出てくることはない。
自分でちゃんと断らないと、ほんとにお店の前で閉店まで待たれたら困る。
「あの、わたしは、」
でもなんて言おう、どうしよう、と思って続きが出てこない。
ハボックさんのことを思い出して悲しくなってしまったのと、この人をなんとか断らないといけなくて、頭がぐるぐるする。
もうあのとき助けてくれた人もいないのだから。ひとりでちゃんとできなきゃだめだから。
そのとき、お客さんの手をばしっと払う人が。
「…この子の彼氏は、俺です」
その言葉にびっくりして顔を上げる。
その人の顔を見て、わたしは再度驚いた。
「…ハボックさん」
まさか、信じられないことに、ハボックさんがそこにいた。
そして、もっと信じられないのは彼が言ったこと。
「だからもう付き纏わないでくれますか、迷惑なんで」
「あ、お前…!」
まだ何か言っているその人のことはまるで無視して、ハボックさんはわたしの手を引いて店の中に入る。
拒絶するようにドアをバタンと閉めると、カランカランとベルが大きな音を立てた。
「あ、あの、ハボックさん…」
中に入ってもまだ手を離してくれなくて、彼を呼ぶ。
「…ごめん、変なこと言って」
「いえ、あの…ありがとうございます」
手は離れたけど、彼はわたしに背を向けたまま。
顔が見えなくて、何を言おうとしているのかはよくわからなかった。
「名前ちゃん、…俺、今日待ってていい?話したいことがあるんだ」
その後のわたしは、まるで集中できなかった。
お客さんはもう来なかったので、閉店作業をいろいろしなければならないのだけど。
また会えた嬉しさとか、話ってなんだろう、とか。
さっきのハボックさんの発言、とか。
やっぱりもう気が変わって帰っちゃってたらどうしようとか。
集中できないけど急いで作業を終えて着替えて、わたしはばたばたと店を出た。
ハボックさんは裏口の外で待っていてくれた。
「ハボックさん、お待たせしてすみません」
「…いいんだ。歩きながら話そう」
送ってくれるようで、彼はわたしの家の方へと歩き出す。
話したいことがあると言っていたけど、特に何も言われず、しばらく黙って歩いていた。
「名前ちゃん」
メインストリートを離れた頃、ようやく彼が口を開いた。
ここからの道は一気に暗くなる。ぼんやりした灯りの中で、彼の顔はよく見えなかった。
「…はい」
何を言われるのかと、びくびくしながら返事をする。
彼は迷っているような素振りを見せながら、しばらくしてもう一度口を開いた。
「俺、今度、…中央司令部に異動するんだ」
その言葉を聞いて、どきんと心臓が跳ねる。
「だから、セントラルに行かなきゃいけない」
「…セントラル」
「そう、だから…もう、こんな風には会えない」
目の前が真っ暗になるようだった。
…ああ、そっか。
わたしが好きだと言ったことに対して、君のことは好きじゃない、とか、そんなつもりじゃない、とかではなくて。もう会えない、と言ったのはそういうことだったのか。
そして彼にはきっともう会えないんだろうなと、これが最後になるんだろうなとなんとなく理解した。
きっと最後に、お別れを言いに来てくれたんだ。
「…だからこの前は、ごめん、って言ったんだ。俺はそばにいてあげられないから」
振られても、恋人になれなくても、また時折お店に来てくれたら。そんな図々しいことを考えていたのに、それすら叶わないということみたいだった。
「でもやっぱり、…名前ちゃんと一緒にいたくて」
わたしは顔を上げて隣を歩くハボックさんを見る。
ハボックさん、それって、
「…それで店に来てみたら、またあのオッサン来てるし、名前ちゃんまた絡まれてるし?ちゃんと断れてないし」
「す、すみません…」
「だからやっぱり、名前ちゃんには俺がいないとだめ、なんだよ」
言葉が出なくて、わたしは息を呑んだ。
ハボックさんがわたしを見つめる。
「…これからは、こんなにそばにはいられないし、あんまり会えなくなるし、寂しい思いをさせるかもしれない。でも、もしそれでもよければ、」
…いや、こんな言い方はずるいか。
彼はそう言った。
「もしよければ、じゃなくて。…お願い、俺の恋人になって」
まさか、そんな、なんて思って。
ちゃんと返事はできなくて、気付いたら泣いてしまっていた。
嫌われてしまったのかと思って、だからもう会えないのかと思って。
でもほんとはそうじゃなくて、そばにはいられなくなるから、わたしのことを思ってもう会えない、と言っていたなんて。
「それ、…イエスってことで、いいよな?」
何も言えず、ただ頷いた。
よかった、と言われて、彼に抱き締められていた。
背の高い彼に抱き締められると、わたしはすっぽりと腕に包まれてしまう。
恥ずかしいと思ったけど、でもそれよりも幸せだという気持ちの方が勝っていた。
だって、まさかこんな。
「…ハボックさん、ほんと、ほんとに?」
「ほんと、嘘じゃない。不安にさせてごめん」
もうずっと前から、好きだったんだ。
彼はそう言った。
夢みたいな瞬間だった。
その数日後、彼はイーストシティを発った。
本当に出発直前に会いにきてくれたようだった。
彼は頻繁に手紙や電話をくれて、わたしはお店のお菓子を小包にして送るようになった。
お休みの日には、何度かイーストシティに帰ってきてくれた。
今度の連休では、わたしがセントラルに会いに行く予定。セントラルにはおいしいお店がたくさんあるんだ、案内するから楽しみにしてて、と言ってくれていた。
そういえば、ハボックさんは別に甘いものがすごく好きだというわけではなかったと教えてくれた。
そして、わたしを誘ってくれたお店も、元々知っていたのではなくてわざわざ調べて見つけてくれたお店だったということも。
騙したみたいでごめん、と言われたけど、わざわざそんなことをして誘ってくれていたなんてことがわかって、彼への気持ちは余計に強くなるのだった。
ちなみに、あの迷惑なお客さんは今もたまにお店に来る。
この前は、あいつほんとに彼氏なの?なんて言われたから、そうです、幸せなんです、なんて恥ずかしげもなく言ってしまった。
そうしたらお客さんは笑って、似合ってたね、おめでと、なんて言ってくれたから、…もしかするとちょっと迷惑だけど実はいい人だったのかもしれない。
それは今度会ったときにハボックさんに伝えるとして、…やっぱりたまにしか会えないと、話したいことがたくさんできてしまう。
「…早く会いたいなあ」
次のお休みが待ち切れなくて、毎日、子どもみたいに残りの日を指折り数えてしまう。
ごはんちゃんと食べてるかなあとか、煙草ばっかり吸ってないといいなあとか、ハボックさんのことばっかり考えてしまって。
こんなに好きになるなんて、彼とこんな関係になれるなんて、思っていなかった。
思い返すのは、何ヶ月か前のこと。
まだ肌寒かった頃、わたしは好きな人ができました。
転んだところを助けてくれた、親切な軍人さん。
わたしの一目惚れだった。
でも、この恋がうまくいくとは思っていなかった。
ただの一方的な憧れで、名前も知らないところからスタートした恋だったはずなのに。
何度もバッドエンドを覚悟した恋だったのに。
好きな人は、わたしのことを好きだと言ってくれました。
それを思えば、遠距離恋愛だということも、たまにしか会えないことも苦ではなかった。
それだけで、自信と勇気と、幸せが湧いてくるようだった。
そんな気持ちにさせてくれるのは、彼だけだから。
優しくてあったかくて、わたしの大好きな人。
fin.
2020.9.30