あの調子じゃきっと明日は来られないだろうなと思ったけど、次の日出勤してみたらやっぱり大佐は休みだということだった。
少しは良くなったかな、ちゃんと何か食べているだろうか。
でも今日もまた押しかけるなんてことは、さすがにできない。
心配なのは事実だけど、きっと度を超えている。
何より、もう終わりにしようと言ったのは私なのに、看病だなんだと言い訳をして彼に会う理由を探しているのが本当に卑怯だと思う。
自分が休んでいた分と、異動に備えて頑張らないといけない。
わかっているのに、まったく集中できない自分に呆れていた。
次の日は土曜で休みだった。
家にいても、大丈夫なのかな、とまた大佐のことを考えてしまっている自分に嫌気が差す。
私が心配したって仕方ないのに。終わりにするって言ったのに。
まだ、仕事の日の方がよかった。
休みの日だとやることがなくて、いろんなことを考えてしまって、気が散って仕方がない。
とりあえず部屋の掃除をしたり買い物をしたり片付けをしたり、いろいろと家事をしたけどなんだか気が散って。
一日が随分長く感じる日だった。
何かを待っているわけではないのに、すごく疲れてしまって、日が沈むのが待ち遠しく感じた。
日が暮れる頃には、ようやく夕方か…と思うほどだった。
少し早いけど食事の支度をしようか、と思って立ち上がったとき、扉を控えめにノックする音が聞こえた。
まさか。
いや、彼がここに来るなんてあり得ない。
でも呼び鈴を使わずに扉をノックするのは、そんなことをするのは彼だけだ。
「…名前」
そっと玄関まで行くと、案の定、扉の向こうから聞こえてきたのは彼の声だ。
信じられない。息が止まりそうになる。
「大佐…」
「来るべきでないのはわかってる、…でも、話したいことがあるんだ」
扉を開けてはいけない、と思う。
けじめをつけたいと言ったのだから。もう終わりにするって決めたんだから。
震える手でドアノブを掴んだけど、それを開けることができずにまたそっと手を離した。
「…大佐、もう、ここでは会えません」
落ち着いて声に出したつもりが、わかりやすすぎるほど私の声は動揺して震えていた。
扉は開けない。
だって、顔を見てしまったらきっとまた流されてしまう。
どんな形でもいいから一緒にいたいと思ってしまう。
「…じゃあ、そのままでいい。頼むから、聞いて欲しいんだ」
「…そんな、」
ほんとはだめだよ、こんなこと。
だめだとわかっているのに、相変わらず明確な拒絶はできなくて、そこから立ち去るということもできなくて。
やっぱり私は意思が弱くてずるい人間だ。
「…名前、この前は迷惑をかけて悪かった」
「治ったならよかったです、…風邪は私のせい、なので」
「…最低なのはわかっているけど、謝りたくて、…会いたくて」
…どうして、そんなことを言うのか。
会いたい、なんてそんな期待させるようなことを言って、離れていくのがわかっているのに。
でも内心は会いたくてたまらないと思っている。そんな自分がいやだった。
もうこういう風に会ったらだめなのに。
「謝ることなんて、ないですよ。…会う必要も、ないです」
これは、自分のためだけじゃない。彼のためでもあるんだと自分に言い聞かせる。
彼は、こんなことをしていてはいけないんだから。
「もう、終わりにしましょうって、言ったはずです。…こんなこと、大佐の好きな女性にも、失礼です。もう、だめなんです」
視界が滲む。
本当は、彼の言葉に甘えて都合のいい女に戻ってしまいたいという気持ちがあった。
でも、もうだめなんだ。ちゃんと幸せになって欲しいから。
…今まであんなにずるいことをしていた私が今さらそんなことを言っていいかはわからないけれど。
「…好きでもないのに、こんなことしないでください」
苦し紛れに出た言葉。
ああ、こんなことを言ったら、あなたのことが好きだと白状しているようなものだ。
こんな自分はもういやだ。
大佐にこんなことをさせたいわけでもない。
また流される前に、もう、終わりにしなくてはいけない。
もう帰ってください、そう言おうとしたときに、
「…好きだ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、耳を疑う言葉だった。
「好きなんだ、名前のことが」
……うそ。
そんなの、うそにきまってる。
好きだ、なんて。冗談で言っているに決まっている。
頭に浮かぶのは、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉。
彼は本命の好きな人がいて、きっと私は遊びだから期待しちゃだめで、他にもたくさん女の子がいて、それで、
「あの日…それよりもっと前から、俺は名前が好きだった。あのとき話したのは、名前のことだったんだ。他に好きな女性なんて、いなかった」
うそ。そんなの。
そのときから、好きだった、なんて。
私はその言葉を聞いて、力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。
「名前が俺のことを好きじゃないとわかっていたのに、他に好きな男がいると言っていたのに、あの日無理矢理抱いたのは、最低だった、…許してもらおうなんて虫が良すぎるのはわかってる」
私は何も言えずにただその独白を聞いていた。
「冗談だと思われていても、名前が受け入れてくれるなら、それに甘えてせめてこの関係を続けられたら、と思ってた。…ちゃんと伝えるべきだったのに」
俺は、ずるいな。
ぽつりと、彼が呟いた。
「…もっとずるいことを言うと。…この前名前が言ったこと、聞こえてたんだ」
はっとする。
まさか、それって。
「夢かと思ったよ。でも、確かに名前の声だったから」
あのとき、最後に言ったこと。
――好きでした、大佐のことが。
ずっと、言えなかったあの言葉。
眠っていると思ったから、最後だと思ったから、言うことができたのに。
自分で諦めをつけるために言ったことだったのに。
「それを聞いてようやく勇気が出た、なんて情けなさすぎるよな。…でも、ちゃんと謝って伝えたくて。ずるいのは、わかってる」
聞きながら、涙が溢れる。
まさか、こんなことが起こるなんて。
あの日、最初の夜に。
好きだと言われたのを信じずに、忘れましょう、と言ったのは私の方だ。
本当は彼を好きだったのに。
冗談に違いない、ふざけているに違いないと決めつけて、傷付くのが怖くて、彼と向き合おうとしていなかったんだ。
忘れましょうと言ったのは自分なのに、よくないことをしているという自覚はあったのに、断ることもできずに私はこの関係に甘えていた。
無理矢理、と大佐は言ったけど。
私は自分の意思で受け入れたんだから。
本当にいやならもっとちゃんと拒絶することができたのに、それをしなかったのは私だから。
そのくせ、私は自分の気持ちを何も言っていなかった。
嫌だとも、好きだとも、何も。どちらの言葉を言う勇気もなかった。
本当は、彼がそんな人じゃないと気付いていたのに。
本当は、彼のことを信じたかったのに。
自分を守るために、彼を信じることもできずに気持ちに嘘をついて。
私だって、すごくずるい女だった。
「もし許してもらえるなら、…名前に会いたい。ちゃんと気持ちを伝えたいんだ」
こんなに真剣な声で伝えてくれている彼を信じないなんてことは、できなかった。
まだ、間に合うなら。
彼を信じていいのなら。彼が信じてくれるなら。
立ち上がって、ゆっくりと扉を開ける。
夕暮れの光が向こう側から差し込んできた。
「名前…」
彼の顔を見ると、これまでのことを思い出してしまう。
自分の気持ちを隠して、嘘をついて、絶対に言ってはいけないと言い聞かせてきたのに。
「…大佐、」
彼を呼んだだけで声が震える。
怖い、と思って、顔を見ることができずに下を向いてしまった。
頭の中はぐちゃぐちゃで、どう言うべきかわからなくて、心臓もどきどきと音を立てていた。どうしよう、と今更そんなことを考える。
でも、ちゃんと伝えたい。…伝えないといけない。
ゆっくりと顔を上げると、彼は何も言わずに、私のことを待ってくれていた。
まっすぐ彼の目を見て、その言葉を口にする。
「…私も、大佐が好きです」
本当はずっと言いたくて、でも言えなかった言葉。
言いながらまた涙が溢れてきて、恥ずかしくて、今までの自分が情けなくて。
「ごめんなさい、私がちゃんと、」
謝罪の言葉は最後まで言えず彼に抱き締められていた。
「…名前、好きだ。信じてもらえないかもしれないけど、嘘じゃない」
彼の言葉を聞けば、その顔を見れば、それが嘘じゃないことなんてすぐにわかった。
私はそれを信じようとしていなかっただけなんだ。
その後、泣きじゃくる私を、彼はあやすように抱き締めてくれていた。
ごめんなさい、と繰り返す私に彼は何度も、もう言わなくていい、と言ってくれた。
大佐が話してくれたこと。
他に関係のある女性はいないこと。
度々女性と会っていたのは仕事や付き合いだということ。…信じてもらえないだろうが、と彼は言う。
自分に付き合わせる申し訳なさから、夜の間に帰るようにしていたこと。
一度だけ朝まで過ごした日は、きちんと話をしたかったから。怖気付いて何の話もできなかったけど、と言う。
信じられないと思った。
でもそれは彼が言っていることを信じられない、というよりは、こんなことが起こるなんて信じられない、という思いだった。
私も大佐も、謝り出したらきりがない。
この関係でもいいとお互いが思っていたのも、勇気が出なかったのも事実。強がって、平気な振りをして。
相手の好きな人が自分じゃないと思って、お互いがその「好きな人」に遠慮していた。
それはそれぞれが自分だったのに。
もう少しちゃんと言っていたら、相手を信じていたら、…素直になっていたら。
それもやっぱり言い出したらきりがないことだ。
絡んでもつれて、固まっていた糸がようやくほどけたみたいだ。
たくさん回り道をしたけど。
私たちはようやく、素直になることができた。
2020.8.3