結局、次の日も大事を取ってお休みさせてもらうことにした。次に出勤したのは早退してから3日後のことだった。
久し振りに司令部に行くのはすごく緊張した。
大佐と、どんな顔をして合えばいいのかわからない。
でも、司令部で会う彼はいつも平気な顔をしていたから。
きっと今日会っても素知らぬ顔をしているんだろう。
あと少し、もう少しだと自分に言い聞かせて、執務室に行った。
始業時間になっても大佐は来なくて、内心ほっとしてしまった。
朝から軍議なのかな、と思っていたら、体調不良だという。
「風邪、みたいね。昨日から体調が悪そうだったのよ」
…それって。
どう考えても私のせい、だよね。
黙り込んだ私を見て、ホークアイ中尉は励ますように微笑んだ。
「これは、大佐の体調管理の問題よ」
「でも」
「…心配なら、様子を見に行ってあげたら?」
「そんなこと、」
そんなことをホークアイ中尉が言うとは思わなかった。彼女なりのジョークなのか。それとも本気で提案しているのか。
どちらにせよ、そんなことできるわけがない。
家まで押しかけるなんて勇気はないし、そんなことをしたら迷惑に決まっている。
「きっと、誰か、いますよね?…看病してくれる人」
大佐にはきっと、こういうときにそばにいてくれる人がいると思う。
恋人、好きな人、…私みたいな名もない関係の人、とか。
たとえ誰もいなかったとして、私が行って彼が喜ぶとは思えない。
「さあ、どうかしら。さすがにそこまではわからないわ」
「…そうですよね、すみません」
「誰か、様子を見に行った方がいいと思うんだけど、私は手が離せないのよね」
困った顔を見せるホークアイ中尉。
確かに、同じ部署のメンバーが代わる代わる休んでいたら、中尉は大変に決まっている。
風邪を引いて自分が休んだこと、大佐にもそれを移してしまったこと。それはどう考えても自分のせいだ。みんなに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
そして、大佐のことが心配なのは間違いなかった。
迷惑をかけたお詫び、そして、…借りを返すと思えば。
結局。
心配だから、他に手の空いている人がいなかったから、私のせいだから、なんてたくさん言い訳をして、私は彼のアパートに来てしまった。
指定された部屋番号の扉の前に立ち、震える手で呼び鈴を鳴らす。
誰かが出てきたら、彼の部下ですと言って、代表で様子を見に来たのだと言おう。
そんな言い訳を考えていたのに、部屋からは誰も出てこない。物音もしなかった。
やっぱり中には大佐しかいないのか。
そして、眠っているのだろう。
だからといって勝手に入ったら、怒られるかな。
心配だから、なんて言って、いいのかな。
そもそも鍵が開いているかもわからないか、と思ってドアノブを回すと、簡単に開く扉。
…つまり、鍵をかけることもできないくらい体調が悪くて、帰ってきてすぐ寝ていた、ということなのかな。
ほんとに誰もいなかったら。誰かいてくれればいいけど、ほんとに誰もいないなら。
そう考えると、やっぱり心配だというのは、事実だった。
「…ごめんなさい。すぐ帰りますから」
玄関を抜けると、無駄なものがないリビング。
その隣にベッドルームがある、シンプルな部屋だった。
部屋は暗く、ベッドサイドの灯りだけがついている。
苦しそうな顔で眠っているのが目に入る。
「…大佐」
本当に帰ってきてそのまま眠った、というようだった。
上はシャツだし、着替えてもいないようだ。
ベッドサイドに置いてある薬も、もらった包みがそのまま、という感じなので多分飲んでないんだろう。
来てよかったかもしれない。
これは確かに、一人にしておくのは心配だった。
勝手に部屋をあさるのは気が引けるけど、仕方ない、ごめんなさい、と言い訳してベッドルームを出る。
洗面器に冷たい水を汲んできて、部屋にあったタオルを浸す。よく絞って、顔や首の汗を拭いた。
これだけでも、多少は楽になるだろう。
ほんとはもっと寝やすい格好に着替えさせてあげたいけど、さすがにそれはできない。
額に手を当てると、やっぱりすごく温かい。
そこで、大佐がうっすらと目を開けた。
「…名前?」
名前を呼ばれて、どきっとする。
「…はい」
「もう会えないと思った」
なんでそんなに悲しそうに、そんなことを言うのか。
「いますよ、ここに」
…今だけは。今度こそ最後です。
その言葉は口には出さずに飲み込んだ。
「よかった」
なんで私を見てそんなに安心したような顔をするのか。
そんな顔を見てしまうと余計につらくなる。
「ごめんなさい、風邪を移してしまったのは、私のせいですよね」
「…俺が好きでやったことだから」
これで風邪を引いてしまう、なんて、かっこがつかないな、と彼は力なく笑った。
ごめんなさい、と返すしかできなくて。
そんな私を見て大佐はまた笑う。
「名前のせいじゃないよ。治ったなら、よかった」
「…ごめんなさい」
あの日、自分からあんなことを言っておいて。
風邪の看病を理由に会いに来てしまうなんて、やっぱりずるい女だ。
彼はまた眠ってしまったようで、寝息が聞こえてくる。
薬、飲んでないなら、何か食べてからじゃないと。
聞こえていないとは思うけど。キッチン借ります、と言ってその場を離れた。
何か食材を借りて作ろうか、と思ったらあまり何もない。
そうだ、彼は普段、料理はしないと言っていたっけ。
何かないかなと探したら、にんじんとたまねぎ、そのくらいはストックを見つけることができた。
野菜を細かく刻んで、すりおろしたしょうがと一緒に煮込んでスープにする。
きっとこのくらいなら食べられる、はず。
出来上がるころにベッドルームに戻ると、料理の匂いがしたからか、彼は目を覚ましていた。
「大佐、スープなら、飲めますか?」
「…ああ、もしかして、作ってくれたのか」
「勝手にキッチン借りちゃいました。すみません」
作ったばかりのスープを器に盛って、ベッドに運ぶ。
「これ、食べたら、薬飲みましょうね」
「…ああ、ありがとう」
「熱いですよ、気を付けて、…」
ひとさじすくったスープをふう、と冷まして、ゆっくり食べる。
残していいですよ、と言ったけど、おいしいから食べたいと言って彼は全部食べてくれた。
おいしい、と言ってくれたことに対して嬉しくなってしまっている自分があまりに単純で、呆れてしまう。
でもよかった。これで薬を飲んで、安静にしていれば。ただの風邪ならきっと、よくなるだろう。
「じゃあ、薬飲みましょう」
そう言うと、彼はあからさまにいやそうな顔をする。
「…粉薬は嫌なんだけどな」
「飲まないと治らないですよ」
水差しからコップに水を注いで、一回分の薬の包みを取り出して手渡した。
彼は渋々それを受け取って、水をたくさん飲んで薬を流し込んでいるようだった。
…苦いの、いやなのか。
意外に子どもみたいなところがあるんだなあと思いながらそれを見ていた。
「薬も飲んだし、きっと安静にしてれば治ります。…もう、寝た方がいいです」
「ああ、そうだな」
「もう少しだけ、ここにいてもいいですか。様子を見てから、帰ります」
「…ありがとう」
またベッドに横になり、彼は私に背を向けた。
「…これで貸し借り、なしです」
呟いた言葉は聞こえたのか、聞こえなかったのか。
それ以上、彼は何も言わなかった。
しばらくして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
やっぱり、大佐の寝顔は幼く見えて、なんだかあどけない印象だ。
彼の寝顔を見たのは、数えるほど。2回か3回くらい、だけど。
自分に見せてくれる無防備な表情が好きだった。
…帰ろう。ずっとここにいていいわけがない。
私が出るときに鍵を閉めることができないけど。
鍵の場所まではさすがにわからないし勝手に探すのも気が引ける。
仕方ない、何もないことを祈って、出るしかない。
「…私、帰りますね」
眠っているので返事はない。
もちろん、それを承知で言っているのだ。
ほんとは、いつかちゃんと言いたかった。
結局、言えなかったこと。
「…好きでした、大佐のことが」
いっぱい迷惑かけて、ごめんなさい。
「さようなら」
これでもう終わり。今度こそ。
2020.7.27