黒王子は笑わない/1


そこら中に剥き出しになっている老木のごつごつとした太い根元に、一体何度躓いただろうか。
ここでは不用意に悲鳴を上げることも許されない。
ただでさえ騒ぐ心臓を躓く度ひっくり返し跳ね上げながら、なまえは懲りずにひっと押し殺した悲鳴を上げた。
足を踏み出す度落ちている小枝がパキパキと音を立てる。
夜の森の香りはどこか湿っぽく、肌に感じる以上に冷たく感じられた。
おどろおどろしい森の中、光る杖だけを頼りに1人足場の悪い森道を踏みしめる。その足音がいかにも心細く、気味悪く感じる。
黒々した大木が鬱蒼と茂り、月明かりは僅かにしか地面に辿り着かない。
ルーモス、と唱えた杖の灯りも、今は何と力無く感じられることか。
――――ただの森だって、夜は恐ろしい。
昼間ならのどかで清々しく感じるだろう森の音も、夜になれば得体の知れない、不安や恐怖を煽るものになる。
この森は昼間でさえ近寄りたくないと思うような場所なのに、夜に、しかも1人で、ここを彷徨わなければならなくなるだなんて。
――――"禁じられた森"に好き好んで入る生徒など、ホグワーツにはいない。
少なくとも、なまえと同じハッフルパフの寮生には。
なまえは心の底から自分の不注意さと鈍くささを呪った。
寮監でもあるケトルバーン先生がまだなまえのしでかしてしまった過ちに気付いていないよう祈りながら、彼女は怪しく蠢く黒い森の中を今にも泣き出しそうな情けない目でびくびくと見回す。
手に握られた空っぽの鳥かごを何度見たって、金色に輝く、その主の姿はない。

夕食後今日の授業で使ったスニジェットをケトルバーンの部屋に戻しておくよう頼まれたなまえは、教室で転んだ瞬間に鳥かごの入り口が開き、中にいた絶滅危惧種の貴重な鳥・スニジェットを逃がしてしまった。
更に不幸なことには教室の窓が開いており、俊敏なスニジェットはあっという間になまえの前から姿を消した。
スニジェットとはクィディッチにおいて重要な役割を果たすスニッチの元になった鳥だ。
金色のまん丸な体に長い嘴と、つぶらな赤い瞳。
極めて俊敏で、クィディッチでは捕まえれば150点の得点が与えられた。
見た目の愛らしさ、それからクィディッチに使用されることもあって乱獲されたが為にスニジェットの生息数は激減し、14世紀以降は捕獲が禁じられている。
そのスニジェットの代わりに作られたのがスニッチだ。
クィディッチに憧れてはいても選手、ましてやシーカーになれるような能力を有しないなまえにとっては果てしない森に逃げ去ったスニジェットを捕まえることなど途方もない事のように思われたが、事態が事態だ。禁じられた森の方でその金色が消えたのを確認した時なまえは更に泣きそうになったが、考えるよりも早く、スニジェットを追った。
スニジェットが飛び去ってから箒を持ち彼の後を追っても遅きに失するのだが、そうする他手立てはなかった。
何せスニジェットは貴重な鳥で、代わりも無ければ何かで取り繕う事もできないものなのだから。

なまえが森に入ってどれくらいの時間が経っただろうか。
疲労感とはまた違う意味で息が上がり、なまえは肩で浅い呼吸を繰り返す。
再び箒に跨がろうかと思った時、土を起こし枯れ葉を擦らせ近付く小さく不審な音に、なまえは気付いてしまった。
それこそケトルバーンの魔法生物学の授業で学んだ危険な魔法動物たちの名前が頭を過ぎる。
何せここは彼らが沢山住んでいるのであろう、"禁じられた森"だ。
恐怖に足は竦み、より一層激しく波打つ心音が全身を包む。
1つ、2つ、いや、もっと・・・、その音に囲まれている、と気付いた時、なまえの背中にはつうと冷や汗が垂れたのが分かった。
杖を握る手に力が込められる。
一体どの呪文を、と思案する間にも、カサカサと自分に近付く不気味な音は増えていく。
なまえが杖を静かに持ち上げた時、照らされる月明かりの柱を撚って作ったような輝く糸にぶら下がる真っ黒な塊が、音もなく、彼女の背後へすうっと降りて来て、その8つの瞳に、恐怖と必死に戦う彼女の背中をぎらりと映した。

「!!!」

嫌な直感に振り向いた瞬間、なまえはきゃあと金切り声を上げ、尻餅をついた。
同時に杖は投げ出され、唯一の頼りであった灯りが消える。
彼女の上半身程あるであろう大きな体から、黒い毛の生えたいかにもグロテスクな8本の足、そして貼り付けられたような8つの目は暗闇に爛々と輝いていた。
彼らの目が合った――――というよりは、彼になまえが、捕食対象か、攻撃対象としてロックオンされた瞬間であったのだろうか。
腰を抜かしたような情けない自分の姿が彼の目の数だけ、映されている。
息を飲んだ一瞬の間の後、なまえは自分でも驚く程大きな声で叫んだ。

「、イモビラス!!(動くな)」

よく、呪文が出てきてくれた――――なまえがそう思ったにも係わらず、蜘蛛は変わらぬ様子で彼女を射竦めている。
腕を振りかざし渾身の力を込めて唱えた彼女の呪文は効力を発揮していないようだった。

「イモビラス!!」

焦ったなまえはもう一度、同じ呪文を唱える。それでも、恐怖に慌てふためくなまえなどどこ吹く風で、蜘蛛はゆらゆらと足を動かし続けている。

「な、何で――――――」

なまえは恐怖にボロボロと涙を流し、鋏を鳴らす真っ黒な塊を見つめる。
それはまるで舌なめずりでもされているかのように彼女の目には映った。
パニックに陥って、唱えるべき他の呪文が浮かばない。
襲いかかる前の景気付けだろうか。大蜘蛛は8本の足をゆっくりとした動作で窄め一瞬止まった後、開いた瞬間なまえへ勢いよく襲いかかった。

「――――――アラーニア・エグズメイ!!(蜘蛛よ、去れ)」

聞き慣れない声に、全身を縮こまらせその場にすくんだなまえは驚き顔を上げた。
自分に襲い掛かろうとした大蜘蛛はまさに、彼方へ吹き飛ばされていくところだった。

(――――――王子様・・・!)

なまえは目の前で大蜘蛛から自分を庇うように立ちはだかる、声の主の背中をただ呆然と見上げていた。

「・・・ハッフルパフの、なまえ・みょうじだったか・・・」

自分の名を呼んだ低い声の主、小柄な背を向ける見慣れたローブのフードの裏地は、緑。

「どうしてお前がこんな場所にいる」

切れ長の目に、月明かりに黒く光る髪、神経質そうな鼻筋、と、薄い唇。
振り返ったその顔は、この学校で彼を知らない者など1人としていない有名人、スリザリン生・リヴァイだった。

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