はなむけ




「・・・辞める?」

突然告げられた報告に、なまえは言葉を失った。
机にコトリと置かれた見覚えのある小さな巾着袋が擦れたように破れているのを見て、彼女の決意は恐らく揺るがないものなのだろうということが分かった。

「なまえさん・・・本当にごめんなさい」

ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、新米兵士のゾフィーは言葉を詰まらせた。
調査兵団が壁外から帰って1週間が経った。
それぞれが落ち着きを取り戻し始め、また元の本部に戻った矢先の出来事だった。

なまえは何と彼女に声を掛ければいいのか分からなかった。
ゾフィーは、初めての壁外で怪我を負って帰って来た。
兵士たちが帰ってきて数日後、医務室に現れたゾフィは「腕が動かないんです」と医師に言った。
見た目としてはひどい擦り傷を負っていただけだったので、腕が思うように動かずおかしいと思ってはいたものの、自分よりもずっとひどい怪我を負った兵士が大半だったのでそれまで黙っていたそうだ。
彼女の腕の状態は、見た目よりずっと深刻なもので、症状としては、腕が痺れて動かせない。力が入らず、今までのように右手が使えない、ということだった。
ゾフィーは馬と一緒に巨人に跳ね飛ばされて、気絶したまましばらく死んだ馬の下敷きになっていたという。
医師は恐らく、腕の神経の圧迫によってそのような症状が出ているのだろうと診断した。
治療をすれば改善していくかもしれないし、ひょっとしたら治るかもしれないという可能性もあるとは、医師は言った。
けれど、今まで見たり、報告されてきた彼女と同じ症状の患者たちの経過を鑑みる限り、彼女は恐らく一生その症状と付き合っていかなければいけないのだと・・・。

「私に謝ることなんて・・・何も、ないですよ。辛いのは・・・ゾフィーさんでしょう?」

彼女を引き止めることなんてできない。
深い手負いの兵士はこの調査兵団では必要とされない。
彼女にある選択肢は、2つ。腕の治療をして兵士としてまたここで働くか、あるいは、ここを去るか。

「・・・もう、ゾフィーさんが決めたことなんですね?」

なまえは彼女の冷たい、涙に濡れた手をそっと包んだ。

「はい・・・。あんな光景を見てしまったら私、もう巨人と戦おうなんて気持ちにはとてもなれなくて・・・」
理想と現実のギャップに希望を失ってしまったと、彼女は言った。
ゾフィーの手は震えている。
医務室に心のケアを求める兵士が来たとき、なまえが彼らにしてやることは決まっていた。
彼らの本当の気持ちを聞いて、理解をしてやることだった。

「情けないです。兵長に認めてもらうんだって、あんなに息巻いてたのに・・・。訓練と、全然違ったんです。足がすくんで、動けなかった・・・。私のために、2人の先輩が命を―――――」

ああ、彼女は自分が見ることのない地獄を見てきたのだ。
なまえはやるせない気持ちになる。
自分は見なくてすんでしまう、彼らが戦わなければいけないその世界。

「それは・・・本当に、辛かったですね・・・」
「もう、無理なんだって思いました。甘かった・・・本当に、私の考えが甘かったんだって、思い知らされました。活躍して兵長に自分の名前を知ってもらうどころか、足手まといになって先輩があんなことになって――――」

辛かったら無理に話さなくていいですよと、なまえは言った。

「・・・兵士を辞めて、どうされるんですか?」
「あ・・・実家が、小さな店をやっています。・・・パン屋なんですけど。この腕でもできるような手伝いをしながら、暮らしていこうかなって・・・」

この小部屋に入ってから初めてゾフィーが小さく口の端を上げたので、なまえは少しほっとした。

「それは、ご家族が喜ばれますね」
「はい。私が訓練兵になることを反対していた父でしたから・・・」
「そうですか・・・」

ゾフィーの気持ちと言葉を噛み締めるように、なまえは深く頷いた。
彼女はもう十分傷付いた。
腕にも傷を負ってしまったけれど、彼女にはこれから新しく踏み出そうとしている道があり、これからの自分の人生について、彼女は絶望してはいない。
なまえは静かな瞳で、ゾフィーをしっかりと捉えた。

「――――ゾフィーさん。応援してます。これからのあなたの人生が、幸せであふれていますように・・・」

せっかく少し落ち着いていたのに、ゾフィーはまた少し泣きそうに顔を歪めた後、「はい」と小さく答えた。

「・・・ごめんなさい。今までたくさん話を聞いてもらって、たくさん励ましてもらったのに―――――」

何言ってるんですか、となまえは、またしゃくり上げるように泣き出した彼女の背中をやさしく撫でた。
ゾフィーは明日にもここを去ることになっているらしい。
さびしくなるなと、なまえはちくちくとした切ない胸の痛みを感じた。

机に置かれた彼女の憧れの相手であるリヴァイとお揃いの巾着袋を、その小部屋から彼女が持ち帰ることはなかった。
なまえはボロボロになってしまったその巾着袋を手に取ると、大事そうに握り締めた。
それがまるで、いまのゾフィーの心の形のような気がしたので。





「・・・裁縫か?」

小部屋を訪れたリヴァイが、彼の来訪になまえが机に置いた裁縫道具を見て尋ねた。

「あ、そうなんです。ちょっと・・・」

自分から聞いたくせに、彼はそれに返事をすることもなく、ジャケットの胸ポケットへ手を入れた。

「これを返しに来た」

リヴァイは彼女の前に、よろしければ壁外にお持ちくださいとなまえが彼に渡した巾着袋を置いた。
兵士を辞めることになったゾフィーと、お揃いで用意をしたものだった。
中にはアロマストーンと、カモミールのオイルが入った小瓶が入れてある。

「――――あ、それなら差し上げたつもりでしたのに」
「いや・・・ハーブといい、貰ってばかりだと気が引ける」
「そんな、これは―――――」

下心があって、となまえは言いかけた自分の口を閉じた。
リヴァイの不眠に役立つだけでなく、彼とお揃いのお守りができればゾフィーが喜ぶと思ったから二人にそれを贈ったのだ。

「・・・それ、いかが、でした?」
「・・・・・・・・・・・・まぁ、悪くない」
「・・・あ、そ、そうですか・・・」

二人はお互いに少しぎこちなく視線を外した。
なまえはやっぱり任務には邪魔だったかな、それとも「悪くない」のなら良かったということなのかな、と彼の真意を推し量っていた。
リヴァイは、ミケに何を女臭い物を持っている、と指摘され少し気まずい思いをしたことを思い出していた。

「!」

それぞれがソワソワとした気持ちでいたその時突然、なまえにひらめいたことがあった。

「リヴァイ兵士長、さっき、貰ってばかりだと気が引けるって、おっしゃいましたね?」

珍しく少し強い口調で彼女がそう言ったので、リヴァイは少し驚いた。

「・・・ああ」
「そしたら、お願いがあるんです。明日、なんですけど―――――」





ゾフィーの新しい旅立ちの日だというのに、その日は朝から小雨が降ったり止んだりしていた。
分厚い灰色の雲が空にたちこめて、太陽は顔を出してくれそうにない。
彼女は昼にここを発つというので、彼女と親しい者たちはゾフィーを見送ろうと集まっていた。
班長、彼女を救い命を落とした以外の班員、同期の仲間。
誰もがやりきれないような表情を浮かべて、最後の挨拶をしていた。

彼女への挨拶を終えたなまえは、その輪から少し離れたところでリヴァイを待っていた。
今日調査兵団を去る新兵を見送ってやって欲しいと、彼に頼んでいたからだった。
ゾフィーのことを彼に一体どうやって伝えようかとなまえは苦心した。
あなたに憧れていた兵士だから最後に見送ってやってほしい、と伝えるべきか、否か。
彼女はなまえに、自分の力で彼に名前を覚えてほしいから、リヴァイには自分のことを伝えないで欲しいと言っていた。
今は潰えてしまった彼女の夢を考えると、彼にゾフィーのことを伝えるのがいいことかが分からなかった。
結局、「今日調査兵団を去る新兵がいるので、何も言わなくていいからただ彼女を見送ってやってほしい」とだけ、リヴァイにはお願いをしていた。

そろそろ彼女が行ってしまいそうな雰囲気だ。
今か今かと待ちわびたなまえがあたふたとしていると、リヴァイがやっと現れた。

「間に合ったな」

彼はそう言ってなまえに一瞥をやると、ゾフィーを取り巻く輪の方へツカツカと歩いていった。
なまえは彼に少し遅れて、彼らの輪の方へ歩き出す。
リヴァイが歩みを進めていくと、輪の中の数人が彼の登場に気付き、一様に驚いた顔をした。
なぜ兵長がここに現れたのか?と。
当然だろう。彼とゾフィーの間には、かなり上の上官と、新米兵士という以上の関係がないと思っていたからだ(それに、彼女が他の兵士たちよりも彼に憧れ強く心酔しているという点を除けば、その通りだった)。
普通に考えれば、調査兵団を去る入ったばかりの新米兵士の見送りに彼が来ることなど考えられない。
自然に彼の前の輪が開いていき、リヴァイとゾフィーを繋ぐ道ができる。
輪の中心で仲間に見送られていたゾフィーは、自然に避けていく人の先に次第に現れたリヴァイの姿に、息を止めた。

「リ・・・、リヴァイ兵長・・・?」

彼女は目の先に自分を見つめるリヴァイの姿を見て、半ば呆然としていた。


「・・・ゾフィー・ケルナー。・・・短い間だったが、ご苦労だった」


彼の言葉に耳を疑ったのは、ゾフィーだけではなかった。
なまえも彼女と同じように、耳を疑った。
ゾフィーは、リヴァイが自分の名前を知っているだなんて、夢にも思っていなかったのだ。
自分の名前を彼に覚えてもらうことが彼女の目標の1つであったくらいなのだから。

「あ・・・リヴァイ、兵長・・・・・・」

ゾフィーは、噛み締めるように、彼の名前を呼んだ。
みるみるうちに彼女の頬は赤く染まり、瞳には涙がいっぱいに溢れていく。

「・・・ありがとう、ございましたっ・・・!!!!!」

口をギュッと結ぶようにして彼女は笑うと、大きな声でそう叫び、彼に向かって見事な敬礼をした。
心臓の上に置かれたうまく握れない右手はゆるくすぼめたままだったが、とても立派な敬礼であるように、誰もが感じた。
そう言った彼女は涙をとめどなく流しながらも、何かが吹っ切れたような、今まで彼女がなまえにあれこれと彼のことを語っては浮かべていた、力強い、希望に溢れた笑顔を浮かべていた。
リヴァイは黙ったまま頷くようにして、彼女に小さく微笑みを向けた。

「・・・おい、それをよこせ」

リヴァイは、二人の様子を感無量で、半ば瞳を潤わせて眺めていたなまえを突然振り返り、言った。

「えっ!?」

なまえは突然の彼の言葉に驚き戸惑ったが、少し迷った後、彼女は手に持っていた巾着袋を彼に差し出した。
リヴァイはそれを受け取ると、ゾフィーに向かって放った。

「餞別だ」

ゾフィーがそれを上手く左手でキャッチしたので、リヴァイはニヤリと笑った。
彼女は手をゆっくりと開いてつかんだものを確認すると、また顔を歪めて涙を流し、ぎこちなく、心から嬉しそうに笑った。



見送る仲間たちに手を大きく振り、ゾフィーは笑顔で本部を去っていった。
その姿を見てなまえは胸にこみ上げるものを感じ、彼女が小さく見えなくなってもまだそこに立ち尽くしていた。

「・・・リヴァイ兵士長、本当にありがとうございました」

彼女の少し前に立つ彼の背中に、なまえは静かに話しかけた。

「ゾフィーさんの名前・・・ご存知だったのですね」

リヴァイは背中を向けたまま、ああ、と答えた。

「命を賭す覚悟でこの調査兵団に入ってくる兵士だ。その一人ひとりに対する敬意くらい、オレでも持ち合わせてる」

なまえはリヴァイのその言葉に、胸がいっぱいになった。
普段はぶっきらぼうな彼という人物がなぜこの調査兵団で尊敬され、慕われているのか。
それは、ただ彼が強いからというわけではない。
彼の言葉になまえは、誰もが尊敬の念を送る彼の心根に触れたような気がしていた。

「そういえばこの間、お前の部屋にあいつがいたな」

リヴァイは壁外調査に行く前に、ゾフィーと入れ替わりでなまえの小部屋を訪ねたことを思い出していた。

「彼女はよくあの小部屋に来て、あれこれと色んな話を聞かせてくれていたんです。・・・妹みたいで、可愛かったなぁ・・・」
「それで、オレにあいつを見送れと?」

彼はなまえを振り返り、怪訝な顔をした。

「あ、えっと・・・そうです。きっと、兵士を束ねるリヴァイ兵士長のようなトップが見送ってくれれば、彼女も喜ぶだろうって―――――」

少し不思議そうな顔をしたまま、リヴァイはそうか、と答えた。

「私が持っていた巾着袋・・・何で、彼女にあげようとしていた物だったって分かったんですか・・・?」

なまえはゾフィーが小部屋に置いていった、リヴァイとのお揃いの巾着袋を繕い新しく作り直していた。
けれどなまえはそれをゾフィーに渡していいものかどうかが分からなかった。
恐らく巾着袋がボロボロになってしまったのは、彼女が腕に怪我を負った時が原因なのだろうと思っていたからだった。
ゾフィーにとってあの巾着袋は、ここに置いていきたい思い出なのか、それとも置いていかざるをえない思い出なのか。
迷った末に見送りにそれを持っていったけれど、最後の挨拶の時にも結局それをゾフィーに渡すことはできなかった。
けれどリヴァイがそれを見つけ、半ば強引に彼女に渡してくれた。
結果、それを受け取ったゾフィーの感極まったような顔を見る限り、リヴァイの行動は正解だったのだと感じた。

「お前が昨日あれを繕ってたからだろうが。渡せよ、何の為に用意したんだ」
「は、はぁ・・・」

なまえは苦笑した。
リヴァイはどこまで分かって、あの巾着袋をゾフィーに放ってくれたのだろう。

「彼女の笑顔・・・久しぶりに見た気がします。・・・リヴァイ兵士長のおかげです」

なまえは心からほっとしたように、そして、うれしそうに、やわらかく微笑んだ。
リヴァイはそれを見て、半ば呆れたように言った。

「これは何かお前の得になったのか?」

カモミールのお礼に彼女が請求したのがこれか、とリヴァイは笑う。

「はい、もちろんです。本当に、ありがとうございました」

そう言った彼女が一点の曇りもなくまぶしい笑顔を浮かべたので、リヴァイはもう一度、呆れたように笑った。
全くお前というやつは、というように。


重たい灰色の雲から、霧のような雨が下りてきた。
なまえはまだ、ゾフィーが去っていった方を凛とした顔で見つめていた。
彼女の新しい旅立ちと、これからの人生に、彼女のあの笑顔がいつもありますようにと、祈りながら。


 
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