もう帰りたい


昔よき日本の姿が今なお残る、とか、豊かな大自然の広がる、とか、空気がとにかく美味しい、とか、のどかな田園風景、とか、とにかく都合の良い言葉で無理矢理美化される、田舎という名の緑の檻からやっとの思いで抜け出して、私は夢の都会生活を始めることになった。
空気は悪いし水道水は飲めないけれど、見るもの全てがキラキラして田舎育ちの私の目には眩しくて、私をますますワクワクさせた。
県外に出ることさえ初めてなので、早くこちらに友達を作るようにとお父さんとお母さんは言った。
こちらに来て2日目、お店の人以外とまだ話したことがない。
必ず隣の部屋の人に引越しのご挨拶をするようにとおじいちゃんとおばあちゃんからうちの近くの和菓子屋さんで買ったお饅頭を持たされていたが、昨日は会うことが出来なかった。
時計の針は21時を指している。こんな遅くに不謹慎だろうか。でもお饅頭が傷んでしまうとよくないしと、私は勇気を出してお饅頭を一箱手に、部屋を出た。

(都会の人・・・何だか冷たそうだけど・・・やさしい人だといいな・・・)

せめて女の人だといいな、と思いながら震える手でインターホンを押すと、やがて静かにドアが開けられた。

「・・・・・・・・・」
「!!」

姿を現したその隣人に無言で顔を合わされて、私は手ばかりでなく全身が震え上がった。
女の人、もしくは、男の人ならやさしくてカッコイイ、お兄さんか同い年くらいの子。
私の淡い希望とは全く正反対の姿がそこにあった。
20代後半くらいだろうか。小柄な体格に、ツーブロック。上下黒のスエットを着て、信じられないことに上をパンツにインしている。
その顔は小作りでしゅっとして、眉間にはその神経質さをよく表す皺が深く刻まれていた。
訪ねたのは私だと言うのに、世にも恐ろしい人に出会ってしまったと冷や汗を垂らした。
街でこうして目が合えば、カツアゲでもされると思うかもしれない。

「・・・何か」

しばらくして聞こえてきたその低い声に、ひっ、と思わず声が出そうになった。
いけない、なまえ。勇気を出すの。今初めてあなたは都会の住人と顔を合わせたのよ。こんなところで挫けてちゃダメ。これからあなたには広くて新しい世界が待っているんだから。
私の両手に持たれているおじいちゃんとおばあちゃんが用意してくれたお饅頭が、折れそうな私の心を励ましてくれた。

「あっ・・・あの・・・私、隣に引っ越してきましたみょうじなまえと言います・・・!これ、良かったら召し上がってください」

よく分からない少しの間の後、「あぁ、ドウモ」と言ってその男の人はお饅頭の入った袋を受け取った。

「リヴァイだ。よろしく」

彼はそう言うとドアを閉めた。
ガッチャン、と大きな音が廊下に響く。
私はその音に頭を殴られたように、絶望的な気持ちになった。

しばらく立ち尽くした後部屋に戻ると、すぐさま実家に電話をした。

「もしもし、お母さん!?私・・・なまえ。もうやだ、家に帰りたい」

電話の向こうでは、悲しいくらいにいつも通りの母親の声がした。
そして、後ろから小さく聞こえる、もう遥か昔に別れたのではないかとすら思える家族の他愛無い会話。
私はもうそれだけで泣きそうになった。

「なまえ?一体どうしたの」
「どうしよう・・・隣にチンピラかヤンキーが住んでる」
「え?」
「やっぱり都会は怖いよ・・・もうこっちでやっていく自信無くなった」

は?!と母親は電話口で叫んだ。

「まだ2日目でしょ、何言ってるの!散々都会で暮らしたいって言ってた癖に」
「だって本当に怖い男の人だったんだもん、お母さんは私の事心配じゃないの」
「都会の人はみんな冷たいものなの!うちの近所みたいに集落全員顔見知りなんてありえないんだから」
「もうやだよ・・・改札だって切符通らないし、そもそも切符だって買うのめちゃくちゃ難しいんだから!!」

何だ、もうホームシックかぁ?と娘の悲しみや絶望など全く知らない父親の声が聞こえる。
後ろからはおじいちゃんとおばあちゃんの心配する声も聞こえてきて、私はその後1時間程家族と電話をしながらやっぱり都会になんて来るんじゃなかったとメソメソと泣いた。


(後日談だがどうやらその電話はお互いベランダの窓が開いていたので怖い隣人に丸聞こえだったらしい)つづく


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