次長と守銭奴/別れの味のキス


「――――冗談は、やめてください」

なまえが何とかそう声を絞り出すと、自分の声が少し震えているのが分かった。
心の中ではそれが冗談でないことは分かっていたのに、まず、そうとしか答えられなかった。

「冗談で言うと思うか?」
「・・・意味が、よく分かりません」

初めて見る彼女の困惑の表情に、リヴァイは小さく息を吐いた。

「俺についてきてほしい。・・・そうなりゃ当然お前は今まで通りの生活ができなくなるが」

なまえはかなり動揺していた。こんな気持ちになったのは、彼女の人生で初めてのことだった。
相手からの提案にただ動揺して、自分が一体どうしたいのか、分からないだなんて。

「・・・それなら、お言葉通りに受け取り返事をします。すみません。あなたについて私も一緒にニューヨークに行くということなら、それはできません・・・。私は新事業の経営企画室に入ることになりました。既に水面下でプロジェクトも進んでいます。喜んで請けますと言った責任上、とても今、そちらを断ることはできません・・・」

出さなければならない答えを出したものの、いつも相手をしっかり見据えて話をする彼女が一度もリヴァイを見ることはなかった。
声色は平素より低いものの覚束ない印象でどこか頼りなく、いつものなまえとは全く異なる。
リヴァイはじっと見つめていたなまえから視線を外すと、分かった、と言った。

「返事は分かってたが、聞いておきたかった。・・・驚かせて悪かったな」

そう言って静かに席を立つと、リヴァイは部屋を出て行った。
なまえは彼から目を逸らしたまま、その姿を見ることはできなかった。
さっきと同じ1人に戻っただけなのに、部屋はひどくがらんとして、この世の全てから取り残されたような気になる。

(・・・どうして、どうしてこんな気持ちになるんだろう)

――――この気持ちは何なんだろう。何でこうなるんだろう。

なまえは自分の気持ちが今どうあるのか、分からなかった。
突然リヴァイから告げられた言葉は、これまでの綱渡りにぶら下げられたような2人のアンバランスな関係からは考えられないものだった。
思えば彼は真意を相手に素直に伝えるには不器用な人物で、皮肉屋で――――でもそれを思いやり補って彼の言動を補足し受け止められる程なまえも器用ではないし、むしろベクトルは違うもののなまえもリヴァイと同じくらい不器用なのかもしれない。
何にしろ少なくとも彼は決して彼女が感じていた程、渡した縄に不安定に吊り下げたような付き合いをしていた訳ではなかったらしい――――

ぐるぐると思考と感情が渦を巻く。
しばらくした後、なまえは考えても仕方ないことだ、もう結論を出し、終わったことなのだ、と頭を振って、どろどろとした渦を止めた。
そして再びタイピングを始めようとしたものの、一体それまで何を打っていたのか、何の案件だったのかすら全く浮かんでこない。
やがて手のひらは力無く、キーボードの上へへたりと置かれた。



異動の期日の数日前、海外へ渡るリヴァイは本社への最後の出勤日を迎えていた。
辞令が発表されたあの日の夜はまるで無かったかのように、あれ以降なまえとリヴァイの関係は何も変わらなかったし職務上何の支障も来すことはなかった。
何もかも、これまで通りだった。

その日なまえの仕事が一通り片付いたのは20時頃だった。
部下のエレンは退社前にリヴァイへ律儀に挨拶に行ったらしい。
まだ彼はいるだろうか、と考えたものの、なまえはそのまま退社することにした。
これから彼の前へ行って、一体何を話すと言うのだろう。
いつも通り帰り支度を始め、部屋を出る。
リヴァイのいる方へは振り向かぬまま、エレベーターホールへと歩みを進めた。
昼間彼と打ち合わせをした時も、ごく普通(彼らにとっては)。
あれが彼の最後の姿になるのか、とぼんやり思う。
とはいってもリヴァイは会議でたまには戻って来るのだし、今生の別れという訳でもない(といえど、こちらに来ても今後は仕事上の関わりはないし会うこともないだろう)。
そもそも彼と自分は恋人同士ではないのだし、一体何でこんなに彼のことを気にしなくてはいけないのか。
そうだ、大体こんなよく分からない付き合い方をしてきたのが悪かったのだ。

そんなことをなまえが考えているうちに、いつの間にか目の前ではエレベーターがぽかんと口を開け、呼び寄せた主を今か今かと待ち構えていた。
なまえは小さく、ふう、と息を吐くと中へ歩みを進める。
“1”のボタンが押され待ってましたとばかりに扉が閉じようとした時、外から見覚えのあるシャツに纏われたたくましい腕が伸びてきて、ガコ、という鈍い音を立てながら、扉が再び押し開けられた。

「!」

閉じようとした扉から現れたのは、リヴァイだった。
手には何も持っていないから、彼も帰り際だという訳ではないだろう。

「――――リヴァ、、・・・あの、」

腕で扉を押し戻したまま、リヴァイはなまえに顔を寄せる。
彼の強い瞳がぐんぐんと近付いて来るのが、なまえの瞳にはスローモーションのように映り――――やがて何かを言おうとした彼女の唇に、ふわりと彼の唇が重ねられた。


「――――元気で」


その言葉はまるで、そっと手紙でも手渡されたかのようで。唇が離れたと同時にそう言ったリヴァイの顔は、全てを受け入れたような、ほろ苦いような、ごく静かな笑みを浮かべていた。
彼の腕が扉から離れ、ようやくエレベーターの扉は閉まっていく。
見たことのない彼の笑みを湛えた表情をラストシーンに、ゆっくりと幕が下ろされていくようだった。
そしてまた、がらんとしたエレベーターの中に彼女だけが取り残される。

なまえは無意識に慌てて扉を開けるボタンを押したけれど、既にエレベーターは下へ下へと下っていく。
手応え無くボタンを押す指が、次第にぼやけていった。

――――何故、このタイミングなんだろう。
何故、こんなに辛いんだろう。
どうして、こうなってしまったんだろう。
・・・そして、どうしてあの時、素直に「嬉しい」と言えなかったんだろう――――

(そう、私、あの時、嬉しかったんだ、、)

彼についていけるとかついていけないとかそういう判断の前に、「俺についてきてほしい」というリヴァイの言葉は、あまりにもありえない程突然で現実かどうかも信じられないくらいだったけれど、心の底では彼女には、「嬉しい」という感情が浮かんでいたのだ。

(それなのに私は、ただ断る言葉しか並べることができなくて――――リヴァイ次長は本心を私にさらけ出してくれたのに)

ただ彼女は、怖かったのだ。自分の本心がリヴァイの前にさらされることが。
ひょっとしたら彼もこれまで、そうだったのかもしれなかった。

(ただ、傷付くのが怖くて)

これまでだってきっと、何か1つのきっかけさえあれば、2人の関係は大きく変わっていたのかもしれない。
でも、少なくとも彼女は傷付くのが怖くてそれを避け続けてきたら、結局もうボタンを押したって彼のいる所へ戻れないタイミングまで来てしまった。

なまえは携帯を取り出し、リヴァイの名を映し出す。
けれど、これから彼に電話を掛けて今更一体何を話すというのだろう。
もう“幕は下り”、“結論は出て”、“終わってしまった”ことなのだ。

なまえの眼からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれていた。
こんなに泣いたのは、一体いつ以来だろう。
ひょっとしたら、小さな子どもの頃以来だったかもしれない。

どうして、と、何で、をなまえは何度も心の中で繰り返す。

瞼の裏には、やがて見えなくなっていくリヴァイのあの顔が、焼き付いて離れなかった。


別 れ の 味 の キ ス


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