兵長と守銭奴/8


三人で歩いたのはほんの2、3分だったはずなのに、なまえにはそれが一時間程に思えるくらい、それは息苦しい時間だった。
前を歩くリヴァイとルートヴィヒは二人で何となしに話をしているようだ。
どうやら自分はそこに参加しなくても良さそうなことに、なまえは密かに胸を撫で下ろしていた。

「リヴァイ兵士長、ありがとうございました。また明日、なまえ」

大きな宿の前で立ち止まったルートヴィヒは、穏やかにそのグレーの瞳を細め、なまえをじっと見つめる。
見つめられたなまえはというと、ほんの少し視線を泳がせた後、おやすみなさいとだけ、応えた。

リヴァイと二人で歩くことに、なまえがこんなにほっとしたことはない。
特に何を話す訳でもなく、ルートヴィヒと別れた後、二人はなまえの家の方へと静かに歩いていた。

「昔フラれた男か」

細い道に入り突然リヴァイが言った言葉に、なまえは目を見開いた。
それはあまりにも、思いがけない言葉だったので。



「まだ残ってたのか、なまえ」
「すみません、審議官。どうしても今日中に終わらせなければと思ったので」

日付が変わる少し前、出張先から事務室に戻ってきたルートヴィヒは暗い部屋の中蝋燭を灯し一人仕事をしていたらしいなまえに、目を丸くした。
残業が常態化している忙しいこの部署でも、こんな時間ではさすがに誰も残っていない。
当時部署を変わったばかりだったなまえは元々残業を良しとしない性分だったのだけど、慣れないが日付の決まっている、任された仕事をこなすのに必死だった。
ルートヴィヒは彼女に近付くと、隣の席の椅子を引いた。

「僕に手伝えることはある?」
「いえ、そんな・・・フォン・マイヤー審議官に手伝って頂くなんて」
「――――“ルー”。僕は堅苦しいのが苦手なんだ。良かったら君もルーと呼んでくれるかな。遠慮はしないで、なまえ。部下を置いて帰るのも気が引けるから」

間近で笑った彼の顔にほんの少し頬を染めると、なまえは彼の好意を辞退するのを諦めたようだった。

何度かそうしたことが繰り返されるうちに、なまえとルートヴィヒは親しくなっていった。
それを示すように、彼女も他の同僚たち同様、彼をルー審議官、と自然に呼べるようになっていた。
それ以来、ルートヴィヒはたくさんの部下のうち彼女だけに目を掛けてやっていた訳ではないが、仕事を重ねていくうちに、なまえはルートヴィヒから仕事のやり方や考え方をよく学んだ。
彼女の意見にもよく耳を傾け、イエスもノーもはっきり、納得できる形で答えてくれる。
今までついた上司たちとは違う彼の姿に、職務上の理想と違う現実に半ば諦めを感じていたなまえが、ルートヴィヒを尊敬し始めるのに時間はかからなかった。

それは、なまえがルートヴィヒの部署に移って1年程経った、ある夜のことだった。
仕事の大きなミスでひどく落ち込んでいた彼女を見兼ねて、ルートヴィヒが食事に誘った。
酒を飲み彼女の話を聞き、彼はもう前を向けばいいのだと励ましてやった。
その帰り道、だった。
ベンチに座り、2人はまだ話をしていた。
ありがとうございます、ルー審議官のお陰で少し元気になれました、そうなまえが言って、軽く下を向いた時。耳に掛けていた彼女の髪が落ちて、さらりと揺れた。
その時だった。

不意に、横から彼女の耳の辺りに伸びてきた手が、なまえの髪をすっ、と梳いたのだ。

無防備だった心臓は痛い程大きな音を立て、それにスイッチをパチリと押されたように、反射的に隣を向いた彼女の身体は、そのまま硬直した。

「――――ごめん、綺麗な髪だなと思ったら、手が――――」
「・・・・・・あ、あの・・・、」

そう言った時こそ平素より赤い顔をしている彼は自分でも驚いた顔をしていたが、それはすぐに真顔になって、今度はまごつく彼女の頬へと、ルートヴィヒの手は伸びてゆく。
その目はなまえの瞳の奥までまっすぐに彼女を捉え、その動きを許さない。
恐らく彼と同じように酔っている彼女の熱い頬の、彼に触れられている部分だけが、心臓と一緒に脈打っているように感じられた。
――――そして、彼の唇が近付いてくる。
二人の鼻はすぐにも触れそうな距離しか空いていない。
彼の息遣いを感じたとき、なまえは二人の唇の間に、その両手を差し入れた。

「!」

ルートヴィヒは彼女に口元を覆われて、我に返ったように僅かに目を見開く。
ごめん、と彼はもう一度言った。

なまえもまた、混乱していた。
実はルートヴィヒには決まった相手がいたからだ。
それは彼らの所属する組織のトップに近い人物の、令嬢だった。
大した後ろ楯が無いにも関わらず異例の出世を遂げていた彼にとって、唯一足りないものを補ってくれるものでもあったし、また、いつもの会話の中から、彼は相手を大切にして、愛しているようでもあった。

「ーーーーごめん。僕は一体、何て事を、、」

ルートヴィヒは明らかに動揺して、彼女と間を取るようにして、一歩、後ろに下がった。

「・・・いえ、私こそご好意に甘えてこんな時間までご一緒してしまって、、申し訳ありませんでした」

彼の唇との間に咄嗟に差し入れた彼女の両の手のひらは、力が何かに吸い取られていくように、ただ重たく下されていった。

以来、なまえもルートヴィヒもお互いあからさまに避けるようなことは無かったが、明らかに、それまでより距離を取るようになっていた。
但しそれは、職務上は全く支障をきたさぬように。
だから周りも二人の間に前とは少し異なる不思議な距離感ができていることに、気付くことはなかった。
なまえは感情に蓋をして、これまでより更に、仕事の事だけを考えようと努めた。

少しして、赴任期限が近付いていた調査兵団付きの職員の募集を知ったなまえは希望を出し、選考の後、希望通り中央から離れた調査兵団に赴くことになったーーーー




「そういうのではありません」

リヴァイに向けられたなまえの顔は、やや強張っている。

「そうか。面白いネタができたと思ったが」

そう言うと、リヴァイはその腕で、壁際を歩いていたなまえの行く先を遮った。
足を止めたなまえは、固いままの表情で壁に手をやる彼を見つめ返す。
月明かりに照らされていた彼女の顔は、彼の顔でふっと暗がりに追いやられた。
そして近付く彼の切れ長の瞳に、なまえの顔が映り込む。
その瞳に吸い込まれそうになった時、彼女の唇を捉えようとしたリヴァイの唇は、止まった。

「・・・す・・・、すみま、せん」

両手で彼の唇を覆ったなまえは、無意識に自分の口から出た言葉にすぐ、しまった、と思った。
彼にこうしたことを迫られそれを拒み、謝る必要なんて、全くないのだ。
だってリヴァイとなまえは、恋人同士でも何でもないのだから。

壁に追いやった彼女を無言で解放すると、リヴァイは再び、歩きだした。


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