兵長と守銭奴/7


こつ、と壁に頭を預けると、漆喰のひやりとした感触が遅れて伝わってくる。
薄暗く人の疎らなバーの隅、窓際に備え付けられたカウンターテーブルで、なまえはぼんやりと外の風景を眺めていた。
狭い通りに飲み屋が立ち並ぶこのエリアで、二階にあるこのバーの窓からは賑わう通りがよく見渡せる。
軒先に掲げられた明かりに照らされる狭い路地は、黒い人だかりが蠢いているように見えた。

なまえは唇につけていただけの細いグラスをゆっくりと外した。
グラスは彼女の唇から離れるのを名残惜しそうに、その唇を僅かに引っ張る。
やがて離れたそれは、音もなくカウンターに置かれた。

――――彼女は分からなかった。
今、自分の胸に感じている、何かが詰まったような小さな苦しさが、一体何なのか。
ただ、その中心にはさっきリヴァイの言ったあの言葉があることは、確かだった。

靴音が近付いて来たので、なまえは壁にもたれかけていた頭を戻す。
手洗いから戻り再び彼女と肩を並べたリヴァイは、今日はそんなに飲んでねぇだろう、と言った。
酔った為になまえが頭を壁に預けていたのだと思ったのだろう。

「・・・別に、酔ってる訳じゃありません」

フン、と鼻を鳴らすと、リヴァイはロックグラスの縁に指を掛け、持ち上げた。
その横顔は、いつもと全く変わらない。
リヴァイもまた、眼下の人群れを何となしに眺めているようだった。

「・・・あなたでも、あんな言葉を遣うんですね」

ぽつりとなまえがつぶやいた言葉に、リヴァイは彼女を見た。
壁際に立つ彼女もまた、ぼんやりと外を眺めている。

「意外でした。ウソでも、あなたが“愛してる”なんて言葉を遣うだなんて」

薄暗い店内よりも、下にある狭い路地から届く光の方が明るい。
淡く上る明かりで照らされる彼女の横顔を見つめた後、リヴァイは視線を再び外へ戻した。

「・・・そりゃ遣うだろ。本当に“愛してる”女になら」
「・・・そうですか」

リヴァイはグラスを再び傾け、こく、と喉を小さく動かした。
店の一角、二人は僅かに肩の触れ合う距離で、静かにただ外を眺めている。
普段とは少し、その間に流れる空気は違っているように思われた。
それに二人が気付いていたかは分からない。
その言葉は、彼女の心が内向きになっていたからなのかもしれないし、さっきの彼女の言葉とは裏腹に、やっぱり彼女が酔っていたからなのかもしれない。
やがて薄く開かれたなまえの唇は、リヴァイを少なからず、驚かせた。

「――――私は、あなた方のことも、あなたのことも、よく知りません。・・・そちらに赴任してそれなりに時間も経ちましたけど、あなたがどんな人か、私はよく分かっていません」

何が言いたかったかなんて、なまえ自身も分かっていなかったのだろう。
現に彼女はそう言ったきり、次の言葉を探そうとしているようには見えない。
表情の乏しいリヴァイは少し目を見開き彼女を見つめた後、口を開いた。

「・・・お前にしちゃ、珍しいことを言うな――――まるで俺のことを、知りたいみたいに」

彼女の横顔は小さく沈黙を作る。
言葉を探した後、彼女は答えた。

「・・・分かりません。あなたのことは、出会った時から今でもやっぱり苦手です――――でも、」

なまえは両手で包んでいたグラスを、親指できゅっと擦った。
そして初めてリヴァイに顔を向ける。
その真っ直ぐな瞳は、照らされる明かりの柔らかさからか、熱と艶を帯びているように見えた。

「でも、私がそんなことを言ったら・・・おかしいですか?」

その瞳が向けられるのと同じように、彼もまた、彼女をじっと見つめる。
二人の周りだけ、静かな店内の音がまた一段と絞られ、遠くなったような気がした。

「・・・・・・ああ、おかしいな。だが、」

そう言うと、リヴァイの片腕はなまえの後ろを通って、そのすぐ横にある壁に、徐につけられる。
近付いた二人の距離にも、いつものようにたじろぐことなく、なまえは変わらず彼を見つめていた。
やがてリヴァイの唇が、すうっと、彼女に近付いてくる。
店内に背中を向けていたのもあったかもしれないが、人目も憚らず二人がくちづけをしたのは、初めての事だ。

二人の唇が触れる寸前、悪くない、とリヴァイは静かに言った。



さっきまでは上から眺めていた人混みを、二人で歩く。
なまえは半歩前を歩くリヴァイの背中を、今までに感じたことのない気持ちで見つめていた。
店内でキスを交わした後、二人はまた黙り、特に何かを話すでもなくグラスを傾けていた。
さっきから自分の心の中に居座り続ける上手く説明のできない感情を、今も彼女は持て余しているように感じる。
多分それはリヴァイに関係している事は間違いないのだけど、それが一体どういう感情なのか、なまえには分からない。
けれど彼女は、それをリヴァイに尋ねたり、伝えるつもりはなかったようだ。
やがてホテルに着きカウンターから預けていた彼女の旅行鞄と部屋の鍵を受け取ると、なまえはおやすみなさい、とリヴァイに簡単に背を向けた。

「!」

後ろから急に手を引かれ、なまえは歩みだそうとした足をやや強引に止められる。

「待てよ」

振り向くとリヴァイは、さっきバーで彼女を見つめていた時と同じ瞳でなまえの腕を捕まえていた。

「――――なまえ。お前は今日、俺の恋人のはずだ・・・違うか?」

このホテルに泊まる客たちが夜の街の香りをいっぱいに持ち帰り賑やかに行き交うまばゆいロビーの真ん中、なまえの瞳にはリヴァイだけが映り、揺れた。


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