兵長と守銭奴/6
先に着替え終わったリヴァイはドアに挟んでいたテーブルをどかし、入り口に立ってもう一度部屋を見回した。
片手にはちゃんと、ペトラとオルオと苦労して作った資料が握られている。
―――本当に奇妙な、気味の悪い部屋だった。
ここで今夜二人に起こった全てのことは、恐らく誰にも理解されないだろうし、永遠に謎のままだろう。
深い色のその瞳にリヴァイが一通りこの部屋の景色を映し終えた時、お待たせしました、となまえが彼に静かに近寄った。
「・・・忘れ物はねぇな」
「・・・はい」
ドアから手を離すと、リヴァイは彼女を先に部屋の外に出るよう促した。
部屋を出る瞬間、なまえは振り返って、もう一度だけ、部屋の中を見渡した。
まるで、もう二度とここに辿り着くことがないことを分かっているかのように。
部屋の外に出てほっとした様子のなまえを確認すると、リヴァイはもう一度部屋の中を見回した。
すると、小さな違和感を感じる。
それはどうやら、テーブルの上にある物によってもたらされているようだった。
(・・・どういうことだ)
さっきまで、テーブルの上には何も置かれていなかったはずだ。
彼がテーブルをどけてなまえが今この部屋を出るまでの間に、それが突然現れたというのだろうか。
部屋に差し込む月明かりは、一筋にそれを差しているように思えた。
濡れるように光る濃い紫のビロードに覆われているそれからは、少し、その脚と台座が覗いている。
それが支えているのは大体、人の頭より一回り大きいくらいの楕円の、板のように平べったいものに思えた。
ひょっとしたらリヴァイにはそれが何であるのか、分かっていたのかもしれない。
引き寄せられるようにそれに近付くと、リヴァイはそのビロードを、ゆっくりと、持ち上げた。
僅かに見えていた台座と脚がその姿をゆっくりと現していく。
「!」
やがてその本体に差し掛かると、リヴァイの目には繊細な細工の施された枠と、それに大人しく嵌まっている、磨かれた金属のようにぴかぴかとした、滑らかなその表面の端が映った。
ぴた、と一瞬手を止めた後、やはり全くその表情を変えないリヴァイは、それを覆い隠していたビロードをすっかり捲り上げる。
――――姿を現した妖しく光るその銀盤から、“顔”が覗く。
それはまるで、リヴァイを待ちわびていたかのように、彼の目を真っ直ぐ、見つめていた。
「――――――・・・・・・」
「・・・リヴァイ兵士長?」
息を飲みビロードを捲り上げたまま立ち尽くしていたリヴァイはなまえにその名を呼ばれはっとすると、持ち上げていた布をさっと下ろした。
「・・・何でもねぇ・・・さっさと行くぞ」
訳の分からないことが一通り起こった後だから、仕方ない。
ドアに手を掛けたまま、なまえは不安そうな面持ちで彼を見つめている。
振り向くと、リヴァイは彼女の顔を確認するように見つめると、何事も無かったかのように、部屋を出た。
ドアが閉じられていく間、徐々にその姿を扉に隠していく部屋の内部を、二人はただ黙り、見つめた。
ガチャ、と、“いかにも普通”なドアの閉まる音がする。
ほんの一刻、その奇妙な柄のドアを眺めてから、二人はそこから離れ、歩きだした。
「――――見ろ」
階段を降りようとしたとき、リヴァイの声になまえは初めてそのドアを振り返った。
あの部屋に対する言い知れない恐怖が彼女を支配して、それを振り返るのを拒んでいたからだった。
「・・・・・・!」
なまえは驚き、目を見開いた。
そこにはただ、いつも通りの、見慣れた本部の愛想のない、堅苦しい造りの廊下が続いている。
あの奇妙な部屋のドアはすっかり、その姿を消していた。
「お前のせいで本当にえらい目に遭った」
無事に渡した書類は、さすがに明日見ることにしたらしい。
リヴァイとなまえは、彼女の家へと2つの影を並べて歩いていた。
本当に拍子抜けする程穏やかな夜だ。
「オレがいなければどうなってたと思う」
フン、とリヴァイは鼻を鳴らした。
彼からすればいつもの憎まれ口に過ぎなかったたかもしれないが、なまえは確かにそうかもしれない、と思った。
未だに、自分が何故あの部屋に引き寄せられてしまったかは分からない。
そしてあの部屋の謎も、何故二人が部屋を出られるようになったのかも。
何もかも分からないことだらけだし、考えても仕方ないことだというのも、非現実的な、非科学的なことを嫌う彼女にもよく分かっていた。
「お前のせいで、オレは今ひどく疲れてる・・・お前の立派な家で休憩させろよ、守銭奴」
彼女の立派なアパートの前に着くとリヴァイが懲りもせずお決まりの台詞を言ったので、なまえはぐったりとした身体に憚らず辟易とした表情を浮かべた。
「・・・今日は本当にご迷惑をお掛けしてしまったみたいで・・・すみませんでした。本当に感謝しています。ただ今日は生憎お茶が切れてますので、残念ですがどうぞお引き取り下さい。大変お疲れのところわざわざお送り下さってありがとうございました。では、!」
さっと身を翻しその場から逃げだそうとしたなまえは、その腕をリヴァイに掴まれバランスを崩す。
あっという間に彼女は、リヴァイの小柄ながらもたくましいその胸の中に収まっていた。
「おい、なまえ・・・そのうちまたあの部屋に連れていってくれよ。そしたらまためちゃくちゃエロい顔したお前が、今夜みたいにめちゃくちゃエロい事を沢山させてくれるんだろ?」
「―――!!!!!」
彼女のつれない態度への仕返しとばかりに耳に息を吹き掛けるようにリヴァイに囁かれたその言葉で、なまえは一瞬で全身の毛が逆立ち、身体は棒にでもなったかのように硬直する。
リヴァイは彼女を抱きしめていたその腕を少し緩めると、やがて現れた、真っ赤に固まったその顔に、構わず唇を重ねた。
「まだそんな話してんのかァ」
最近めっきりその話ばかりを聞かされているらしいオルオは、もう勘弁してくれよ、と言わんばかりの情けない顔でペトラを見た。
リヴァイの執務室では昨日苦労して作った資料にまたもされてしまった(リヴァイが言うには)底意地の悪い、“恩知らず”な駄目出しに則っての、修正作業が終わったところだった。
部屋の主は、彼の体に合わせたような、コンパクトでも立派な机にどっかりと掛けている。
今日も快晴だ。
春らしい穏やかな日差しが部屋に差し込んでくる。
あまり続きを聞きたく無さそうなオルオの表情にも、ペトラはまだ話を止めようとしない。
どうやら彼女はまた、“例の部屋”についての新しい情報を手に入れたらしかった。
「だから、よく聞きなさいよ。運命の部屋から与えられる試練って、その人がこの世で一番恐れているものなんだって!」
それを乗り越えられなきゃ鏡が現れないワケよ、とペトラは教師のように説明を続けた。
作業をしていたセンターテーブルで熱心に話を続けるペトラを見つめながら、リヴァイは小さくため息をついた。
「私だったら何が起こるのかしら・・・」
ねぇ、と彼女に返事を要求されても、オルオは回答に困って苦虫を噛み潰したような顔をしている。
目の前の二人のやりとりに、何食わぬ顔で使い終わったペンやインクを仕舞おうと引き出しを開けた時、リヴァイはぴた、と動きを止めた。
そこには最近彼に送られてきたいくつもの美しい封筒が入れられている。
そのどれもに、この間エルヴィンから受け取った手紙と同様、女性らしい、繊細なサインが書かれていた。
「でもやっぱり見たいな、私の運命の人の顔!」
――――運命。
運命というのは、一体何なのだろう。
それが、あの顔なのか。
引き出しに閉じ込められているその封筒たちは、どれもリヴァイに答えを求めてすがるような顔をしている。
彼らをじっと見つめた後、リヴァイは静かに、その引き出しを閉めた。
「おい、ペトラ・・・雷みてぇなしょうもないもんがお前の恐れてるものじゃなきゃ、その気味の悪い部屋を探すのは止めておけ」
「は・・・兵長?」
ペトラはきょとんと大きな瞳を丸くする。
そう言ったきり、リヴァイはティーカップを傾け、視線を窓の外に移した。
(・・・あいつの“それ”が雷か。とことん羨ましい、脳天気で平和な頭だ)
少し渋くなった紅茶を彼はゆっくりと味わう。
それを飲み干したら、直した資料を“あいつ”に持って行かなくてはいけない。
(まさか、オレじゃねぇだろうな)
――――それは彼女に確かめることにしようか。
リヴァイはカチャリとソーサに音を立ててティーカップを置くと、資料を手に立ち上がった。
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