兵長と守銭奴/6


コツ・・・コツ・・・とゆっくりとした覚束ない足音が、仄かに紫がかった灰色の、薄暗い、石造りの廊下に響く。
どこか虚ろな瞳には、いつもの彼女の凛とした輝きがない。
あるドアの前で彼女は立ち止まると、何かに操られるように、そのドアノブに手を伸ばし始める。
この調査兵団本部の中でそのドアがいかに異質な物であるかは、ここに来て1年と経たない彼女でもよく分かるはずだ。いかにも古めかしい、本部の一様に四角いドアたちとは違うアーチ状の、奇妙な細工の施されたドアだった。
琥珀に毒々しい赤色を閉じ込めたようなそのドアノブに、彼女の細い指が触れそうになった時―――――

「!」

虚ろに開けられていた彼女の目は、はっと何かから目覚めたように大きく見開かれた。

一体何故、私はここにいるのだろう。
ここは一体本部のどこなのだろう。

彼女が迷子のような気になったのも仕方ない。
ビジネスライクそのものの彼女は、自分の必要な範囲でしかこの本部の中を歩いたことが無いのだから。
驚きの表情をすぐに消して眉を顰め首を傾げると、彼女は自室に戻ろうと踵を返し、どちらがその方角なのだろうときょろきょろと周りを見渡した。

彼女がはっと気付いた時、“それ”に触れそうだったはずの彼女の右手の前には、そして“それ”の前に立ち止まったはずの彼女の目の前には、ただ、本部の他と全く変わらない石造りの壁が、あるだけだった。



「・・・っていう話があるんですけど、ご存知ないですか?団長、兵長」

そう言うとペトラがその大きく可憐な瞳をキラキラと輝かせたので、エルヴィンは苦笑した。
打ち合わせが終わったばかりのエルヴィンとリヴァイが彼らの間に置かれた机に書類を置いたタイミングで、傍らでうずうずとしていたペトラが兵士の間で実しやかに流れているらしい噂を話し始めたのだ。

「運命の部屋って呼ばれてて・・・その部屋にはなかなか辿り着けないんです。で、中には布で覆われた鏡があって、大きな試練を乗り越えた後、それを捲ると・・・」
「自分の運命の相手の顔が見られるのか」

エルヴィンは小さく吹きだしながら、彼女の言葉を先取りして答えた。
そうなんです!とペトラが興奮気味に答えたので、彼は笑う。
思えば何度もそうした噂を聞いたことがある。
若い兵士の間では定期的にそういうオカルトじみた噂が話題になるなとエルヴィンは思った。

「男女で探すと見付かりやすいって話もあるんです。ただ、恋人がいる兵士にとっては実はその鏡は曲者みたいで・・・大抵違う人が映るらしいんですよ。だからその鏡を見ると、大抵恋人と別れちゃうっていうんです」
「へぇ・・・それは面白いな」
「だからその部屋は、恋人の仲を裂こうとする、悲恋の末に悲しい死を遂げた恋人たちの呪いで作られたんじゃないかって言われてるんです!」
「・・・よくもまぁそんな下らねぇ話を作り上げられるもんだ」
「でも、兵長!昔本当に見たっていう兵士もいるらしいんですよ。だから、お二人ならその部屋がどこにあるか、ご存知ないかなって・・・」

小さな唇を尖らせて、ペトラはおねだり顔でエルヴィンとリヴァイを交互に見る。
リヴァイは小さくため息をつき、エルヴィンは苦笑した。

「残念だけど、ペトラ。長くここにいるから似たような噂を聞いたことはあるけど、私達はからきしそうしたことには不見識でね。少なくとも私は見たことがないな」

そうですか、と残念そうにペトラは頭を垂れる。
すぐに顔を上げいつもの凛として可愛らしい笑顔を作ると、リヴァイに頼まれた書類を手渡し、一礼をすると部屋を後にした。

「若い兵士の間では同じことが繰り返されるんだな。同じような噂話が話題になり、やがて消え、時を隔ててまた話題になる」

エルヴィンは背もたれから体を起こすと、リヴァイの目の前に封筒を差し出した。
もう何度か手にしたことのある、見覚えのある、立派な封筒。
内地から帰って来たばかりのエルヴィンが差し出したそれが誰からの物なのか、リヴァイにはすぐに分かった。

「“お姫様”からまたラブレターを預かってきたよ。どうするんだ?お前にとっても悪い話じゃないはずだが。お前こそ、ペトラの言っていた鏡を探す必要があるんじゃないか」

ニヤリと笑うエルヴィンに、リヴァイは舌打ちをしながらそれを受け取る。
封筒の裏に書かれている繊細で女性らしいサインを、リヴァイは静かに眺めた。

「話は以上だ。私はこれを持って、今からなまえと打ち合わせをしなきゃならない・・・そうだな、私はなまえとその鏡を探してみようか」
「好きにしろ・・・もしお前がそれを見つけてあのクソ守銭奴が鏡に映っちまったら、盛大に祝ってやるよ。ご愁傷様ってな」
「そうか。それはありがとう、リヴァイ」

書類を手に立ち上がりニコリと笑うと、エルヴィンはリヴァイに軽く手を上げ、部屋を後にした。
バタン、とドアが閉まる。
急にガランとしたように感じられる部屋に一人残されたリヴァイはエルヴィンから受け取った封筒を机の上に置くと、組んでいた足を重たそうに組み替え、窓の外を眺めた。



「なまえ?」

ノックしても反応がなかったことを不審に思ったエルヴィンは、様子を窺うようにゆっくりとドアを開け、部屋の主の名前を呼んだ。
資料を手に本棚の前でぼんやりとした表情浮かべ立っていたなまえは、彼の声にはっとしてエルヴィンを振り返る。

「すまない。ノックをしたんだが、反応が無かったから――――」
「い・・・いえ。こちらこそすみません、エルヴィン団長。帰っていらしたんですね」

あぁ、と穏やかに答えると、エルヴィンは彼女に促され、ソファに掛けた。

「珍しいね、君がぼんやりしているなんて。疲れてるんじゃないか?」
「いえ、そんなこと・・・。エルヴィン団長こそお疲れなんじゃないですか。中央まで短い日程で行かれて大変でしたね」

なまえはエルヴィンから分厚い書類の束を受け取ると、彼を労った。

「いや、こんなことはざらにある。大したことじゃないよ。壁外調査よりずっとマシさ」

彼女にとってはなかなか返事のしにくいジョークだ。
そうですか、となまえはぎこちなく笑い、受け取った書類に目を通し始めた。
パラ・・・といつものように、素早く、でもしっかりと、内容を精査していく。
伏せられた睫から覗く彼女の瞳が熱心に書類に向けられているのを眺めて、エルヴィンは小さく微笑んだ。

「ざっと拝見したところ、それぞれをいくつかに区切って検討していく必要があるかと思います。2日頂けますか」
「ああ、分かった。頼んだよ。できればお手柔らかに」

エルヴィンは立ち上がると、ドアノブに手を掛けた。
ドアを開けたとき、彼は自分を見送ろうと後ろに佇むなまえを振り返る。
そうだ、と彼女に話しかけた。

「なまえ、近々食事に行かないか。以前誘った時は私が急用で行けなくなって、約束に反して君とリヴァイ二人にしてしまったからね」

間近で彼の真っ青な瞳に見つめられて、なまえはドキ、と僅かに硬直した。
いつからだろう。その穏やかな笑顔を間近に向けられると、彼女は弱い。
きっと大多数の女性だってそうだろう。
けれど、他でもない彼女が異性に対してそうした反応をしてしまうのは、とても珍しいことで。

「随分経ってしまったけど、パーティで世話になったお礼もしたい」
「それなら気になさらないで下さい。あなた方からお礼をされるようなことをしたかと思うと、そちらの方が気になりますから」

君らしいな、とエルヴィンは笑った。

「それなら、個人的に君と食事をしたいと言えばいいかな。私は未練たらしい男でね・・・パーティの日、折角君からお茶のお誘いを貰ったのに断らざるを得なかったことを、未だに残念に思っているんだ。都合のつきそうな日にちを選んで、また誘わせてもらうよ。じゃあ」

彼独特の、柔らかに見えて貫禄のある、落ち着いた笑顔に細められた瞳を彼女に残しながら、エルヴィンは静かに彼女の部屋のドアを閉めた。
調査兵団に赴任してからしばらく経ち以前よりは彼らとの関係も近くなったように思えるけれど、彼女は自分の職務上、それを良いこととは思っていない。
それが分かっていて、エルヴィンは自分との距離を縮めようとしている。
間違いなくそれは彼らに利することだからだろうし、彼がなまえに個人的な興味があるからかもしれない。
物腰柔らかに見えても、いつだって彼は最終的には必ず自分の主張を上手く通す。

なまえはエルヴィンが去っていったドアを見つめたまま、小さくため息をついた。


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