兵長と守銭奴/4
「・・・これ、使ってください」
井戸で手を洗ったリヴァイに、なまえはクラッチバックから取り出したハンカチを差し出した。
ふちには少しだけレースが施されている。
「ああ・・・」
リヴァイはそれを受け取ると、手を拭き、彼女に差し出した。
「お持ちになってください。その代わり、リヴァイ兵士長のハンカチを私に貸していただけますか?」
「・・・別に構わねぇよ、そんなことは」
なまえの意図することが分かったので、彼はそう答えた。
「洗濯してお返しします。いくらなんでも私の足を拭いていただいて、そのままだなんて」
彼女を見つめたままリヴァイは黙っていたが、彼女が差し出した手を引っ込めないので、仕方なくポケットに入れていた自身のハンカチを差し出した。
代わりに彼女のハンカチをポケットに入れる。
「行くぞ、歩けるか?」
リヴァイは顎をくいっと大広間の方へ向けなまえに半身になると、左腕を軽く曲げ彼女を見た。
「・・・・・・はい」
はっとしたようにその女性らしいラインの肩を上げた後、なまえは自分を誘う彼の左腕へと手を添えた。
リヴァイの体温が添えた手から伝わってきたので、彼女はその体温を噛み締めるようにしっかりとその腕を握った。
大広間までの道を、ゆっくりとした足取りで二人で歩く。
辺りにはカツ、カツと二人の足音だけが響いている。
やはり二人は何も話しはしなかったけれど、なまえはそれをもう居心地が悪いとは感じなかった。
「先に行け」
大広間に近付いたときリヴァイがただ一言、そう告げた。
会場に入っていくとき、彼と一緒では具合が悪いと思っていたのは自分だけではなかったのだと、なまえは小さく返事をすると、するりと彼の左腕に添えていた右腕をほどき、建物の中へと入っていった。
にぎやかな明かりの漏れる扉の中へ入っていく彼女の滑らかな背中を見送りながら、リヴァイは静かにため息をついた。
会場に戻るとなまえは後ろめたい気持ちにどきどきとしながら、入り口でグラスを受け取り中を見回した。
自分の中ではかなり時間が経ってしまったように感じていたけれど、先程とは殆ど変わらない会場の様子を見る限り、自分が感じていたほどは時間が進んでいないようだった。
中へ進みどの辺りに身を置こうかと考えながら、自分を落ち着かせるようにグラスに口をつける。
こく、と酒が自分の喉を通っていったとき声を掛けられ、なまえは驚きに身体を大きくびくつかせた。
「ああ、ごめん。なまえ、リヴァイを知らない?」
後ろから声を掛けてきたハンジはごめんごめんとむせて苦しむなまえの背中を叩き、身に纏っているとてもシックで優雅なドレスとは裏腹に、いつもと同じ気取らない笑顔を浮かべた。
なまえは声を掛けられたことに驚いたばかりか、今一番聞かれたくない人物の所在を尋ねられて目を白黒とさせた。
「リヴァイ兵士長ですか?」
一体何と答えよう。
平静を装ってオウム返しをしてみたものの、良い答えが浮かばない。
「そうなんだ。彼と話をしたいってゲストが山ほどいてね。ほら、何しろ彼って有名人だろ?さっきから見当たらないものだから」
なるほど確かに彼はこの調査兵団では一番の有名人であるかもしれない。
何しろ彼は人類最強と謳われる兵士らしいのだから。
考えてみれば彼に対しては何かの紹介をしてやるまでもなく、有力者たちの方から彼に寄って行くだろう。
「ああ、リヴァイ。噂をすれば、だね」
「・・・何の噂だ」
ぎょっとして後ろを振り返ると、リヴァイが全くいつもと変わらぬ仏頂面で立っていた。
「君がいないからゲストたちがさびしがっていたよ。君と話がしたいんだって」
リヴァイは面倒くさそうにチッと舌打ちをすると、どっちだとハンジに尋ね、彼女と一緒に彼を待ちわびているゲストたちの方へと歩いていった。
何事もなかったかのようないつもの仏頂面を浮かべていられる彼に、なまえは今日ばかりは妙に感心をしてしまった。
遠くにエルヴィンを見つけたなまえは先程と変わらずできている彼の周りの輪を眺めてみると、そこにいる人々が先程の面々とは少しずつ変わっていることに安堵した。
自分のいない間でも、エルヴィンは変わらず上手くゲストを回しながら挨拶ができていたようだ。
彼がにこやかにゲストたちと話している姿を見ていると、パーティー中になんてことをしてしまったのだろうという罪悪感が益々強くなっていき、強い自己嫌悪が彼女を苦しめた。
「やぁ、みょうじくん。相変わらず美しい。君がいなくなってフォン・マイヤーくんが寂しがっていたよ」
よく知る顔に声を掛けられ、なまえは振り返った。
マイヤーというのは彼女の上司で、エルヴィンがこのパーティーになまえを参加させてもいいかと相談した相手だ。
「お久しぶりです」
手持ち無沙汰に感じていたところにちょうどいい話し相手が現れたと、彼女は快く彼に応対をした。
彼と話しているうちにまた彼女の周りには小さな輪ができ、やがて近くにいたエルヴィンも合流して、その後の時間をにぎやかに過ごした。
不在の時間の償いをするように、彼女はなるべくエルヴィンのサポートをしながら。
「今日は長い時間本当にすまなかったね。疲れただろう?」
すべてのゲストを見送った後でなまえを家まで送り届けてくれたエルヴィンは、彼女の部屋のドアの前で彼女を気遣った。
会場に戻ってからはずっと休憩なしで立ちっぱなしだったけれど、彼を待っている間はたっぷりとソファに掛けて座っていたので足は随分楽になっていた。
パーティーが終わって時間が経つというのに、酒を飲んだ彼の顔は少し上気したままだ。
彼は今日のパーティーが上手くいったことへの充実感とほろ酔い具合で上機嫌なようで、彼女を送る道中、その態度はいつもよりも少し人懐っこいように感じられた。
「い、いえ・・・途中、少し休ませて頂きましたので」
せっかく少し忘れていたのに、小さな罪悪感がまた彼女の中に蘇ってくる。
「そうか、それなら良かった。自分のことに手一杯で、君のことを全く気遣ってやれなかったから」
エルヴィンの凛々しくにこやかな顔にあてられて少し戸惑い、いえ、となまえは返事をした。
彼はもう一度彼女に微笑みかけると、それじゃあというように会釈をした。
「――――あの、エルヴィン団長。・・・良かったら、“部屋に上がってお茶でも”・・・?」
思いがけない彼女の言葉に、エルヴィンは驚いたように振り返った。
「・・・ありがとう、なまえ。残念だけれど、これからまだ本部に戻らなければいけないから。・・・またの機会に、期待してもいいかな・・・?」
彼の穏やかな語り口とは裏腹に、その言葉はなまえの心臓をどきりとさせる。
何も言えずに黙っていると、エルヴィンは彼女に真っ直ぐに向き直った。
「もう、何度目かのお礼だけれど――――なまえ、今日は本当にありがとう。君がいてくれて心強かった。それに、“むさくるしい”会場に華を添えてくれてありがとう」
ああ、ゲルグの言葉を聞いていたんだった、となまえは目を丸くして、二人はふっと、互い顔を見合わせて笑った。
「いえ、私は何も―――――」
「それに、美しい君をエスコートさせてもらえて光栄だったよ」
彼の大きな手が彼女の肩にそっと降りてきて、なまえが戸惑う一瞬のうちに、彼女の頬にエルヴィンの口づけがふわりとされた。
「!」
「・・・おやすみ」
「おやすみ・・・、なさい・・・」
顔と手をゆっくり離しなまえを見つめ目を細めると、エルヴィンはそのままその場を後にした。
カツカツと、彼の足音が廊下に響いていく。
たくましい彼の大きな背中を見つめながら、なまえは片手でエルヴィンにキスをされた頬に触れたまま、立ち尽くしていた。
顔が熱くて、胸はどきどきと音を立てている。
(・・・そうか、エルヴィン団長はどことなく似てるんだ・・・、“あの人”に)
やがて階段を下りて彼の姿が見えなくなっても、なまえはドアの前に佇んでいた。
(―――――初めて会った時に思った、“あの人”に似てるって―――――)
はぁ、となまえは部屋中に聞こえるほどの大きなため息をついた。
財務官室の3人掛けのソファには、エルヴィンとリヴァイが腰掛けている。
向かいに座るなまえは眉間に深く皺を寄せて、彼らの出した予算申請書を机に置いた。
「全然なってません。やり直してください」
エルヴィンは彼女もリヴァイとやりあううちに似てきたかなと苦笑いを浮かべ、なまえからリヴァイへと視線を移した。
「ほらな、言っただろう、エルヴィン。こいつに機嫌取りなど意味はないと」
「リヴァイ兵士長は黙っていてください。これはあなたとお話しするまでもないようなレベルのお話です」
「・・・黙って聞いてりゃ偉そうな口を利きやがる、クソ守銭奴が。そのまま貴様の小生意気なケツに書類を叩き返してやろうか」
「!!!!」
なまえは一瞬で顔を真っ青にした後、「あなたって本当に最低です!」と、いつもの声を上げた。
エルヴィンは笑って肩をすくめると、机の上に置かれた書類を仕方なく手に取った。
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