触れただけの唇を離すと、いつも通り穏やかな彼の顔が次第に現れる。 この瞬間が、なまえは一番苦手だ。 「おやすみなさい」と呟くと、エルヴィンはにこやかな顔のまま「おやすみ」と返した。 極力廊下に音が響かないようドアを閉めると、なまえは辺りに人がいないことを確認してから一つため息をつく。 窓から差す月明かりが、頼りなく身体を支える足下を照らした。 そもそもこうして就寝前にエルヴィンの部屋をこっそり訪ねるようになったのは、彼に借りた本を返しに行ったあの夜以来のことだ。 絶版となり入手困難であるその本を彼が持っていると知った時、なまえは考えるよりも先に、それを貸して下さいと彼にお願いをしていた。 期待通り素晴らしかったです。本当にありがとうございました。今度何かお礼をさせて下さい―――――読後昂ぶる感動そのままに興奮気味の彼女がそう話したところ、エルヴィンは意味ありげに微笑んだ。 「それじゃあなまえ、君におやすみのキスをしてほしい」 夜着を纏っていたエルヴィンは確かに就寝前であったことは間違いない。 一瞬面食らった後、なまえはええと、と彼の真意を推し量るようにその表情を窺った。 やっぱり彼は、穏やかに口角を上げている。 自分は不眠症なのだと彼は言った。 「おやすみのキスをしてもらうと、不思議と眠れるんだ」 なまえは彼の言っていることがよく分からなかった。 拒否だってできたはずなのに、何故かは分からない。これから何かとても悪いことをさせられるような気がして胸が騒ぎどきどきとしてたまらないのに、彼女の足は、エルヴィンの真っ青な瞳に操られるように、彼に近付いていく。 間近に向かい合ったエルヴィンは目を細めると、なまえの親指よりも太い彼の人差し指をゆっくりと持ち上げ、自らの唇を指した。 “唇に”――――――、おやすみのキスを。 彼の人差し指が示す要求を理解して、なまえはかっと頬を赤らめた。 戸惑う様子の彼女に構わず、エルヴィンは瞳を閉じる。 これは、確信犯だ。 唇へのキスというのは、普通、恋人同士でするはずのものだ。 けれどどうやら、彼にとってはそうではないらしい。 恋人でもない自分に、こんなにも簡単にそれを頼んでくるだなんて。 目を綴じキスを待つ彼の顔を迷いながらしばらく見つめた後、なまえは彼の様子を窺いながら、ゆっくりと、顔を近付けていく。 (これは・・・きっと、エルヴィン団長にとって、ただの挨拶なの) 何もやましいことはない。きっとそれをややこしく考える方がどうかしているのだ。 そう言い聞かせながら、なまえはエルヴィンに唇を、重ねた。 1、2、3。 心を静めるよう、できるだけ落ち着いて数えたつもりだ。 分厚い彼の唇は弾力があって、触れるうちに彼女の唇へじわりと彼の体温を伝える。 それが目の前にある彼の存在とこの口づけを、妙にリアルに感じさせた。 唇を離すとエルヴィンはただの挨拶をしただけのようないかにも穏やかな顔で、「おやすみ」と言った。 (どうして言うことを聞いちゃったんだろう) キス、それも、唇へのキスというのはハードルが高いもののはずだ。 こんなに簡単に恋人でもない他人とするものではないはずだ。 なまえはエルヴィンの意図を量りかねていたし、また、自分が何故そんな彼の突拍子も無い要求を簡単に受け入れてしまったのかも、よく分からなかった。 おはよう。昨夜は君のおかげでよく眠れたよ。今夜もお願いできるかな――――――翌朝顔を合わせたエルヴィンは何のやましいことも無いかのように、にこやかになまえ話し掛けた。 何でその時、「あ、はい」なんて返事をしてしまったのだろう。そうして彼女には、毎晩こっそりエルヴィンの部屋を訪ねては、触れるだけの“おやすみのキス”をして帰る――――という奇妙な決まりができてしまった。 毎晩彼の部屋を訪れる度、これはただの挨拶なのだと自分に言い聞かせる。 日を重ねていくにつれなまえは、常人では務まるはずのない調査兵団団長、恐ろしく頭が切れる底知れない人物であるエルヴィンを、元より理解できる訳ないのだ、と思うことにした。 「最近あまり良くない噂を聞くんだけど」と正義感の強い友人の1人が彼女に言ったのは、おかしな夜の習慣ができてから2ヶ月程経った頃のことだった。 「なまえが夜な夜な団長の寝室に通ってるって。付き合ってるの?団長と」 正義感の強い人物というのは、あまり奥歯に物の詰まったような言い方をすることをしない。 つまり、本題を直球で投げかけてくることが多い。 いつだってそれは、彼らにとっての、相手への思いやりなのだ。 しかしそれは問いかけられた本人にとって本当にありがたいことなのかどうかとは全く別の問題だ。 突然の問いに絶句した後、なまえは「違うよ」と答えた。 でも、毎晩団長の部屋に行っているのは本当でしょ?と友人はいとも簡単に問う。 なまえは答えることが、できなかった。 「何だか浮かない顔をしてるな。何かあったのか?」 ごく普通にそう尋ねたエルヴィンに、なまえは恨み言の一つでも言ってやりたくなった。 友人に流れているらしい悪い噂の話を聞いた後、彼女は気が気でなく、ひょっとしたら調査兵団の兵士達全員が自分を監視しているのではないかとすら思えてきて、人の目に自分を晒すことに恐怖すら感じるようになってしまった。 エルヴィンにとっては何もやましいことではないのかもしれないし、事実そう思っているのだろうと思って、自分もそう思おうとしてきた。 けれど実際彼女にとってそれは、とてもやましいことだった。 恋人でもない異性、それも、自分の上官であるエルヴィンと、彼の部屋に夜な夜な通い、キスをするだなんて。 それでも今夜も彼の部屋に来てしまった自分が悲しい。 ――――そう、誰にも知られずこんなことを毎晩繰り返すことができるわけなかったのだ。こんなにも狭いこの調査兵団の中で。 「噂が流れているみたいなんです。私が毎晩エルヴィン団長の部屋に通っているんだって・・・」 エルヴィンは目を丸くした後顎に手をやり、そうか、とだけ言った。 そうかって・・・、となまえは眉間に皺を寄せた。信じられない、という風に。 彼がなまえの言葉にまありショックを感じていないように思えたからだった。 「きっとあることないこと面白おかしく言われてるんだと思います。みんなに噂されて何とも思わないんですか?エルヴィン団長は・・・」 思わない、とエルヴィンが答えたので、なまえは憤慨した。 そして、彼女にしては強い口調で言った。 「私は思います。だからもうここには来ません。おやすみのキスなら、恋人にしてもらってください」 「・・・そうか、困ったな」 困ったという割には彼はあまり困ったという表情をしていないものだから、なまえはますます苛々として、これ以上彼と話をするのがすっかり嫌になってしまった。 何故自分だけが悩まなくてはいけないのかと。 「私も困ります。エルヴィン団長の感覚はよく分かりませんけど、ああいうのは普通恋人同士でするものだと思います」 これ以上の長居は無用。失礼します、と彼女はエルヴィンに背を向ける。 エルヴィンは急ぎ去ろうとしたなまえの手を掴んで、振り向かせた。 「なまえ。何故私が君におやすみのキスを頼んだか、興味は無いか」 怪訝な表情を浮かべて、なまえはエルヴィンを見上げる。 ――――この期に及んで彼は何て質問をするんだろう。本を借りたお礼に頼まれた“おやすみのキス”然り、彼はとことん理解のできない、異質な存在であるように感じられた。 「エルヴィン団長が、不眠症だからキスをしてくれとおっしゃいました」 むっとして答えた彼女に、エルヴィンは笑った。 「嘘だ」 「・・・は?」 「嘘だよ、なまえ。私が不眠症だなんていうのは」 なまえは開いた口が塞がらない。 何と言ってやろうかと口をぱくぱくと動かすうちに、エルヴィンはまた笑い、続けた。 「ただ君にキスをしてほしかっただけだ」 目を見開くと、悪態の一つでもついてやろうとしていたなまえは一体何を言えばいいのか、全く分からなくなってしまった。 初めてエルヴィンに唇へのキスを要求された時の様に、彼女の顔は真っ赤に染まる。 分かりやすく動揺するなまえを慈しむように、エルヴィンは目を細めた。 「さっきの君の話は、君が恋人なら毎日キスをしてもいいという風に聞こえたんだが」 「え、あ・・・?」 エルヴィンは掴んでいた彼女の手を持ち上げると、いかにも愛おしそうに、そこへキスをした。 「―――――願っても無いことだな。毎日君にキスをしてもらえるだけで幸せを感じていたのに、その上君を独り占めできる権利まで貰えるだなんて」 それから彼はなまえにキスをOKしてもらっただけで満足で、恋人になってもらいたいだなんてお願いをすることは考えもしなかった、というようなことを話した。 なまえの顔は炎のように真っ赤になって、何か言わなければと口は動かされるのだけど、何の声も、何の文字も、出てこない。 これ以上無い程動揺している様子のなまえにも極めて普通に、極めて穏やかに、「私の恋人になってくれるかな」とエルヴィンは言った。 彼のやること、言っていること、全く分からない。 全く予測の付かない、行動、展開、言葉。 思慮深い彼女の人生で他者にこんなにも驚かされたことはない。 彼女の心臓はエルヴィンのせいで、飛び出そうな程ドキドキとしている。 口づけられる自分の手と穏やかに微笑む彼の大きな瞳を見比べ、なまえはやっぱりエルヴィンは常人には到底理解できない、と思った。 そうしてなまえはエルヴィンの求愛にしばらく答え倦ねていたのだけど、「君を独り占めしたい」と愛しそうに囁いたエルヴィンにとうとう抗いきれなくなって、最後にはこくりと、つい、頷いてしまった。 *大好きなあなたへお祝いと感謝の気持ちを込めて! back |