いかにも分かりやすく怪しい人影が中庭に一つ、伸びている。
エレンから逃げ出すように息を切らし裏庭を駆け抜けて、中庭の木の陰から、なまえは団長であるエルヴィン・スミスの執務室の扉をじっと見つめていた。
そこにはやがて彼女の友人が清掃の為に訪れるはずだ。
団長であるエルヴィンがミーティングなどで席を外すことの多い午後、彼女の友人は団長室の掃除係を勤めていた。

(女子だし・・・、何かがあってもハンジさんが言ってた最悪なことにはならないはず)

“ハンジの言っていた最悪なこと”とは、なまえ自身の“妊娠”に他ならない。
絶望と苦悩を重ねた果てに、なまえは信頼のおける1人の友人に自分の置かれている状況を打ち明けて人目のつかない場所に移動し、“しるし”の効力が消えるのを時間をかけて待つつもりだった。
どうせ確かな事が分からないのならば、あの上官3人――――ハンジ、リヴァイ、ナナバにおもちゃにされるよりも、ずっとそちらの方が安全で安心できることのように、彼女には思われたからだった。

じっと見張っていた部屋のドアが開き、艶やかな金髪が覗く。
長身の主はドアから出ると、長い足を大股に開き、颯爽と歩いて行った。

固唾を飲んでそれを見送ると、なまえは(よし)と小さなガッツポーズを作る。
一つ大きく息を吸い込むと、主のいなくなった団長室を目がけ、再び走り出した。

(しばらく待っていればきっとあの子が来るはず・・・、そしたら事情を話して、どこかに匿ってもらおう)

団長室の清掃係を任されている彼女の良くできた友人は、毎日エルヴィンが部屋にいない時間を見計らって清掃に来る。
だからしばらくここで待っていれば、必ず彼女がここに現れるはずなのだ。
臆病者の彼女にとって許可も得ず団長室に入るというのはとても気が引けることだが、他の兵士に出くわしてややこしいことになるよりはそちらのリスクを冒す方がずっとマシな事のように感じた。
なまえは音がしないよう慎重に、ごくゆっくりとした動作で団長室のドアを開けると、そろそろとその中へ忍び込んだ。
目の前に広がった風景に、なまえは大きく口を開ける。
広い部屋に、壁一面の大きな本棚。
立派なデスクには書類が所狭しと積まれている。
それらは決して華美なものではないが、そこには彼女が今まで見たことのある本部内のどの部屋よりも荘厳な雰囲気が漂っているように感じられた。
彼女が団長室に足を踏み入れるのは、初めてのことだった。

(・・・ここで、あのエルヴィン団長が仕事をしてるんだ)

それが彼女にとっては滅多に見る機会がないであろう初めて見る光景であること、そしてそこへ勝手に入っているということが、彼女の胸をよりどきどきとさせた。
ただでさえ影の薄い自分の存在などきっと知らないであろうエルヴィンとは殆ど直接の関わりがなかったし、なまえにとっては自分の所属するトップへの敬意という意味でも、彼は遠い存在だった。
この間までの、兵士長であるリヴァイがそうであったのと同じように。

ぽかんと口を開けたまま部屋を見回していた時、ガチャリと力強くドアノブが回る音がした。
そこにあるはずの友人の姿を浮かべなまえが安堵の笑みで振り返ると、そこには、部屋の主―――――エルヴィン・スミスが、立っていた。

「エッ・・・!!」

エルヴィン団長、と言いたかったのだろうが、なまえの口は彼の名前の一文字目を出したきり、声を失ってしまった。
目を見開き動揺している様子の侵入者に、エルヴィンは真昼の空のように青い瞳を丸くする。
その格好から調査兵団の兵士であることは明らかだったが、やはり彼の記憶からは、彼女の姿と完全に一致する部下の姿を浮かべることはできなかった。

(どうして団長が戻って来るの!?さっき出て行ったのは打ち合わせか会議じゃなかったの!?!何でこうなるの!?!!)

いつも通りの不幸に混乱してもきりがない。
ただ彼女は懲りずに、しばらく戻ってこないと踏んでいた部屋の主の出現に、ただただ混乱した。

「す、す、す、すみま、せ・・・!ここのですね、あの、友人の清掃係の・・・、?あっ、いえ、その・・・、すみません、でした!!」

――――エルヴィンには確実に不審がられているに違いない。

何と言って弁解すればいいか分からず口を動かしながら、口から出した言葉の何もかもが中途半端なまま、混乱しきりのなまえは結局それを諦めた。
そしてドアの前に立つエルヴィンの脇を抜けて、この部屋から脱出しようとする。
しかしそれは、簡単に阻まれてしまった。

「―――――どこへ行く?」

さっと逃げだそうとしたなまえの腕を掴まえて、エルヴィンは平素と変わらない様子で彼女にそう尋ねた。
なまえはというと、青ざめた顔で思わず「ひっ」と怯えた声を漏らす。
動揺して視点の定まらない彼女の情けない瞳でも、エルヴィンがなまえを怪しんでいる訳ではないということは分かった。
ただ彼は純粋に、慌てた様子の部下であるらしい女性兵士を前に、不思議そうな表情を浮かべていた。

「何か用事があったんじゃないのか?」
「い、いえ、あの、私、間違えて――――すみま、せん!」

エルヴィンを振り切ろうとなまえは身体をドアへと向ける。
掴まえた腕がすり抜けようとするのを、エルヴィンは許さなかった。

「・・・・・・いや、構わない。ただ――――――」

悪い予感に、ごくり、となまえの喉が大きく上下に動いた。

「・・・た、ただ・・・?」

迷いながらも、彼女はエルヴィンに止められた台詞の続きを促す。

――――ああ、やはり聞き返さなければ良かったのだ。


「ただ・・・何故君からは、そんなに“いい匂い”がするんだ?」


ハンジが言うには、“フェロモン”という物質は“匂い”とイコールではない。
フェロモンは極めて少量でそのはたらきを起こすので匂いによって周りに作用するという訳ではなく、それは生理活性物質であるホルモンに近いのだという。
それならば何故、エルヴィンはそんな意味深な台詞を言ったのだろう。
普段から周りの友人や同僚たちがそう言っているように、これまで“色っぽいもの”に縁遠かったなまえにとっても、エルヴィンは色気を漂わせる大人の男として認識されていた。
大人の色気、それも、特別なそれを漂わせるエルヴィンだからこそ、今のなまえから漂うそれを感じ、そう表現したのだろうか。

目の前に立つエルヴィンは今、ついさっきこの部屋のドアを開けた時の彼とは別人のような抑圧感を漂わせている。
それは、調査兵団団長の抑圧感ではない。
社会的な地位をもっての威厳でなく、ただ、“男”としての、迫力であるように感じた。
エルヴィンはただならぬ色気を立ち上らせて、彼女を見据えている。
まるでそれは、ある種獣のように強烈なものに思えた。

彼の大きな瞳は彼女の全てを見透かしているように思えて、なまえの心臓はドッ、ドッ、と重たい心音を全身に響かせた。
それは足を伝って床にまで響いている気すら起こさせる。
そしてじっと彼女に向けられるエルヴィンの瞳は、なまえの全身をひやりと硬直させた。
恐れなのか、不安なのか、はたまた別の感情なのかは分からない。
なまえは彼女を襲うそれに唇を震わせながら、声を絞り出した。

「・・・――――んな、こと、ありま、せ・・・、」

その瞬間、彼女の震える瞳に、エルヴィンはゆっくりと不敵に口の端を上げ、笑った。
あっ、と零したなまえの声は、置き去りにされた。

「――――――“何が”?」

耳元に唇を付けたエルヴィンにそう囁かれて、なまえはくらりとする程に、ぞくぞくと身を甘く震わせた。

「・・・は、あ―――――、」

彼の大きな手は彼女の腕を掴み、もう片方の手は彼女の腰に回されている。
腰に感じるその感触もまた、彼女をぞくぞくとさせた。

「それなら何故、私は今君に欲情しているんだろう」

エルヴィンの甘く低い声と吹きかけられるその息が、なまえの全身を粟立たせる。

「おかしいな。職務中だっていうのにこんな――――ほら」

――――何で彼が“そこ”を見るように言っていることが分かってしまったのだろう。
見ない方がいいに決まっている。
・・・それなのに。

「・・・!」

彼女が視線を移した先にあるエルヴィンの下半身は見た瞬間に大きくなっている事が分かったので、なまえは言葉を失い、ただ顔を真っ赤にした。
エルヴィンはその反応に気を良くしたに違いない。
彼はなまえの腰に回していた大きな手をつつ、と移動させると、ゆっくりと彼女の胸を包んだ。
人差し指を動かして、服に隠れている彼女の胸の先端を引っ掻くようにして刺激する。
あっ、と漏れた彼女の小さな声が、更に彼を喜ばせたに違いない。
なまえの耳に宛がったままの分厚い唇は、その端を上げたまま、嬉々と動かされた。

「―――――君のせいだ・・・違うかな」

吐息を吹きかけた唇から舌が伸びて、今度は彼女の耳の凹凸をなぞる。

「んん、っあ、・・・あぁ・・・・・・、そんな、分かん、な・・・・・・!」

焦れったく動かされるなまえの胸を包むエルヴィンの手は、耳への愛撫と相まって、彼女の膝をがくがくと震わせた。
透き通るような水色のエルヴィンの瞳は、今は怪しく光り、細められている。

「困った子だ・・・たったこれだけで悦んでいるのか?君は」

べろりと出された彼の舌はなまえの耳から首筋へと道をねっとりと描く。
緩やかに弧を描く唇から覗く彼の白い歯は、獲物を捕らえようとしている獣のそれのように見えた。
それが怖く感じるのと同時に、彼女は自分がそれに何か大きな期待を寄せているのが分かる。

――――その大きな手で、胸に、もっと愛撫がほしい。
その舌で、もっとぞくぞくさせてほしい。

いつの間にかなまえの瞳はふるふると潤み、しゃんと立っていられない身体を支えるために、彼から逃れようとしていたはずの彼女の両手はエルヴィンの胸元にしっかりとすがっていた。

「―――――教えてあげようか。もっと君が悦ぶものを」
「・・・・・・エルヴィ、・・・だんちょ・・・、」

浅い呼吸に胸を上下させ、なまえは喘ぎ彼の名を呼んだ。
それは決して、彼にNOを伝えるものではない。

「いいだろう。それならまず―――――」

そう言ってエルヴィンがなまえの頬に触れた時だった。

「――――入るぞ、エルヴィン」

不躾にドアが開かれる。
突然の来訪者にも、エルヴィンは全く動じない。
それが彼と気の知れた仲であるリヴァイであったとしても。

「何だ、リヴァイ。ノックもしないで」
「お楽しみのところ悪かったなエルヴィン。だが、お楽しみにはまだ外が明るすぎやしねぇか?」

くっ、と笑うと、エルヴィンは自分に寄りかかるなまえを事も無げに解放した。

「リヴァイ。聞き耳を立てるとは感心しないな」
「聞き耳なんか立てちゃいねぇ・・・いいか、エルヴィン。今こいつにはちょっとした事情がある。お前がこいつに手を出して後から後悔しても全くの後の祭だ」

何が言いたいんだリヴァイ、とエルヴィンは余裕綽々に、意味有りげに笑った。

「つまり、少し待て。お楽しみは次こいつに会ってからでも遅くはないだろう・・・なぁ、プリン」

ゆったり堂々と構えるエルヴィンとは正反対になまえは疼く身体を必死に抑えている様子で、リヴァイを見つめた。
その顔はあからさまに扇情的なものであったので、リヴァイは走りかける自分を律しつつエルヴィンに視線を戻した。

「いくら色ボケのお前でも、こいつの様子が普通じゃないってことくらい見りゃ分かるだろ?悪いが、今はとにかくこいつは俺が連れていく」
「・・・ああ、分かったよリヴァイ。どんな事情かは知らないが、君の言う通り今は彼女を解放しよう。ただ私が言いたいのは、私の部屋に自ら入ってきたのも、私の胸に寄り添ってきたのも、彼女が望んだことだ」

にこりとなまえに微笑みかけたその頬には、先ほどまで強烈に感じた彼の危うい色気が残っている。
それはこの“続き”を彼女にはっきりと請求する、誘惑の色を強く帯びた挑発的な微笑みであるように思えた。
なまえは惚けたようにエルヴィンのその表情を見つめたまま、半ばリヴァイに引きずられながら、団長室を後にした。




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