エレン・イェーガーは上官に言いつけられた仕事を終えて、のんびりと裏庭を歩いていた。
頭の後ろに手を組み、特に用も無くぶらぶらと足を進める。
唇を尖らせ空を仰げばいかにも綺麗な青色の空が広がって、彼をますますのどかな気分にさせた。
棚引く雲にそよぐ風が気持ちいい―――――――

「!!!!」

どす、と鈍い音が裏庭に響いた。
遅れて、二つの重たいものが地面に落ちた音がする。
尻餅をついたエレンが訳も分からず前を見ると、そこには同じように尻餅をついた同期のジャン・キルシュタインが目を白黒させて、自分を見ていた。
脇には本が紙面を下にひっくり返って、くしゃくしゃになっている。

「こっ・・・この死に急ぎ野郎、どこ見てやがる!!!」

真っ赤な顔のジャンは身体を返し本をひっつかむと脱兎のごとく駆けていった。
いつものエレンなら怒声の一つでも発していたかもしれないが、ただ事ではないジャンの様子にぽかんと口を開けて、小さくなっていく彼の背中を見送る。

「一体何なんだよ、あいつ・・・」

唖然としながら視線を移すと、兵士が1人、どこからともなく颯爽と上から飛び降りてくるところだった。

「!?」

エレンは驚き再び口を大きく開ける。
颯爽と降りてきた兵士は次の瞬間、べちゃ、という無残な音と共に、地面で潰れていた。
小柄な身体から、女性だということが分かる。

「だ・・・大丈夫ですか!?」

慌てて駆け寄ったエレンに、無残な格好で地面に突っ伏しているなまえ・みょうじは一瞬で顔を上げると、「そんなわけないでしょ!!」と泣きっ面で叫んだ。
彼女に気圧され条件反射で「すみません」、とエレンは小声で謝る。

「医務室に行った方がいいですよ、えっと・・・」

着地に失敗して全身が痛い、上に、それを後輩に見られてしまった、その上、少なからず自分と係わったことのあるはずの彼は自分の名前を覚えていない。
もうそれはお決まりのことだが、なまえはますます泣きたくなった。

「ほっといて、全然大丈夫なんだから!」

やけっぱちに叫んで起き上がろうとすると、ずき、と足が痛む。
歪んだ彼女の顔に、エレンが気付かない訳はなかった。

「足を痛めてるんじゃないですか?すごい音でしたし・・・」

間近に自分を覗き込むエレンの顔に、なまえははっとして、彼と距離を取ろうとした。

「・・・!!」

やはり痛む足が思うように身体を動かしてくれない。
それでも今すぐ彼から離れなければ、となまえは立ち上がろうとする。

「無理しない方がいいです、俺が連れて行きますから」
「!!」

言っても聞かない先輩に、ならばとエレンは簡単に彼女の身体を抱き上げた。

「だ、ダメ!!離して、エレン!!」

なまえはさっきのジャンのように目を白黒させて、身体をばたつかせた。
焦る彼女にエレンは怪訝に眉根を寄せる。
お願い、大丈夫だから、と彼女は必死に訴えた。

――――彼女が裏庭に上から突然降ってきたのには、理由がある。

ジャンがなまえの部屋を飛び出して行った後、なまえはとりあえずちゃんと服を着なければと羽織っていたシャツを脱いだ。
その時彼女は気付いたのだ。
自分の胸に確かにあった“しるし”が、既に消えていたことに。

これは大問題だ。
だって一番この“しるし”の特性を把握しているであろうハンジは“しるし”が消えれば、彼女の身体から発せられる、周りの者を性的に誘引してしまうフェロモンは消えていくと言っていたのだから。
“しるし”が消えたのに、ジャンは自分に反応していた。
そして自分もまるで発情でもしていたかのように、性的な興奮を感じていた。
もしそれが“しるし”のせいでないのならば、一体どういうことなのか。

なまえの視界は暗くなりぐらぐらと頭が揺れて、身体がずん、と重たくなったような気がした。

――――“しるし”は消えた。
それなのに何故、効果が消えない―――――?

暗い視界の中で探るようにして下着を手に取り、着け、服を着ると、なまえは重たい身体を持ち上げて、窓辺に立った。

(誰もいないところに逃げよう、それがいいよ!“しるし”が消えても元に戻ってない、てことはここにいたってハンジさんのおもちゃにされるだけじゃない!)

そのなまえの判断は決してベストとは言えないものだ。
現実的では無いし、現状を打破するような画期的なアイディアでもない。
ここから逃げた末にどうなるかを考えてもいない。
元々頭脳派ではないとはいえ、彼女がそれくらい精神的に追い込まれていたということも事実だ。

彼女は窓を開け放ち、窓枠から身を乗り出した。
かつてもこんなことがあったな、と以前、閉じ込められた部屋の窓から脱出しようとして足を踏み外し、リヴァイに助けられた記憶がなまえの頭を掠めた。
――――今度はリヴァイの助けなど無くとも窓から上手く飛び降りて、着地できるはずだったのだ。
・・・それなのに。

「ねぇ、大丈夫!大丈夫って言ってるでしょ!!離してよ!」
「ちょっ、ちょっと!暴れたらまた落ちますよ!」

自分の腕の中でばたつく先輩を必死に抱えながらエレンは彼女を諭そうとするが、なまえは離せの一点張りだ。
“しるし”の効果が消えていないのなら、エレンだってさっきのナナバやジャンのようになってしまうのだろう。
ひょっとしたら自分も、さっきのようにエレンに“発情”してしまうのでは――――
そう思うとなまえはますます必死に自分を抱きかかえるエレンから逃れようとする。
暴れるなまえにとうとうエレンが堪えきれなくなると、うわ、というエレンの声と共に、2人は地面に崩れ落ちた。
どこか打ち所が悪かったのか、エレンは痛、と低い声を上げながら、地面にうずくまっている。

「ご、ごめんね、エレン・・・とにかく私、」

本当は「エレンの為でもあるんだから」と言いたかったに違いない。
なまえはうずくまるエレンを気遣い傍らで彼の様子を窺うと、彼の呼吸が浅くなっていることに気付き、はっとした。

「俺なら、大丈夫ですよ。ただ、・・・」

ゆっくりと顔を上げたエレンの顔は上気して、彼女を見つめる瞳は僅かに潤んでいる。
さっきまでまともに彼の顔を見ていなかったから、なまえは気付かなかったのだ。
エレンの表情が少し、平素とは違うそれになっていたことに。

「あ・・・あわわ、こ、これって、エレン、ごめん、わ、私、行かなきゃ!!」

――――既にエレンはまずいことになっている。多分、消えたはずの“しるし”のせいで。

何が何でも避けなければと思っていた悪い展開に既に足をつっこんでいたことを察知したなまえは感じる足の痛みになど構わず、急ぎその場を去らなければと立ち上がった。
けれど動き出そうとした時、エレンは彼女の足が出るよりも早く、なまえの腕を掴んでいた。
咄嗟に彼から外した視線を戻せない。
悪い予感に彼女の心臓は身体と一緒に跳ね上がり、喉元には冷や汗がたらりと垂れた。

「・・・待ってください」

静かな低い声が、彼女の身体にのっしりと掛けられる。
それは何とも色を帯びて人を惹き付け、避けることができないもののようになまえには思えた。
見ない方がいいのかもしれない。
けれどそちらを見なければ、もっといけないことが起こるような気がして―――――。
なまえはきしきしと動かし辛そうに首を回していく。
やがて視界に現れた、すぐ側にいるエレンは、餌をねだる腹ぺこの動物のような、すがるような瞳を彼女に向けていた。

「何かおかしいんです、俺・・・」
「!!!」

(ほらぁ!!)となまえは心の中で情けなく叫んだ。
彼女の腕を掴むエレンの下半身は兵服の上からでも起ち上がっているのが分かる。
それが分かって「まずい」と思うと同時に、なまえは自分の胸がどきどきと高鳴っていくのが分かる。
ついさっきのジャンの時と同じように、自分では決して認めたくない欲求がじわじわと彼女の胸を侵食していく。
起ち上がっているエレンのそれを凝視し、ごく、と唾を飲み下すと、なまえは頭をぶんぶんと振った。

(――――ダメ!何考えてんの、私は!?)

自分を支配しようとするいやらしい感情を振り切ろうと力任せに頭を振ったなまえは、幾分か流されかけた理性を取り戻したように思えた。――――それなのに。
一瞬でエレンが視界から消える。
次の瞬間、なまえはエレンに、それはもう熱烈に、抱きしめられていた。

「・・・すみません、何かよく分からないんです、でも俺―――――」

自分の腕の中にしっかりとなまえを抱いたエレンは、ぎゅっと目を綴じて、彼女の首筋に顔を埋めた。
はぁ、はぁ、とエレンの息遣いが聞こえる。
耳のすぐ側で繰り返されるそれは、なまえの頭を真っ白に、いや、真っピンクに、染めた。

「はぁっ、はぁ・・・、すげ、いい匂いがします・・・・・・、」

なまえの首筋に埋めた顔を左右に擦りつけながらエレンが悩ましげにそう言ったので、怪しげなピンク色に染まったなまえの頭はもう何も考えられなくなる。
彼女は息をするのも忘れて、エレンの熱い抱擁に、密着した身体から感じる彼の匂いに、くらくらとした。
こんなにも異性に情熱的に抱きしめられるのは、なまえにとって初めてのことだった。
必死に手放すまいとした彼女の理性は、もう頼りない糸一本でしか繋ぎ止められていない。

(ああ、ダメだ、これじゃ・・・・・・、)

明らかに、これはおかしい。
今、エレンもなまえも消えたはずの“しるし”のせいで、ハンジの言うところの“発情”してしまっている状態なのだろう。
彼から当てられる熱に、なまえは抗うことができない。
エレンが彼女の身体に彼の硬くなったそれをぐりぐりと押し付けているのが分かったので、はっとしたなまえは身体がますます熱くなったような気がした。

「!あ、あの、エレン、・・・・・・」

それは彼女の身体を熱くもしたし、僅かばかりに繋ぎ止められていた理性を呼び戻すものでもあった。
強く抱きしめられていた身体を離そうとすると、エレンはなまえの首筋に埋めていた顔を起こし、鼻の触れそうな距離で、やはり彼女にすがるように、言った。

「・・・これ・・・、どうしたら、いいですか」

その言葉は彼の熱っぽい瞳と一緒になってなまえの身体を甘く鋭く貫き、彼女を硬直させる。
何か答えなければと思うのに、ほんの少し開けられたなまえの唇は小さく震えたまま何も発することができない。
エレンは深い色の大きな瞳でなまえの瞳を捉えたまま、彼女の背中に回していた手をすす、と下げていく。
それはやがてなまえの腰の辺りで止まると、さっき彼女が着たばかりのシャツの裾をたくし上げ始めた。

「すみません、俺・・・・・・」

口ではすみませんと言いながら、エレンはたくし上げたなまえのシャツの裾から手を入れて、彼女の肌に直接触れる。
彼の手の感触にぞくりと肌を粟立てると、なまえは反射的にエレンを突き飛ばしていた。
全ての理性が崩れ去りそうになった瀬戸際で、エレンに触れられた衝撃が彼女に理性を呼び戻してくれたようだった。

「!!ご、ごめん、エレン!!!」

またも尻餅をついて目を見開くエレンになまえはそう叫ぶと、一目散に走りだした。
痛んでいた足は幾分か楽になっているようだった。

――――エレンが彼女の名前を覚えていなかったのは好都合だった。
多分自分から離れれば“しるし”の効果も薄れいつも通りまた、存在感の無いなまえのことなんてきっと忘れてくれるだろう。

(――――もう、一体どうしたらいいの!?!)

まだ彼女の心臓は痛い程に早鐘を打っている。
ぞくぞくする程セクシーに感じてしまったエレンの声、間近に向けられた瞳、彼の匂い、その全てから逃げ出し振り切るように、なまえは裏庭を必死に駆けた。




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