世 界 の す べ て / 10


頬につく土の感触が何とも言えず、冷たい。
体はギシギシと痛み、心身共に泥のように疲れ切っている。
混濁する意識の中でなまえがうっすらと目を開けてみても、やはり景色は変わらなかった。
古い椅子に上半身を括り付けられている彼女はさっき自身がもがき暴れたせいで床に倒れ、そのまま体をこの納屋のような場所に横たえている。
ぐるぐると何重にも腕に巻かれた縄を外そうと動かしたせいで腕には血が滲み、猿轡をされた口の端からも血が出ていた。
昨日のリヴァイとのこともあるかもしれない。
ここに連れて来られるまでの一件でなまえの全身は痛く、重く、また、恐怖の為か自分から体温の一切がなくなっているかのように感じられた。
口の中は鉛のような味がして、おまけにじゃり、と土が混じり気持ちが悪い。

昼前なまえがリヴァイの宿から重い体を引きずり急いで家へ帰ると、鍵が開いていた。
この間のようにまた執事とばあやが勝手に入ったのだろうと思った彼女は疑いもせずに家へ入る。
そこには見知らぬ男が3人、潜んでいた。
彼女もただ無抵抗にやられた訳ではない。
兵士なりに彼女も抵抗をし、それなりのダメージも相手に与えたものの、昨日のリヴァイとの行為のこともあり万全ではない状態の体は、彼女の反撃を弱くした。
男達の目的が彼女を殺すことでは無かったのがせめてもの救いだっただろう。
抵抗の末に傷を負ったなまえは倒れ、そのまま連れさられ、恐らく町の外れにあるらしい、この納屋のような場所へ連れ込まれたのだ。
昔は納屋として使われていたのだろう。僅かに藁が残っている。
ただ人の出入りは全く無いようで、柱や壁は朽ちかけているようだった。

彼女を拘束している部屋の戸口に立っていた見張りの男は、目を開けたなまえに気が付き近付くと、彼女の髪を乱暴に掴み、顔を持ち上げた。
髪を引っ張られ、痛い体を無理矢理持ち上げられる。
男は顔を歪める彼女の顔を確認するように、じろじろと見つめた。
見覚えのない、“いかにも”な顔つきの、がっしりとした体格の男だった。

「おい、お前は本当にみょうじ家の娘なんだろうな?」

猿轡をはめられているなまえは、無表情のまま、ただ沈黙した。

「あまり乱暴に扱うなよ。その女は後で高く売り飛ばすんだ」

隣の部屋にいたリーダー格と思われる細面の男が歩み寄り、冷たく笑った。
なまえは恐怖を感じながらも、瞳からは一切の感情を消していた。
彼らにどのように抵抗をしたらいいかを、まだ必死に考えながら。

こっそり調査兵団に入っていたことが家にばれてしまった時、ガードを付けると言った父親の顔が頭を掠めた。
自分を守れない兵士が何を守るのと父親に怒ったのを覚えている。
父親は身勝手な娘がこうなることも危惧していたのだ。

(――――偉そうなことを、よく言ったもんね)

結局、自分には自分を守るだけの力もなかったということか。
なまえは自分のふがいなさに失望し、それが今家に迷惑を掛けている事を思い、益々気分が沈んだ。

これから自分はどうなるのだろう。
命の危険もやむなしで、自分の力でせめてもの抵抗をした方がいいだろうか。
それともあの細面の男が言ったように、どこかに売り飛ばされるままに人生を受け入れなければいけないだろうか。
女を売る仕事をするのだろうか。奴隷だろうか。それとも何かの生け贄?
退屈を嫌がり家から逃げ出した自分には、それも一興か。
なまえは嘲笑した。

どこまで逃げても結局自分では自由を手にすることはできなかった。
これまでの自分の境遇への抵抗は、単なる甘えだったのだと思った。

――――目を綴じると、夕べのリヴァイの優しい、穏やかな顔をすぐに眼前に浮かべることができる。

(たぶん、これは私への罰なんだ)

なまえは漠然と、思った。

“リヴァイ”、と心の中で彼の名を呼んでみる。
彼のしなやかな肌、さらさらとした黒髪、その強いまなざし、落ち着いたその声。
抱きしめてくれた腕、やさしく口づけてくれたうすい唇、慈しむように見つめてくれたあの瞳。
そのどれもがすぐに触れられそうで、なまえの瞳にはうっすら涙が浮かんだ。

(私が売られるのなら・・・昨日リヴァイにお願いを聞いてもらって、本当に良かった)

その思い出だけでも生きていける気がした。
これは自分が招いた事なのだと、なまえは思った。



しばらくすると、男たちが待機していた隣の部屋から鈍い音が何度も聞こえてきた。

「・・・・・・?」

なまえが体をひねり顔を上げると、男たちが怒鳴り合い、殴り合うような声や音が聞こえてくる。
好機だと、なまえは椅子ごと起き上がろうとした。
このどさくさに紛れて、何とかここから逃げださなければいけない。

「やめろ・・・やめ・・・!!」

先ほどのがっしりとした男の悲鳴が聞こえた。
どすんという音と共に、建物には静寂が訪れる。
なまえは状況が全く掴めず、更なる恐怖に怯えた。
必死にもがき何とか起き上がろうとするが、焦りと恐怖でそれは叶わない。
今度は一体何が起こって、自分にどんな事が起こるのか。
体が更に、冷たく凍ったように感じた。

足音と共に、入り口に、静かに人影が近付く。
一体、どうしたら――――――


「・・・無事か?」


なまえは目を疑い、言葉を失った。


「・・・リヴァイ・・・!!」


入り口から覗いたのは、リヴァイの顔だった。

「無事な訳はないな」

そう言ってリヴァイはなまえにつかつかと寄ると、ナイフで縄を切っていった。

「どうして・・・」

なまえの目には、安堵の涙がみるみる溢れた。

「お前の親父さんに頼まれた」
「―――――――!!」
「直に憲兵団がここに来る。ここを出るぞ・・・馬に乗れるか?」
「――――リ・・・リヴァイ、私―――――」
「話は後だ。行くぞ」

リヴァイはそっと傷だらけのなまえを抱えると立ち上がり、部屋を出る。
なまえの目に映る光景は無残なもので、隣の部屋では血まみれになった男たちが逆に縄でぐるぐる巻きにされていた。
さっきまで自分に巻かれていたよりも、ずっとむごたらしいやり方で。
何がどうなっているのか全く分からなかったが、なまえはただ、すがるようにリヴァイの肩にしがみついた。

空は白み、ちょうど日が昇るところだった。
その景色を見て、なまえはやっと恐怖から解放されたのだと感じた。

リヴァイはみょうじ家の紋章の入った鞍を掛けられた馬になまえを慎重に乗せると、自身は後ろから跨り、手綱を引いた。
確かに自分の家のものらしい馬に、なまえはさっきのリヴァイの台詞が本当なのだと、胸をざわめかせた。
今までずっとひた隠しにしてきた自分の秘密を、彼は知ってしまったのだ。

さっきまで自分が一体どこに分からなかったなまえは、次第に周りの景色から、馬が城下にある彼女の家とは反対方向に向かっていることが分かる。
悪い予感がよぎったなまえはさっと顔色を青くして、後ろから手綱を引くリヴァイを振り返った。

「ちょ・・・ちょっとリヴァイ・・・どこに行くの?」
「お前の家だ」
「私の、家って――――」

なまえの嫌な予感は的中した。
リヴァイに連れて来られたのは、なまえの家族の待つ屋敷だった。

「なまえ・・・!よく戻ってきてくれた!」

出迎えた父親は涙を流し、力いっぱいなまえを抱きしめた。
母親や兄弟たちも、後ろからそれにすがるようになまえを抱きしめる。
ごめんなさい、と涙ながらに抱きしめられつつも、なまえは困惑していた。

生きて戻ってこられた。
家族にもまた会えた。
迷惑を掛けてごめんなさいと伝えることもできる。

ただ、リヴァイにここへ連れられてきた意味は一体――――――

「リヴァイくん、本当によくやってくれた。何とお礼を述べたらいいのか――――」

涙を流しながら礼を言うなまえの父親にリヴァイは小さく会釈をすると、これ以上の長居は無用とばかりにくるりと背中を向け、歩き出した。
カツカツと足音を大理石の床に響かせて、彼は簡単に去って行く。
小さくなっていく自由の翼を見つめながら、なまえはまるでリヴァイに捨てられたように呆然としていた。

彼の名前を呼びたいのに、声を出すことはできない。
なまえにはいま何が起こっているのかがよく分かっていたし、仕方のないことだとも思ったからだった。

手に掬った砂がざぁっと零れ落ちていくような感覚に陥る。
今の状況は明白で、それを受け入れる他ないことも明白だった。


自分は憲兵団から職を解かれ、ここに連れ戻されたのだと――――――


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