世 界 の す べ て / 4


「・・・お嫌いではないのですか?こういう場所は」
「・・・まぁ、好きという訳では」

リヴァイの答えに小さく笑うと、なまえはバルコニーにもたれかかった。
細いシャンパングラスを傾け口から離すと、まばゆい広間からの光を透かしてそれを見つめる。
ゆらめき輝くグラスが、酔いが回りふわふわと気持ちよく感じる視界をさらにふわふわとさせた。

「そちらも好きという訳ではなさそうだが」
「・・・え?」

なまえはどきりとした。
確かにダンスが始まってから自分は壁際に控えていたけれど、彼と目が合ってから今までは、むしろこの舞踏会を楽しんでいたと言っていい。

「こういう場には随分来てねぇ・・・ない、のでは」

その言葉に、彼女の心臓は更にきゅっと絞られたようになった。
素早く頭を動かすと、ひょっとしてリヴァイは自分の正体を怪しんでいるのではないか?とも取れるような台詞だったからだ。
グラスを持つ手に力がこもる。
真っ直ぐにリヴァイの目を見ることができなかった。

「・・・・・・何故ですか」
「・・・さっき口々に久しぶりだと言われているのを聞いた・・・ので。そろそろあっちへ戻らなくても?」

目の前にいるリヴァイは今もなお自分への敬語(らしきもの)を崩さないよう気を付けているらしい。
リヴァイが自分の正体に気付いていれば彼にとってかなりハードルの高いことらしい敬語を決して使おうとはしないだろうし、自分の今の貴族らしい姿を真っ先に笑い飛ばしてくるだろう(そして彼の性格的に、「下らねぇ」と彼女の演技に付き合うこともしないだろう)。
自分自身が大胆な演技を彼に仕掛けているこの状況では、不安になればきりがない。
とりあえず正体はバレていないと判断しようと、なまえはそれ以上詮索しないことにした。

「・・・いいんです。あなたのおっしゃる通り、あまりこういう場は好きではないですから」

小さくため息をつくと、なまえは遠い目で広間を眺めた。
中では華やかな音楽に合わせてペアが入り乱れて踊り、まるで大広間中がカラフルな花に埋め尽くされているようだ。
とても美しくて華やかで豪華で退屈でいっぱいな、彼女の嫌いな空間。
いつも同じことの繰り返される、狭くて退屈な世界。
それでも彼らは自分たちがこの混沌とした世界の中心だと思っている。

「・・・退屈なんです」
「は?」

突然のなまえのきつい表現に、リヴァイは目を丸くした。

「退屈で、仕方ないんです。・・・あなたもご存知でしょう。堕落しきった私たちの生活というのは、毎日が退屈の繰り返しなのです。パーティを中心に、だらだらと毎日過ごすだけ」
「・・・まあ、多少」

甘い汁を吸い続ける為に現状を決して変えないよう取り仕切る貴族たちを軽蔑しきっているはずのリヴァイが言葉を濁すので、なまえは苦笑した。
やはり彼は自分の正体に気付いていないのだろう。
ほっと胸を撫で下ろした。

「私は、抜け出したくてたまりませんでした」

彼女の言葉にリヴァイが鼻で笑ったので、なまえも嘲笑した。

「・・・そう。抜け出せないの、決して。抜け出して自由を手にしたと感じたつもりでも、結局は家に守られその手のひらの上でもがいているだけなんです」
「・・・それは随分と贅沢な悩みだ」

自分の台詞にリヴァイがどう思うかなど分かりきっている。
なまえは構わず続けた。

「分かってます。恵まれた境遇で、更に図々しく自由まで望むなと言いたいんでしょ?私を生んでくれた親には感謝してる。でも、私は別に恵まれた家に生まれることなんかを望んだ訳じゃない」

本当なら、自分の正体をひた隠しにしてきたリヴァイとはこんな話は絶対にできないはずだ。
相手が相手だけに、本音を語るとムキになってしまう。
なまえは冷静になろうと小さく呼吸を整えた。

「・・・昔は王子様が現れて、この退屈な毎日から私をさらってくれるのを夢見たこともあったけど」
「残念だが、そんな都合のいい王子様はいない」

リヴァイはやはり鼻で笑うと、皮肉っぽく言った。

「分かってるわ。そんな童話のようなことは起こらないし、もし起こったとして、王子様にさらわれても彼のお城でまた同じような退屈な毎日が始まるでしょ?」

笑ったリヴァイを横目に、なまえは手にしていたスパークリングワインを一気に飲み干した。

「・・・だから、自分で抜け出さなきゃって思ったの。・・・・・・できなかったけど、結局・・・」

小さなため息をついたら、彼女は今ある自分のすべてのエネルギーが吐き出された気がした。
力なく顔を上げて、なまえは隣に立つリヴァイを徐に見つめた。

「――――――さらってくれる?」

なまえの冗談とも思えぬその言葉のトーンに一瞬間を置いて、リヴァイは彼女へ真っ直ぐに視線を返し、見つめた。

「あなたは“兵士”だから、“王子様”じゃないでしょ・・・」

熱っぽい視線で彼の目を間近に見つめると、なまえはリヴァイのタキシードに包んだその胸へ、そっと手を当てた。
彼とは長い付き合いがあるけれど、こんな風に彼に触れるのは初めてのことだ。
タキシードの上からでも、リヴァイの筋肉質なたくましい体を感じる。
その感触は強烈にリヴァイを彼女の情欲の対象にして、そそらせる。
計算ずくだったのかもしれないし、それは彼女の本能だったのかもしれない。
なまえは、彼にそっと、身を寄せた。
彼のゆったりとした鼓動と息遣いを、彼に触れている彼女の耳が、頬が、手が、すぐそこにある生として感じさせて、彼女の欲望を更に掻き立てる。
一体私はリヴァイに何をしてるんだろう、となまえは思った。
―――――酔ってるからだろうか。
なまえにしなだれかかられたリヴァイはしばらく黙っていたが、やがて何を言うともなくなまえの肩を持ちその体を少し自分から離すと、そのまま彼女の形の良いあごへと右手を伸ばした。

「・・・・・・・・・」

しばらく二人は沈黙したまま、すぐにでも口づけのできそうな距離のまま、見つめ合っていた。
広間からのあかりに照らされて浮かび上がるリヴァイの顔は、とても美しいものに感じられる。
滑らかな肌に、深い色の瞳。
覗き込めば自分の心など全て簡単に見透かされてしまうのではないかとさえ思える。
まっすぐ自分へと向けられるリヴァイの瞳に、なまえは自分の瞳がどうしようもなく揺れているのが分かった。

「リヴァ・・・」

暫くの沈黙を破り、なまえが彼の名を口にしかけたのが早かっただろうか。
その瞬間、彼女の世界からはすべての音が消えた。
リヴァイは自分の名が呼ばれるのが待ちきれないかのように、自分のうすい唇をそっと、なまえの唇に重ねた。
触れるだけの微かなキスだったが、惜しむようにゆっくりと唇を離すと、二人は再び見つめあう。
やがて二人がくちづけをした瞬間に聞こえなくなった広間の歓声が、次第に遠くから聞こえてきた。
バルコニーには、同じように何組かのカップルが、愛の囁きを始めている。

なまえがゆっくりとまばたきをして再び目を開くと、どちらからともなくもう一度、今度は情熱的に、くちづけをした。
しっかりと塞がれたお互いの唇の中では二人の舌が官能的に絡み合い、小さく息が漏れる。
なまえがリヴァイに舌をもてあそばれ小さく声を漏らすので、彼はますます熱っぽいキスを彼女に与える。
そしてなまえの細い腰を、強く抱き寄せた。

「・・・・・・ごめんなさい、もう行かなきゃ―――」

しばらく深いキスを重ねた後、なまえは少し拒むようにして自分からリヴァイの胸を押し、体を離した。
なまえの瞳は潤んでいる。
今まで感じたことのない、たくさんの大きな感情の波が彼女に押し寄せて、なまえを苦しめた。
複雑に入り交じりどろりとしたその感情がどんなものなのか、彼女にも分からない。
ただその感情がこれ以上リヴァイといるのを彼女に耐えられなくしたというのは、確かだった。
リヴァイは彼女を無言で解放すると、何も言わず、広間へと早足で戻るなまえの背中を見送った。



その後、なまえは先ほどまでのように壁際でしばらくぼーっとしていたが、ダンスを誘う声が掛かると素直に応じ、家族が望むように貴族の娘らしく振舞っていた。
同じく広間に戻っていたリヴァイを目で追うと、彼は彼で他とダンスを楽しんでいるようだった。
遠目にエルヴィンがいることも確認できた。
彼はやっぱり正装がとても似合い、この派手の競い合いをしているような大広間でも目立っている。
何故気付かなかったのだろう、となまえはぼんやり思った。
他の男性と踊っているうちにリヴァイやエルヴィンと接近することもあったが、なまえは努めて平静だった。
いや、さっきのことでただ気が抜けていたのかもしれない。
なまえは目の前の相手に気が抜けたように微笑み、家族が望むような舞踏会にふさわしい振る舞いをする。
しかしその心の中は、先ほどの出来事でいっぱいになっていた。

なぜ自分はあの時、リヴァイを誘うようなことをしてしまったんだろう?と―――――。




いつも通り、舞踏会は明け方まで続く。
帰りの馬車では父親も母親も、なまえを口々に褒められたと言ってずっと上機嫌だった。
なまえは生返事でそれを聞きながら、馬車の振動に合わせコクコクと居眠りをする。
みょうじ家の面々が家に着いたのは、すでに空が白んでからだった。
なまえは急いでドレスを脱ぎ着飾った全てを取り去り風呂へ慌ただしく入ると、自分の馬を引き上げさせる従者と共に自分の家がある城下町へと、先程馬車で通ったばかりの道に馬を急がせた。
今日はしっかりと勤務日になっている。
やっとの思いで家に辿り着いても、酒をたくさん飲んだこと、殆ど寝ていないこと、そしてリヴァイとの一件とでなまえの頭はぼーっとしたままだった。
先ほどまでメイドたちにあれこれと世話を焼かれていた彼女の実家のお湯の用意された豪華な洗面台ではない、狭くて古い庶民的ないつもの洗面台の冷たい水で顔をがしがしと洗い、鏡を見る。
昨日の貴族の娘ではない、憲兵団の自分の顔。
化粧もせず、着飾りもせず、色気もない。

(―――――――よし、いつも通りの私。)

大きく深呼吸してすっきりとした顔をすると、なまえはいつも通り家を出た。


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