慣れ、というのは恐ろしいものだ。
感覚を麻痺させて、始めは抵抗があったはずのものから、時間をかけてそれを完全に奪ってしまう。

いまなまえの前で繰り広げられている一人の少年の行動は、まさにそれだった。
始め、誰も来ない兵舎の隅で木にもたれ掛かって彼はぶつぶつと独り言を言っていた。
それは、意中の相手にどうやって声を掛けるか、という練習であったらしい。
不運にもそこにひょっこり顔を出したなまえにそれを聞かれてしまい、その少年―――ジャンは、最初顔を真っ赤にしてそれを何とか誤魔化そうとしていたはずだ。
それなのに今、ジャンはなまえをアドバイザーにしてその練習を続けている。
うろたえるジャンに彼女が「誰にも言わないよ」と「気持ちが伝わるといいね」を繰り返した結果、彼はすっかりなまえに心を許してしまったようだ。
しかも、独り言のように行われていたはずのその練習は、身振り手振りも交えた劇場型のものに変わっていた。

「よっ、ミカサ!」

2、3歩歩いた後、ジャンは片手をさっと上げて、もう何十回も繰り返しているその言葉を言った。
なまえを彼の意中の相手であるミカサに見立てて、彼女に声を掛ける練習を繰り返している。

「・・・手の角度は今の方がいいよな?いや・・・こうか?こうかよ?」

くそ真面目な顔のジャンにとても下らないことを尋ねられ、なまえは苦笑いを浮かべた。

「いいんじゃないかな・・・もう十分、それでカッコイイと思うよ」
「そっ・・・そうか!?はは!やっべ・・・なまえ、オレに惚れるなよ?!」
「・・・・・・・・・」

社交辞令という名前の「そろそろこれで解放してください」という彼への要望をその言葉は含んでいたのだが、ジャンが頬を赤らめ鼻の下を得意げに擦ったので、なまえは閉口した。
よっぽど嬉しかったのか、ジャンは張り切って先程と同じ手の角度の「よっ、ミカサ!」を繰り返している。
体育座りの膝に顎を乗せながら、なまえは呆れながらも仕方ないなぁと小さな笑いを浮かべて、張り切って練習を繰り返すジャンを眺めていた。

(私がジャンのこと、ちょっとイイなって思ってることを伝えたら・・・ジャンは喜ぶのかな)

喜ぶ、というよりも、調子に乗る、と言った方がいいのかもしれない。
なまえが自分の気持ちを伝えたら、確かにジャンはそれを男の勲章として喜ぶだろう。
けれどきっとジャンは、ミカサ以外の女子なんて眼中に無いのだ、となまえはぼんやり思う。

(私がミカサだったら、いい感じに振り向いてあげるかもしれないのにな)

彼をすごく好き、とかじゃなくて良かった。
なまえは何となく、最近ジャンのことが気になっている。
だから、彼のどこがいい、と言われると、少し考えないと浮かんでこない。

(・・・頭がいいところとか、狡賢そうなところとか、性格が悪そうなところとか・・・あれ?悪口になっちゃったな・・・。・・・背が高いところ、声、意地の悪そうな話し方、馬面・・・あれ?また、悪口・・・)

でも彼を構成するそのどれもが、人間臭くて、彼らしくて、なまえはジャンを可愛く思った。

(カッコ良すぎたらジャンじゃないもんね)

ふっと笑って目の前のジャンに視線を向けた。
すると、その瞬間、ずさっ、と土が舞う。

「!?」

助走をつけたジャンは地面に飛び込むように両手を着け、鮮やかに前転を決めると、頭と背中にすっかり土を着けた彼はなまえを振り向き白い歯を覗かせ(彼の中で)最大限爽やかな笑みを浮かべると、「よっ!ミカサ!」と今日一番勢い良く言った。

「おい、なまえ。今の最高だろ?これで決まりだよな!」

へへっ、とジャンは得意気に笑った。
今度は地面に着いた手で鼻の下を擦ったので、鼻の下が間抜けに汚れている。

「・・・・・・うん、いいんじゃないかな・・・」

今日一番の苦笑いを浮かべたなまえに、ジャンは満面の笑みで「参ったな〜、オイ!」と言いながら再び飛び込み前転を始める位置に着いた。

(・・・さっきのに、“人間的にアホ”も付け加えとこ)


おわり

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