上司から告げられた言葉に、なまえは一瞬言葉を失った。

「わ・・・私が、ですか」
「そうだよ、みょうじくん。何しろ珍しく、エルヴィン団長からのご指名なんだ。幸い君の仕事は一人でやってる訳じゃないから引継ぎも楽だしね。早急にエルヴィン団長付きとして、職務に就いてもらいたい」

分かりやすく顔色を変えた部下に、上司はため息をつき、苦い笑いを浮かべた。

「分かってるよ、君が躊躇するのも無理はない。君も今まで団長付きになった先輩たちを見てきているだろうからね・・・。ただ、団長付きの事務員はこの組織としてどうしても不可欠なんだよ。君ならできると、僕も思ってるよ」

何と都合のいい励ましだろうとなまえは思った。
ひょっとしたら、この間の図書館での情事の目撃と団長室でのやりとりがなければ、穏やかでない噂を知りながらも恐る恐る「分かりました」と言っていたかもしれない。
(きっと今まで彼付きになった歴代の先輩方も、そうしてこの人事を受け入れてきたのだろう。)
だけどこの間の彼との団長室でのやりとりで、エルヴィンがいかに常人では理解できないような危うさを孕んだ人物であるかということを、なまえは知ってしまった。
この間、なまえはエルヴィンの気分を害しこそすれ、彼に気に入られるようなことは絶対にしていないはずだ。
それなのに、団長付きに自分を指名したのは、他ならぬ彼だという。
彼が何を考えているのかさっぱり分からない、となまえは思った。
今まで彼付きになった女性たちが、一体どうやって彼の下で働き、その中でどうやって彼に堕ちていってしまったのかは分からない。
自分が得体の知れない彼に付いて働いた時、一体どんなことがこの身に降りかかってくるのだろう。
なまえにとって上司の言葉は、クビか、スケープゴートの宣告のように思えた。
ここにいたいのなら、拒否権はないのだろう。
どうせいずれ辞めることになるのならば、今辞めると言ってしまう方がいいだろうか。
けれどそれは、上司に伝えるべきことでないことは、なまえはよく分かっていた。
辞めたいのなら、直にエルヴィンに言って、事を大きくしたほうが良いのだ。
そうでなければきっと、この人事を拒否することはできない。

あえてそうしたのかもしれない。上司は青い顔をしてうつむくなまえの返事を聞きださないまま、「頼んだよ、頑張ってくれよ」と念を押すように背中を叩いた。



青い顔をしたままなまえが団長室を訪れると、デスクに掛けていたエルヴィンは立ち上がり、にこやかに彼女を迎えた。

「やぁ、なまえ。これからよろしく・・・室長からは、君はとても有能な人材だと聞いている。期待してるよ」

デスクから回り込んで彼女に近付くと、エルヴィンは爽やかに右手を差し出して、握手を求めた。
差し出された手は大きくて、男らしくごつごつとして、分厚い。
その手をじっと見つめたままなまえが手を取らないので、エルヴィンは首を傾げた。

「私は何か・・・君の気を悪くしたかな」
「いえ、その・・・」

お前に付くくらいなら辞めてやると直に言ってやろうと思って、ここに来たのだ。
それなのに、彼のあまりにも穏やかな態度に、そのにこやかな顔に、思わず彼女は怯んでしまう。

「・・・何故、あなたが私を指名されたのかと、思いまして――――」

僅かに怯んだ心は、なまえの決意に溢れていた瞳の色を弱々しくして、エルヴィンの顔色を窺うような自信なさげな上目遣いに変えてしまった。
彼女の目を真っ直ぐに見るエルヴィンは、その笑顔に意味深な何かを浮かべた。

「・・・知りたいかい?」

その表情と言葉はなまえをどきりとさせて、弱々しくなった彼女の瞳の色を、更に動揺の色で染める。
エルヴィンは妖しく口の端を上げると、差し出していた手をゆっくりと下げた。

「――――それは、来るべき時が来たら、君に教えることにしよう」

低くて甘い彼のその声は、なまえの拒絶の言葉を押さえつけるには十分だった。
喉元に控えて、すぐにでも彼に突きつけてやろうと思っていたその言葉はもうすっかり出すタイミングを失してしまった。
ひょっとしたらエルヴィンは、普通でない面持ちで現れたなまえが何を言い出すのか、勘付いていたのかもしれない。
彼の言葉はなまえの動揺を誘い、彼女はすっかり先手を打たれてしまったのだ。

「なまえ、早速だけど頼みたいことがある。こちらへ」

真面目くさった顔を作ったエルヴィンは先程までのようにデスクに掛けて、立ち尽くすなまえには全く構わず、むしろ狙ったように、平然と仕事を申し付ける。
戸惑いながらも「はい」と答えたなまえは、複雑な面持ちのまま、エルヴィンのデスクへと寄っていった。



意外にも、彼女が思うよりもずっと普通に、エルヴィンの下で働く日々は過ぎていった。
むしろ彼はとてもいい上司のように思われた。
とにかく仕事ができる、という彼のイメージとは裏腹に、エルヴィンは“整理する”だとか、“きっちりやる”だとかいうことがからっきしだめな人間のようだった。
だからか、エルヴィンは書類や資料の整理はおろか、彼のスケジュールを踏まえ全ての事務仕事をどうさばくかはなまえの裁量にまるっきり任せていた(彼の全てのスケジュール管理さえ、彼女に任せていた)。
なまえの手で済ませてしまう仕事や、エルヴィンがしなければいけないと彼女が判断した案件であれば、それらをこなしていく順番だとかは全てなまえの判断にゆだねられていて、彼は彼女に指示されるがままにそれをこなしていた。
彼女だけで済ませてしまう処理も目を通すが、基本的には責任は自分が持つから思うようにやってくれればいいと彼は言う。
数ヶ月彼の下で働くうちに抱いていた警戒心は少しずつ溶けていき、そればかりか次第に彼を尊敬する心さえ、なまえは持つようになっていた。
事務室で仕事をしていた時よりもずっと仕事量は増えたし自分の判断の伴う重たい仕事をするようになったが、その分やりがいはあったし、以前よりもずっと仕事が面白いとすらなまえは思った。
掃除など生活に関することがあまり得意ではないらしいエルヴィンの性分を知ってか、なまえは朝早く来て団長室を掃除するのが日課になっていた。

その日もいつものように、少し早く来て団長室を掃除するつもりだった。
預けられている鍵を入れて、回す。
いつもとは違う手応えに、なまえははっとした。
鍵は、開いていたようだった。
驚きドアを開けると、エルヴィンがデスクでその大きな背中を丸め、眠っていた。

「――――エルヴィン団長、どうされたんですか」

声を掛け背中に触れると、エルヴィンは綴じていた瞳を重たそうに開けた。
ぼんやりとした瞳でなまえを見る。
顔にはいつもなら綺麗に剃られているひげが、うっすらと生えていた。

「すまない、なまえ・・・寝てしまっていたのか。昨夜、遅くまで会議をしていてね・・・君に昨日までと言われていた仕事がまだ、終わっていないんだ」
「ひょっとして、昨夜からここにいらっしゃったってことですか?」
「君に命令されたことには、私は逆らえないからね」

寝ぼけ眼で弱々しく笑うエルヴィンに、なまえは呆れた。

「何おっしゃってるんですか。無理をなさって体を壊されたらどうなさるおつもりですか?壁外調査も近いのに」
「行けるかどうか分からないよ。中央から物言いが出ている・・・果たして今回の壁外調査に、許可が下りるかな」
「・・・団長らしくないですね、そんな弱音を吐かれるなんて。今日はその為に、中央からのお客様がいらっしゃるんでしょう。一旦おうちに帰って休んでください」
「―――私らしくない、か。君も厳しいことを言ってくれるね」

小さく痛んだ胸に、何故その言葉に罪悪感を抱かなければいけないのだろう、となまえは思った。
図太い彼がそんな小さなことで傷付くなんて、ありえないことなのに。
エルヴィンは椅子から立ち上がるとマントを手に取り、力ない足取りで部屋を後にした。
後に残されたなまえはしばらく彼の去ったドアを見つめていたが、やがてエルヴィンの眠っていたデスクに目をやると、どうやら彼が仕事をするうちにぐちゃぐちゃにしてしまったらしいたくさんの重なる書類を手に、ひとまずそれを整理することにした。

近く予定している壁外調査に物言いがついたのは、前回の壁外調査で予測のできない被害を被ったからだった。
多くの兵士と馬を失ってしまったということも、多くの資材と財を投じて作った一つの補給所を無駄にしてしまったことも、中央の調査兵団を快く思わない者たちの格好の攻撃材料になった。
それを招いた不慮の事態は、予測できるといえば、できることだったのかもしれない。
そこを彼らに手痛く攻撃されこそすれ、エルヴィン自身も自分を悔いそう思ったからこそ、彼を弱らせているのかもしれないとなまえは思った。



夕方に調査兵団本部を訪れた中央の役人の一行は、月が高く上がってもなお、調査兵団幹部たちとの話し合いを続けているようだった。
自分のできる範囲の処理だけでもなるべく前倒ししておこうと居残り仕事をしていたなまえは、窓の外の月を見て、ため息をつく。
話し合いがうまくいっていればいいのだけれど、そこは自分にはどうしようもないことだし、ただの事務員である自分が関知できるようなことでもない。
ただ、今朝見たエルヴィンの“らしくない”姿が、なまえの目にこびりついて離れなかった。

エルヴィンが戻ってきたのは、日をまたぐ頃だった。
団長室のドアを開けたエルヴィンは、ぴた、とその動きを止めると、そこにいるとは思いもしなかったなまえの姿に目を丸くした。

「まだいたのか、なまえ」
「はい、あの・・・私ができる範囲のことだけでも、なるべく進めておこうと思いまして」
「・・・君こそ体を壊すよ。後は私がやるから、早く帰るといい」

会議の結果を一事務員にすぎない自分が聞くことは、おこがましくてとてもできない。
けれど、彼の疲れきった表情から、少なくともその経過が芳しくなかったことは明らかだった。
不安げななまえの顔に気付いてか、エルヴィンは力なく笑う。

「明日も話し合いを継続することになったよ。まだどうなるか、分からない。彼らもタフだね。お互い消耗戦の削り合いをしているようだ・・・巨人と戦うほうがストレートで、まだ楽だな」
「・・・エルヴィン団長、雑務で本来の仕事に支障が出ないようにする為、私がいるんです。お疲れなら無理はなさらないで下さい」
「体力的には問題ない。ただ今回は・・・思ったよりも精神的にきつかったみたいだ」

デスクにもたれかかるように腰掛け目頭を押さえると、エルヴィンは大きなため息をついた。
その姿には、いつも彼に漂う精悍さは、すっかり影を潜めている。
なまえはただ戸惑った。初めて見る彼の姿に、何と声を掛けてやればいいのか分からなかった。
そんな彼女の様子に気付いてか、目頭を押さえていた手を下げると、エルヴィンは何を思ったか、突然、聞き覚えのある台詞を口にした。

「・・・なまえ・・・私がなぜ君を指名したのか、知りたいかい」
「――――え?」

その時、彼女は思い出した。
彼付きで働くことを命じられたその日、彼から言われた言葉を。

“知りたいかい?――――それは、来るべき時が来たら、君に教えることにしよう”

とても引っ掛かる言葉だったから、頭の隅にはいつもあった。
けれど、彼の下で働くことに喜びさえ抱くようになってからは、無意識にそれを考えることをやめていた。
“来るべき時”が、今来たというのだろうか。
予期せぬ彼の言葉に、なまえは胸が騒いで、息苦しくなった。
エルヴィンは、今はどんよりとして見えるその青い目で戸惑うなまえをしっかり見つめると、親しみ深げにそれを少しだけ細めた。

「・・・君なら、私を分かってくれるかもしれないと思ったからだ」

どきんと痛い程に大きな音を立てて、なまえの心臓が跳ねた。

「なまえ・・・君なら、本当の私を分かってくれるかもしれないと思ったんだ」

胸が甘く、痛く、ぎゅっと締め付けられる。
なまえは呼吸を忘れて、自分をまっすぐ見つめるエルヴィンをただ見つめ返していた。

「君は今朝、“弱音を吐くなんて私らしくない”と言ったね――――それが、本当の私さ。それが、誰も知らない、本当の私だ」

エルヴィンは浅く腰掛けていたデスクから立つと、なまえに近付き、その目の前に立った。

「・・・がっかりしたかい?最近の君は、どうやら私を尊敬してくれていたようだったから」

見上げる彼の顔はやはり疲労の色を濃くして、力ない笑顔を作っている。
神妙な顔のまま「いいえ」と首を振るのが、戸惑う彼女にできる精一杯のことだった。

「仕事だって君がいなきゃ何もできない、情けない男だ」

そういうと、エルヴィンはその大きな手で、なまえの頬を包むように、そっと触れた。
触れられたところから、あたたかい彼の体温がゆっくりと伝わってくる。
彼女がエルヴィンに触れられたのは、これが初めてだった。
彼に触れられたことで、既に苦しいほどに大きな音を立てていた彼女の心臓は、全身がその鼓動に包まれているように、ますますなまえを苦しめる。
何も言葉にすることができないなまえの瞳を、エルヴィンはじっと見つめて離さない。

「私は・・・弱い男だからね」

――――どうして、いま彼に何も言うことができないのだろう。
なまえは今、何かの仮面を外したように別の姿になって自分の中に入り込もうとするエルヴィンを、確かに感じていた。
彼の下で働くよう命じられた日から昨日までは、決して見せなかった彼の姿だった。
それは、彼を“悪魔”と呼び彼の前から去ろうとする彼女の前任者とのやりとりでエルヴィンが見せていた、どこか危うくて、妖しげな彼の姿だった。

「なまえ、君は助けてくれるかな・・・私のことを」

彼は至って静かに語りかけるのに、それはなまえの心を激しく波立たせる。
何かの恐れさえ感じるのに、彼女の揺れる瞳はエルヴィンに釘付けになって、外すことができない。
やがて彼女を惑わす言葉を紡ぎ続ける彼の妖しげなくちびるは、なまえのくちびるへと、ゆっくりと近付けられた。
あとほんの少し彼が動けば、二人のくちびるは重なってしまうだろう。
ぴたりと動きを止めると、エルヴィンは甘い声で、そっと囁いた。

「・・・拒まないね、なまえ――――いいのか?」

硬直する体には冷や汗さえ流れて、ぞくぞくと、身が甘く震えるのが分かった。
彼を怖いとさえ思う自分がいるのに、くちびるが重ねられるのを待ちわびている自分もいる。
エルヴィンは恐らくそんななまえの心を、見透かしている。

答えない彼女に、怖いほど穏やかにその口の端を上げると、エルヴィンはなまえのくちびるを静かに、奪った。




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