なまえが寒さに身を震わせて目を覚ますと、すっかり日も落ちて図書館は真っ暗になっていた。
しまった、と体を起こして、枕にしていた本を閉じる。
最近忙しくて疲れていたのに、珍しく図書館で本でも読もうと思ったのが良くなかった。
早くここを出なければと、おびただしい数の本が並べられた棚の間を歩く。
係の人はまだここにいるのだろうか。まさかもう図書館は閉じられて、入り口に鍵を掛けられたりしていないだろうか。そんなことを考えながら。
すると、一歩ずつ進むごとに、小さな声が聞こえてくる。
大きくなるその声に、なまえの足は次第に前進することをためらい始めた。
最初は、誰かが泣いているのかと思った。
けれどそれが大きくなるごとに、明らかに泣き声ではないことが分かる。
やがて目に入ってしまった二つの交わる人影に、なまえはどきりとして足を止めた。

「あぁ・・・、もうダメ・・・!」

まさに行為の真っ最中、片足を担ぎ上げられている女性は、本棚に背を預けながら絞りだすように切なげな声を上げている。
相手の男性は彼女を焦らすように、腰の動きをゆっくりとしたものに変えたようだった。
女性はちょうどなまえに背を向けている。なまえの方を向く体勢を取っている相手の男性も、彼女が側にいることにまだ気付いていないようだ。
頭が真っ白ななまえは、早くここを立ち去らなければと思うけれど、信じられない目の前の光景に足がすくんで、動くことができない。

「意地悪・・・もっと、もっと突いて・・・!」
「――――あぁ、分かってる。でも、君のそのセクシーな声をもっと聞いていたいんだ」

暗い図書室に浮かび上がる金色の髪に、聞き覚えのある、穏やかな低い声。
不意に上げられたその顔が、なまえを捉えた。

「エルヴィン、もっと・・・もっとめちゃくちゃにしてぇ・・・!」

呆然と立ちすくむなまえを見つめるその瞳は、行為の最中だというのに驚くほどにこやかに細められる。
彼女を見つめたままおもむろに上げられた片手が、人差し指を一本だけ立てて彼の口元に当てられた。
その口元はやはり穏やかに弧を描いている。
彼に向かって混乱したままの頭を小さく下げると、なまえは急ぎ、図書室を後にした。



「また女の子が辞めたいと言ってきたよ。エルヴィン団長にも困ったものだ」

はぁ、とため息をつき頭を抱えた事務室長は、椅子に深く腰掛けた。

「1年弱か・・・まぁ、かなり続いた方だな」
「しかし、事務室長。団長の為に一人人員を裂くのはいいが、これだけもれなく1年もせずに辞められてしまうと、うちも死活問題ですよ。人材を育成しても次々辞められては―――」
「かといって、替えがきかない男性事務員をつける訳にもいかないしねぇ・・・」

困り顔の上司二人の会話に聞き耳を立てていたなまえは、数週間前に目撃してしまった図書館での情事を思い出していた。
あれは確かに、彼女が事務員として働いているこの調査兵団のトップであるエルヴィン・スミスだった。
背中を向けていて見えなかったお相手の女性は、ひょっとしたらいま上司二人の会話に出ている、彼付きの先輩事務員の女性だったのかもしれない。
調査兵団団長であるエルヴィンには、兵士を束ねてこの組織をまとめる本来の仕事以外にも、こなさなければいけない事務仕事がかなり多い。
過酷な壁外から帰ってこれば中央に出さなければいけない書類の山が彼を待ち構えていて、壁内ではそれをさばくのに忙殺される。
事務仕事のせいで本来の職務が疎かにならないよう、その負担を少しでも軽減させる為、事務室から一人、彼のデスクワークを補佐する職員を派遣しているのだ。
その職員はいつも女性があてがわれるのだが、何しろいい噂は聞かない。
必ず団長付きになった事務員の女性は1年もせずに仕事を辞めたいと言い出す。ひどいときは、数ヶ月で。
仕事を補佐するうちにやがてエルヴィンと仕事以上の関係になり、痴情の果てに辞職を申し出る―――というのがお決まりのパターンである事は、少なくとも事務室にいる者たちにとっては、歴然とした事実だった。
彼付きを命じられた女性たちはそれなりに警戒をしているのにそうなってしまうのか、魚心に水心でそうなってしまうのかは分からない。
ただ、どんな女性でも必ずエルヴィンと関係を結んでは、それを壊して職場を去っていく。
今まであまりエルヴィンとは係わりのなかったなまえでも、彼には女性をそうさせてしまう何か妖しい魅力があることは、何となく感じていた。
背は高くがっしりした体躯で、男らしく凛々しい顔をしているのに物腰は柔らかで、聞く者をうっとりさせるような低くて甘い声をしている。
若くしてこの調査兵団のトップになる程の実力者で、穏やかな態度とは裏腹に恐ろしい程頭も切れるし、時に冷酷なまでに常に冷静であるらしい。
たぶん、彼のそんなアンバランスなところが、女性を惹きつけるのだ。

「いいところにいた。みょうじくん、悪いがこれをエルヴィン団長のところへ持って行ってくれるかね」

話していた上司のうちの一人に名前を呼ばれ、聞き耳を立てていたのがバレたのだろうかと、なまえはびくっと身を縮めた。
しかも、今話題になっていた人物の元へのお使いだ。
引き攣った顔で振り向くと、なまえは恐る恐る、上司の差し出した書類を受け取った。
手にした書類はずしりと重たい。
これを受け取ったエルヴィンの仕事量を考えると、彼付きの事務員を新たに決めるには時間がないことは明白だった。
一体誰になるかは分からないが、きっと飽きもせずに同じことを繰り返すに違いない。
エルヴィンは一体どうやって今までの事務員たちと付き合ってきたのだろう、と考えながら、なまえは団長室のドアをノックした。

「!」

ドアを開けた瞬間だった。
パシッ、と乾いた音が広い団長室に響いた。
辞職を申し出たという彼付きの事務員の女性が、エルヴィンの頬を平手打ちしたところだった。
頬がほんのり赤くなったエルヴィンはいつもと変わらぬ穏やかな顔で、ドアを開けたまま突っ立っているなまえに目をやってから、平手打ちした女性の顔を見つめ直す。
なまえは驚き目を見開いたまま、呆然としていた。
この間の図書館に続いて、何と間が悪いのだろう。
部屋のドアを何者かが開けたことには気付いているのだろうが、女性は全く気に留める様子はない。

「ひどい人・・・私のこと、騙してたの?あなたのことを信じてたのに!愛してるって、あの時言ってくれたじゃない!」

女性は物凄い剣幕で、涙を流しながら彼に訴えた。
彼女がエルヴィン付きになる前は、事務室の先輩として親切にあれこれ教えてもらうこともあった。
元々気は強い方だったかもしれないが、こんな風に職場に私情を持ち込むような、職場で人目も憚らずそれをぶちまけるようなタイプの人ではなかったはずだ。
先輩は、ふるふると彼を叩いた右手を震わせている。
怒りと悲しみが入り混じった、とても苦しそうな顔をしていた。

「騙したなんて、人聞きが悪いなぁ・・・私がいつ、君と恋人になったって言うんだい」
「!!」

エルヴィンの言葉に激昂すると、女性は側にあった花瓶を持ち、活けられていた花と一緒に水を勢い良くエルヴィンへと浴びせた。
大きな花瓶だったから、彼の顔から胸元まで、すっかり水に濡れてしまっている。

「そうやって女をたぶらかしては、使い捨てていけばいいのよ!本当に最低な男!二度とあなたの顔なんて見たくないわ。さよなら!」

ゴン、と乱暴な音を立てて花瓶を元の場所に置くと、女性は振り返り、呆然と立ち尽くすなまえを見て、足を止めた。

「・・・なまえ、まさかあなたが私の後任なの?」
「い、いえ・・・たまたまこれを持っていくよう頼まれただけで・・・」
「そう、良かった。こんな男には絶対に係わらない方がいいわよ。どんな女だって、このだらしない男の毒牙にかけられて、めちゃくちゃにされるの。この組織には欠かせない男なんだろうけど、女にとっては悪魔そのものよ。係われば、絶対に不幸にさせられるんだから!」

半ば叫ぶように、エルヴィンへのあてつけのようになまえに忠告をした後、彼女は怒りに任せた早歩きで部屋を出た。
やはり乱暴にドアが閉められて、しんとした空間に、水を掛けられたエルヴィンと、書類を持って立ち尽くすなまえが残される。
少し間の抜けたようなこの空間で、エルヴィンはなまえを見て小さく肩をすくめ全く悪びれない笑顔を浮かべると、足元に落ちた花を拾い始めた。

「やれやれ・・・びしょ濡れだ」

拾った花を花瓶に戻すと、エルヴィンは濡れて下がった前髪を、元のようにぴっちりと分けて撫で付ける。

「あ・・・タ、タオルを持ってきます」
「ありがとう、大丈夫だ。ここにあるから」

デスクに回り込むとエルヴィンはその引き出しを開けて、タオルを取り出し、顔を拭き始めた。
なまえはただ単に手に持っている書類を届けに来ただけなのだけれど、何事もなかったかのようにさっとそれを置いて帰っていいものかどうか、分からない。
迷っているうちに、エルヴィンは体を拭いたタオルで濡れた床を拭き始めていた。

「この間といい、どうして君はこうタイミングがいいんだろうな、なまえ」

棒立ちになっていたなまえは、エルヴィンに話しかけられどきりとして、ますます硬直した。
“この間”とは、紛れもなく、図書館での情事を目撃してしまったことを指しているのだろう。
暗がりだったから、エルヴィンには目撃してしまったのが自分だと気付かれていないのではと、少し期待をしていたのだが。

「すみません、エルヴィン団長・・・」
「はは、君が謝ることはないよ。場所を選ばない私の行いが招いたことだ」

この間図書館で情事を目撃してしまったときもそうだったけれど、彼は自分がなまえに見せてしまった痴態について、全く恥ずかしがるようなことも、取り乱すようなことも、後ろめたそうな素振りさえ見せることもしない。
普通では考えられないような彼の態度は、何か得体の知れないもののように彼女の目には映った。
“女にとっては悪魔そのもの”と言った先輩の言葉が蘇る。
彼にとっては先程の先輩の怒りも、図書館でなまえが見てしまった情事も何もかも、ただ自分を通り過ぎていった風か何かのように感じられているのかもしれない。
先程の先輩の、悲しみと怒りの入り混じった苦しそうな顔が浮かんで、なまえの心を痛める。
彼女の痛いほどの苦しみをぶつけられても、いま何事もなかったかのように平然と振舞えるエルヴィンを、人として信じられないとなまえは思った。

「また逃げられてしまったなぁ・・・」

微笑みながら濡れたジャケットを脱いだエルヴィンは、開けた窓の外にそれを出して、水を絞った。
暢気なその背中に、なまえは小さな棘を刺してやらずにはいられなかった。

「・・・・・・あの・・・。仕方ないんじゃ、ないんでしょうか・・・」

小さく背中から聞こえてきた声に、エルヴィンは意外そうな顔をして振り返った。

「あの先輩は、素敵な方でした。仕事もできる方でしたし、少なくとも私が一緒に仕事させて頂いている時は、公私混同されるような方じゃなかったです・・・」
「・・・私が彼女をそうさせたとでも、言いたげだね」
「・・・・・・・・・」
「なまえ、君は何か勘違いをしている。私は確かに仕事以上に彼女に支えて貰っていたと思うよ。けれど、私たちの間に仕事上以上の関係を望んだのは、私だけじゃない。彼女もだ。女性に拒まれるようなことは、私は決してしない。それは私の趣味じゃないしね・・・」

優しく目を細めながら穏やかな口調でそう話すエルヴィンに、なまえはぞくっとした。
柔和に見えるその態度が、正反対に、とても冷たいものに感じられたから。
だからこそ彼は、さっきの先輩のように、女性を狂わせるのかもしれない。

「その・・・すみませんでした。これを、お願いします」

事情も知らずに、差し出がましいことを言ってしまった。
けれど、何を言っても彼には全く通じなさそうだ。
彼という得体の知れない存在に、今まで感じたことのない類の恐れを感じたなまえは、手にしていた書類を彼のデスクに置くと小さく礼をし、彼に背を向けた。
後ろから、ありがとう、と、やはり何事もなかったかのような、いつも通り穏やかな彼の返事が聞こえてくる。
世の中には、本当に理解することのできない人間がいるらしい。
非凡な存在であるに違いない彼であれば、尚の事かと思う。

やりきれない、割り切れない胸をそのままに、なまえは団長室のドアを閉める。
バタン、と廊下に響いた音は、どこか虚しく感じた。




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