スウィーティ・パイ/4




ケーキを揺らさないよう大事に抱えて、なまえはエルヴィンの家へとゆっくり歩いて向かっていた。
町はすっかり夜の顔に変わっている。
賑わう人混みの中でうっかりケーキをぶつけてしまわないよう、なまえは道の端を用心深く歩いていた。
歩いているカップルとすれ違うと、エルヴィンのことを思い出して胸が痛んだ。
いま彼は一体誰と会っているんだろう、とどうしても気になってしまう。
自分はエルヴィンの恋人でも何でもないんだし、考えてみればエルヴィンの恋人になりたいと思うことすらおこがましいことのように感じていた。
ただ彼に憧れて、彼を尊敬している。そして今は、こんな自分が彼にあたたかく接してもらえている。それだけで十分幸せじゃない、となまえは思った。

ふと顔を上げた時、なまえは目を見開き思わず立ち止まった。
道沿いのガラス張りになっている店のテーブルに、エルヴィンが腰掛けていた。
きちんとテーブルセッティングがしてある向かいの席にはまだ誰もいない。
雰囲気の良い、レストランのようだった。
自分と気軽にケーキ屋に行くときとは違って、やっぱりぴしっとした服装をしている。
彼のプライベートをまるで盗み見てしまったような気になってすぐ立ち去らなければと思ったのだけれど、なまえはどうしてもそこから動けない。
―――見てはいけないに決まっているし、見ないほうが自分にとってもいいに決まっている。
それなのに、どうしてここから動けないのだろう。

その時、エルヴィンが席を立ち小さく手を上げた。
待ち合わせをしていた相手が現れたのだ。
相手はやっぱり、女性だった。
歳は、エルヴィンより少し若いくらいだろうか。
ドレスアップをした背の高い、まるで踊り子のような、美しい女性だった。
エルヴィンは、歩み寄ってきたその女性に挨拶の軽いキスをする。
“待ちかねたよ”と彼の口が動いた気がした。
二人が見つめ合い微笑んだ時、なまえの胸は、太くて鋭い何かにぐさりと刺されたみたいに、言いようのない痛みに襲われた。
その痛みは全身を貫いて、まるで自分がここにいることを忘れてしまうくらい、目の前の光景がリアルではないように思えるくらい、なまえをただそこに立ち尽くさせた。

何が、“それだけで十分幸せじゃない”だろう。
漠然と、エルヴィンのことが好きだと思っていた。
もちろん初めて出会ったとき、彼を一目みた瞬間から、なまえは彼に憧れていた。
それでもあくまでそれは“憧れ”で、彼の恋人になりたいとか、告白をしたいだなんて、全く考えたことはなかった。
彼に憧れていたし、彼を心から尊敬していたからこそ、そんなことまでは全く考えが及ばなかった。
なのに今自分は、こんなに傷付いている。
自分の彼を想う気持ちがこんなに強くなってしまっていたことに、気付かなかった。
なまえのエルヴィンへの憧れの気持ちは、いつのまにか、恋心に変わっていたのだ。
ひょっとしたら無意識に、気付いていないふりをしていただけだったのかもしれない。
冴えない自分と彼を比べて、想いが叶うだなんてとても思えなかったから、変に期待をして傷付きたくなくて、気付かないふりをしていたのかもしれない。
無意識のうちでも叶うわけないと思っていたはずなのに、それなのに今、目の前の光景にこんなにもどうしようもなく、自分は傷付いている。
―――どうして?
きっと、やさしい彼にやさしくされて、少しだけ、期待してしまっていたのだ。
自分はひょっとして、ほんの少しでも、彼にとって“特別”なのではないかと。

窓の外にその場で固まっていたなまえをエルヴィンが見つけたのは、ひょっとしたら約束をしていた二人が挨拶のキスをしてから数秒の間だったかもしれない。
エルヴィンは驚き“なまえ、”と口を動かした。
なまえはエルヴィンと目が合い彼が自分の名前を口にしたらしいということを飲み込むのに、少しの時間がかかった。
はっとした時には、エルヴィンは店の外に飛び出してきていた。
心がどうしようもなく乱れているなまえは、どうしたらいいか分からず、急いでその場を立ち去ろうとする。
彼に背中を向けたとき、「なまえ!」と、力強く自分を呼ぶエルヴィンの声が聞こえてきた。
立ち止まろうかそのまま走り去ろうか迷ったのがよくなかったらしい。
迷った足はもつれなまえはその場につまづいて、転んでしまった。
大事に大事に運んで来たケーキは、彼女と一緒に道に倒れこむ。
ああ、と思ったとき、追いついたエルヴィンが彼女の前に腰を落とした。

「大丈夫か、なまえ・・・怪我は?」

心配そうに手を取り自分を覗き込むエルヴィンに、なまえは無理やり笑顔を作ろうとしたのだけど、口角はぴくぴくと抵抗してうまく上がってくれない。

「大丈夫です、ごめんなさい・・・」

簡単に涙が溢れてこぼれそうになったので、なまえは彼から地面へと、目を逸らした。

「偶然だな・・・今からうちに来てくれるつもりだったのかい・・・?」

気持ちを落ち着かせるように少しの間を置いて、いえ・・・となまえは答えた。

「お渡ししたかったものなんですけど・・・結局ダメになっちゃって・・・。とことん要領悪いんです、私って――――」

そう言って笑顔を作り顔を上げた時、落ち着かせたはずなのに、ぼろぼろと、なまえの目からは涙が溢れ出した。

「・・・!」

堪えたはずの涙がぼろぼろと流れ出してしまったので、なまえは戸惑った。
自分は泣き虫だけど、人前では泣かないようにしようと、随分前に決めていたのに。

「あの・・・違うんです。久しぶりに転んで、痛くて・・・」

何が違うんだろう。無理やり作った言い訳がどうにも滑稽で、作り笑いをするとなまえの目からはますます涙がこぼれていく。

エルヴィンは目の前のなまえの突然の涙にはっと息を飲んだまま、ただ困惑して、彼女を見つめていた。
自分が泣いている女性を目の前にしてこんなにも情けない状態になるだなんて、思わなかった。
それは他ならぬなまえだったからかもしれない。
彼は彼女の涙の意味も自分がいま彼女にどうしてやったらいいかも分からず、女性の扱いも分からないただの子供のように、彼女の顔をおろおろと見つめることしかできなかった。

「エルヴィン、大丈夫?」

二人の姿を見かねたのだろう、エルヴィンと約束をしていた女性も店内から彼を追って現われた。

「怪我してるんじゃないの?ほら、良かったら足を見せて・・・」

女性は心配そうになまえの隣にしゃがみこみ、なまえの背中をやさしくさすった。
彼女の美しい顔に、なまえの胸はますます痛む。

「お食事中にお邪魔しちゃって、本当にごめんなさい。」
「なまえ、君は――――」
「あの・・・お話してたものはまた今度、お渡ししますね」

エルヴィンの言葉を遮りそう言って頼りなく立ち上がると、なまえは二人に小さく頭を下げて、その場をひょこひょことした小走りで、後にした。

「本当に大丈夫かしら、あの子・・・?あれ?これ、あの子のじゃないの?」

立ち上がりなまえの後姿をやるせない表情で見つめていたエルヴィンは、彼女の言葉に視線を下に落とした。
傍らにあった白い箱を手にしている。
そういえば店内から目が合った時、なまえは大きな箱を手にしていた気がした。

「うわ・・・可哀想・・・。ぐちゃぐちゃじゃない」
「おいお前、勝手に開けるなよ」
「でもこれ・・・あんたへのプレゼントじゃないの?」
「私への?」
「ほら、書いてあるじゃない。ぐちゃぐちゃで読み辛いけど・・・“お誕生日おめでとうございます エルヴィン団長”じゃない?」
「・・・誕生日?」

目をぱちくりとさせたエルヴィンに、彼女は驚き「うそ!」と叫んだ。

「ウソでしょ?エルヴィン」

珍しくエルヴィンが呆然としている。
彼女はぷっと吹き出して笑った。

「呆れた〜。独り身で可哀想だからと思ってわざわざ今日誘ってやったのに!」

自分の誕生日くらい覚えておきなさいよ、オジサン!と彼女は呆れて笑った。
エルヴィンは箱の中の形が崩れてしまったケーキを慈しむようにしばらく見つめてから、そっと手を伸ばした。
ケーキはすっかり形が崩れてぐちゃぐちゃになってしまっているというのに、とても大切なものに触れるようにそれを手ですくい上げて、口に運ぶ。

「―――――甘い・・・」

口の中に広がったその甘さを噛み締めると、胸には切なさと甘さがいっぱいに広がった。
やさしくて甘い余韻は、口にしたケーキをすっかり飲み込んでしまってもまだ消えない。
エルヴィンはこの世で一番愛しいものを口にしたかのように、やわらかく微笑んだ。
ぐちゃぐちゃになってしまった目の前のケーキは、それでも、彼にとっては世界で一番愛しくて、美味しいケーキのように感じられた。
彼の胸いっぱいに、なまえへの愛しさがどうしようもなく溢れてくる。

「・・・悪い、飯は他のヤツを誘うか、一人で二人分食べていってくれ」
「は?!?」

エルヴィンは懐から財布を出すと、食事の代金には十分すぎる金を彼女に押し付けた。

「急用を思い出したんだ。せっかく気を遣ってくれたのに悪かったな」

彼女の背中に軽く触れると、エルヴィンはそのまま本部の方へと走り出した。
後ろから、何なのよもう!と彼女の声が聞こえてきたけれど、エルヴィンは堪えきれないように、笑った。



ケーキをあの場に忘れてきてしまった自分の鈍くささに、なまえは激しく自己嫌悪を感じていた。
ただ自分がショックを感じただけだったら、こんなにも傷は深くなかったというのに。
たぶん、転んで箱を落としてしまったからケーキはぐちゃぐちゃになってしまっているだろう。
文字が見えないほどにぐちゃぐちゃになっていてくれたら、まだ助かる。
だけど、そうでなければ――――。
エルヴィンがあのケーキを見たら、一体どう思うのだろうか。
彼にはさっきのことで、自分のおこがましい気持ちはすっかりバレてしまったのではないだろうか。
次に団長室へ書類を持っていく時には、一体どんな顔をして持っていけばいいんだろう。
やりきれなさと悲しさで、もう出せるだけの涙は出してしまった。
涙はもうすっかり枯れ果ててしまったけれど、まだ呼吸はひくひくとしていてネガティブな気持ちからはまだとても抜け出せない。
もう二度とエルヴィンとは顔を合わせられないと思った。
家に帰ってからずっと枕に顔を埋めて落ち込んでいたなまえは、今日は家族が家にいなくて本当に良かったと思った。

不意に、カチンカチンとノッカーで玄関のドアをノックされる音がした。
明かりがついているし、居留守をするのも弱気な彼女には難しい。
こんな遅くに一体誰だろう、と恐る恐るドアの前に立つと、チェーンを掛けたまま少しドアを開けて、どなたですか、と投げかけた。

「・・・なまえ?エルヴィンだ」

隙間から覗いた思いもよらない姿と声に、なまえは心臓が止まりそうになった。
驚きのあまり、声が出ない。

「あれから本部に戻ってね。君の家の住所を調べて来たんだよ。職権乱用だ」

穏やかでない単語を使いつつも、はは、とエルヴィンは悪びれることなく白い歯を覗かせた。

「あ・・・あの、エルヴィン団長・・・お恥ずかしいんですけど私、いまエルヴィン団長に顔を見せることができないんです・・・」

ついさっきまで文字通り彼にはもう二度と合わせる顔がないというくらいに彼女は落ち込んでいたし、実際いま自分でも分かるくらいにひどく泣き腫らした目では、とても彼に自分の顔を見せることはできない。

「私は気にしないよ」

いつもの穏やかな彼の声が返って来る。
ここは、自分の家の、玄関先だ。
ドアを挟んですぐ向こう側に、エルヴィンがいる。
とても信じられない。
しかもついさっき、あんな失態を見せてしまった直後に。
自分が泣いていたから、やさしい彼は慰めに来てくれたのだろうか。

「私はとても恥ずかしくて・・・すみません。あの・・・お食事は・・・?」
「そんなことはいいんだ。君にどうしても伝えたいことがあるから、ここに来た」
「!私のせいで、お食事がなくなってしまったってことですか?」
「いいんだよ、なまえ。自惚れかもしれないけれど、もし君がさっき泣いていたのが私のせいだったのなら・・・安心してくれないか。彼女は私の恋人じゃない」

あの人は、恋人じゃない。
誕生日のデートの約束を台無しにしてしまって申し訳ないと思っているのについその言葉に安堵してしまう自分がいて、なまえは更に自己嫌悪を感じた。
彼の言葉に何と答えたらいいのか分からずなまえはただ押し黙って、ドアの隙間から覗くエルヴィンの足元を不安げに見つめていた。

「ドアを・・・開けてくれないか」

エルヴィンの呼びかけに、それでもなまえは声を出すことも、身体を動かすこともできない。
沈黙の後、彼女の心を思い無理にドアを開けさせることもないと、エルヴィンは静かに語りかけた。

「・・・なまえ、そのままでいいから聞いてほしい。私の気持ちのすべてを、いま君に話すから」

いつもの穏やかな彼の言葉だけれど、いつもと何かが少し違う。
ドアに手を掛けたまま、なまえは彼の声に耳をすました。

「――――君を見てると、私が遠い昔に置いてきた、すべてのやさしいものを思い出す。生まれたての仔犬を抱いた時の頼りなくてどうしようもなく愛しいあたたかさ、懐かしい風景、今じゃ口に入れられないほど甘い、子供の頃に好きだった砂糖菓子、初めて買ってもらって大切にしていた絵本、両親に手を引かれて田舎道を歩いた夕暮れ、大人にはただのがらくたにしか思えない、宝物だと呼んでいたたくさんのもの・・・。今までただ聞き流していたやさしい音楽を聴くと、今では君の顔が浮かんでくるんだ」
「・・・・・・・・・」
「私は君が好きだよ、なまえ。君が愛しくてたまらなくて、何よりも大切なんだ。誰よりも側に君にいてほしいし、私を誰よりも君の側に置いてほしい・・・君さえよければ、だけどね」

彼の穏やかな声で紡がれる愛しくてやさしい言葉はなまえの胸に刺さっていた太くて鋭いものを簡単に溶かして、かわりに、彼女の心をあたたかさとやさしさでいっぱいにした。
出し切ってしまっていたと思ったなまえの涙は、今度はあたたかい涙になって溢れ出して、止まらない。
震える手でチェーンに手を掛けると、思ったように動かない手は時間を掛けて、ようやくその鎖を解いた。

「エルヴィン団長・・・」

やっと開いたドアから覗いた泣きじゃくる彼女の姿に、エルヴィンは愛しさを隠しきれないように微笑み、彼女を引き寄せ、抱きしめた。

「私も、私も・・・エルヴィン団長のことが、すきです・・・」

うん、とエルヴィンは頷いて、彼女を抱きしめる腕に一層愛しさを込めた。
――――何て、頼りなくて、愛しいあたたかさなんだろう。
エルヴィンはまるで砂糖でできた人形を抱きしめるかのように、そのたくましい両腕で彼女を包み込みやさしく抱きしめて、何度も彼女の名前を呼んだ。
あまり力強く抱きしめて、彼女が壊れてしまうといけないから。

「さっき、世界で一番美味しいケーキを食べたんだけどね・・・大きなケーキだから、あと半分くらい残ってるんだ。よかったら一緒に食べないか。もらい物で、少し形が崩れてしまってるんだけど、最高に美味しいんだ。すっかり忘れていたんだけど、実は今日は、私の誕生日でね・・・」

エルヴィンはまだ泣き止まないなまえをあやすように彼女の背中を撫でながらそう言ったのだけど、なまえはその言葉を聞いて、ますます泣きだしてしまった。


おわり

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