スウィーティ・パイ/1




濃い飴色の分厚いドアをゆっくりと二度ノックすると、なまえは息を整えるように深呼吸をした。
いつも通り、「どうぞ」と、部屋の主の穏やかな声が返ってくる。
失礼しますと言いながら、なまえは分厚い書類の束を胸に、重たいドアを押し開けた。

「エルヴィン団長、書類をお持ちしました・・・」

よたよたと開いた大きなドアから覗いた小さな顔に、エルヴィンはそっと顔をほころばせた。

ついひと月前に調査兵団の事務員として雇われるようになったなまえはこの役を命じられた日から、毎日こうしてエルヴィンに事務室から彼宛の書類を届けている。
つまり、彼女は事務仕事のうちの一つとして、この団長室と事務室とを結ぶ、伝書鳩のような役割をしている。
事務員たちの伝統として、この仕事は新人が代々受け継いでいるのだそうだ。
どんなに使えない新人でも書類を運ぶことくらいはできるだろうということと、広い本部の中を早く覚える為らしい。
事務室とエルヴィンの間でやりとりする書類はとても多いので、先輩事務員にとってはそれをいちいちこの広い本部を歩き事務室から遠く離れた団長室まで持っていく手間と時間が省けるのがとてもありがたいことのようだ。
そんなわけで伝書鳩のなまえは一日何度もこの団長室を訪れるのだけれど、それでもなかなかここに来ることには慣れない。
どうしてもどきどきとしてしまう心臓は、今でもこの部屋に入るなまえの視線を落ち着かせてくれない。
だけど彼女にとってはこの部屋は、同時に、この本部でただ一つ、心があたたかくなる場所でもある。

「いつもありがとう、なまえ」

たとえるならばまるでそのふわりとしたやさしい笑顔でわたあめでも作れてしまいそうな程にやわらかく微笑みを浮かべると、やっぱりいつも通りにエルヴィンはなまえから書類を受け取った。
今回は彼から事務室へ持っていくよう頼まれる書類はなさそうだ。
彼の微笑みになまえはほんのり頬を赤く染めうつむき小さく微笑みを返すと、お辞儀をしてドアの方へと向かった。
団長室の石造りの床を一歩ずつ、踏みしめるようにしながら歩く。
会釈をして音を立てないよう丁寧にドアを閉めると、彼女はまだ熱い胸を手で押さえてそれを落ち着かせるように、大きく息を吐き出した。


小さな頃からあまり要領のいい方ではないなまえは、一日中先輩から小言をもらいながら、しょんぼりしながらもなるべく前向きに、毎日仕事をしている。
手続きの為事務室を訪れた兵士への対応が遅い、指示を仰ぐタイミングが悪い、分からないことを自己判断するな、一度説明したことを二度言わせるな、書類の処理が遅い、整理が悪い、などなど。
なまえは精一杯働いているつもりだけれど、やっぱり先輩たちのようにはてきぱきと仕事をこなせない。仕事について、理解しきれていないこともまだまだたくさんある。
自分の要領の悪さもよく分かっていたから、先輩たちに小言を言われても、多少理不尽に怒られても、きちんと反省して毎日彼女なりに必死に仕事をしていた。
たまに針のむしろのようにも感じられてしまう事務室から唯一仕事で出られる機会が、団長室に書類を持って行く時だ。
てきぱき仕事のできない自分が悪いのだと思っていても、やっぱり怒られっぱなしではしょんぼりとしてしまう。
一旦事務室を出られるという事はいい気分転換になっていたし、エルヴィンに書類を手渡した時に彼からもらえるやさしい言葉と穏やかなその笑顔が、この調査兵団で彼女を励ましてくれるただひとつのものだった。



前任の“伝書鳩”の先輩に連れられて初めて団長室を訪ねた時、大きな椅子に深く腰掛けていたエルヴィンはなまえの顔を見てわざわざ席を立つと、なまえの前までやってきて、その大きな背をまるでお姫様に挨拶をするかのように物腰柔らかくかがめて手を差し出した。

「これからよろしく、なまえ」

視線を合わせて微笑みかけたエルヴィンに、彼女は「はい」と消え入りそうな声で答えるのが、精一杯だった。
ぎこちなく手を出すと、なまえは赤らめてしまった顔が彼にも先輩にも見られないよう、自分の手を包む彼のあたたかくて大きな手をじっと見つめた。

なまえは初めて間近にエルヴィンを見た時、まるで小さな頃に読んでいた絵本に出てくる王子様のようだと思った。
艶やかな金色の髪、よく晴れた空のように青くて大きな瞳、やわらかな笑顔。大きな背にがっしりした体格も合わせて、床に広げた絵本の挿絵をじっと覗き込んでは憧れていた王子様にそっくりだと思った。
今でもエルヴィンを見るたび、何度でも、なまえは無意識に胸をときめかせてしまう。
二人の歳は10以上は離れているのだろうけれど、それが却ってエルヴィンをなまえにとって、絵本の中にいる王子様のような、憧れの存在にさせていた。



その日のお昼前、とてもショックなことがあった。
先輩のしたミスを自分のミスと間違われて、こっぴどく怒られてしまった。
どうしても「それは自分ではありません」と言えなかったなまえは事務室で泣いてしまいそうになるほど、先輩の代わりにみんなの前で激しく上司に怒られた。
やっと上司の怒りから解放されてその先輩と目が合った時、先輩は真っ青な顔をして、なまえから目を逸らした。
そのせいでなまえがますます泣きそうな気分になってしまった時、ちょうど、お昼のベルが鳴った。
あまりにも上司が激しくなまえに怒るものだからしんとしていた事務室はそれをきっかけにいつも通りの雰囲気に戻った。
お昼に行こうと口々に事務員たちが話し食堂へ移動する中、なまえは一人本部を抜け出した。
今はどうしてもここにいると泣いてしまいそうだと思ったし、午後からまたしっかりと働く為にも、気分転換をしたいと思ったから。

お昼に本部を抜け出してランチに出掛ける兵士や事務員も多いから、お昼に外へ出掛けるというのは別に悪いことではない。
けれど新人のなまえにとっては、こんな事件でも起きない限りは昼に外に出ようなんて勇気は出なかっただろうし、ましてや一人で行くなんてことはありえなかっただろう。
ドキドキしながら町を歩くと、彼女はお気に入りのケーキ屋の前で足を止めた。
そこは、小さいけれど、彼女が世界で一番おいしいと思っているケーキ屋だった。
お昼時だからか、ケーキが食べられるカフェスペースには他に客はいなかった。
なまえは端っこのテーブルに、壁向きに座った。
いつものぽっちゃりとした女性店員に、ケーキと紅茶を注文する。
あたたかい紅茶と、ケーキを、3つ。
ぽっちゃりとした店員さんは、2つめまではにこにこと注文を聞いてくれたのだけど、3つめのケーキの名前を口にした時にはさすがに驚きの表情を浮かべていた。
もちろんいつもは1つしか頼まないのだけれど、今日はお昼ご飯の代わりだし、たくさんケーキを食べたい気分だった。
注文したケーキが運ばれてきたので最初のケーキを口にする。
フォークで運べる限界くらいの大きさを、口に運んだ。

(・・・・・・甘い。おいしい・・・)

口の中でほろりと甘さが溶け出すと、なまえの口からはぽろぽろと涙が零れ落ちた。
壁を向いて座っているから、お店の人にも見えないだろう。
その甘さとふわふわとした食感が、今日はとてもとてもやさしいものに感じる。
まるで、さっきエルヴィンが彼女に向けてくれた、やわらかくてやさしい微笑みのようだった。

本当はさっき、とても辛かった。
本当はさっき、みんなの前で泣いてしまいたかった。
本当はさっき、先輩に、あんな風に目を逸らされてしまって、辛かった。

悲しくてカチカチになってしまった心が、口の中のその甘くてやさしい味で、ほどかれていくような気がした。
なまえは次々と口にフォークで運べるギリギリいっぱいの大きさにしたケーキを入れていく。
ぱくぱくと食べていると、ぽろぽろこぼれてくる涙もいくつか一緒に口の中に入ってきていた。
だけどもう、さっきほどは辛くない。
ケーキを食べるたび、涙が流れるたび、心はやさしい気持ちでいっぱいに満たされて、辛かった気持ちが軽くなっていくような気がした。

頼んだすべてのケーキを綺麗にたいらげて店を出ると、なまえはすっきりとした気持ちで大きく深呼吸をした。
ここのケーキはやっぱりとってもおいしかった。
たくさん食べれてとっても幸せな気分になれた。
だから、午後からもお仕事を頑張ろう。
なまえは前を向くと、ぴんと背筋を伸ばして、本部に向かって歩き出した。



「・・・なまえ、今日のランチはおいしかったかな?」

書類を受け取った方とは別の方の手で口元を隠しながら、エルヴィンはなまえに言った。

「・・・えっ?」

昼一番にエルヴィンへの書類を持っていくよう言われて団長室を訪れていたなまえは、彼の言葉に目をぱちくりとさせた。
エルヴィンは笑ってしまった口元を隠したかったらしい。
くっくっと笑いながら、エルヴィンは自分の口元をトントン、と指差した。

「えっ!?」

なまえは目をぎょっとさせて大きく開けると、自分の口元を拭った。
手のひらを見てみると、クリームとチョコレートらしきものがべっとりと付いていた。

(しまった・・・!ケーキだ・・・!!)

夢中になってケーキを食べていたから口にべっとりとクリームやなんかが付いていたらしい。
顔を真っ赤にすると、なまえはポケットからハンカチを取り出して、ごしごしと力いっぱい口元を拭いた。

「すっ・・・すみません・・・!お恥ずかしいです・・・」

さっきとは全く別の意味で泣きそうになったなまえが頭を下げると、エルヴィンは「いやいや」と軽く手を振った。

「今日は何を食べたんだい?」

やっぱり穏やかな口調で彼がそう尋ねてきたので、なまえは恥ずかしくてたまらなかったのだけど、「ケーキです」と小さな小さな声で答えた。

「ケーキ?・・・ああ、ケーキのクリームが付いてたのか」

はは、とエルヴィンは笑った。
顔から火が出そうな程に恥ずかしい。
食べた個数まで聞かれることはなさそうだったので、なまえは安堵した。

「昼からケーキとはうらやましいね。どこの店に?」

そんな質問が来るとは思っていなかったなまえは、また目をぱちくりとさせてから、答えた。

「本部から西へ歩いて5分くらいの、お店です。ピンク色の看板の・・・小さなお店なんですけど・・・」
「西?ううん・・・知らないなぁ」
「あ・・・あの、個人的には、今まで食べた中でもダントツに美味しくて・・・世界で一番、ケーキのおいしいお店だって思ってます・・・!」

遠慮がちに、でも大きな主張を、赤い顔のままの彼女がすると、エルヴィンは素直にそうか、と答える。

「実は私もケーキが好きでね。行ってみたいなぁ」
「!良かったら、地図を書きますよ」

はきはきと、なまえが言った。
さっきまでの恥ずかしそうな表情はすっと消えていた。
ここに来るたびいつもどこか恥ずかしそうにしている彼女がそんな表情を見せるのは初めてだったので、エルヴィンはその青い目を細めた。

「いや、なまえさえ良かったら、私をそこへ連れて行ってくれないか」
「えっ?」
「男一人ではなかなかケーキ屋というのは行き辛くてね。君が一緒に行ってくれるのなら、私も行きやすいんだけどな。」

なまえは一瞬で自分の体温が一気に上がったのが分かった。
あのエルヴィンが、自分と一緒にあのケーキ屋へ行きたいと言っている。
せっかく元に戻った顔はまた真っ赤になってしまった。
予期せぬ彼の言葉に何と返せばいいか分からなくて、なまえは口をまごつかせた。

「こんなおじさんと一緒にケーキ屋に行くなんて、イヤかな?」

答えあぐねている自分にもう一押しをしてくれたエルヴィンの言葉に、なまえは混乱してしまうほど嬉しかったのだけどなかなか上手い答えが思い浮かばず、たどたどしく口を開いた。

「そ、そんなこと、ないです。あの、私、エルヴィン団長のこと、おじさんとか、思ってないですから・・・!」

あれ?間違えた。
ケーキ屋に一緒に行こうと言われたことに対して返事をしたかったのに、エルヴィン団長のことをおじさんと思ってるかどうかを答えてしまった。
なまえは真っ赤な顔を、今度は真っ青にした。
彼女はエルヴィンに失礼なことを口走ってしまったと思ったのだ。
顔を真っ青にして自分を呆然と見ているなまえをきょとんと見つめてから、エルヴィンは思わず吹き出した。
急に笑い出したエルヴィンに、なまえは後悔でいっぱいだった頭の中を今度ははてなでいっぱいにして、不安そうに彼を見つめる。

「はは・・・ありがとう、なまえ。嬉しいよ。」

くったくなく笑うエルヴィンを見るのが初めてだったので、なまえは彼が怒っていないと分かって安堵したのと一緒に、胸をどきどきとときめかせた。

「あ、あの、・・・すみません。行きたいです。エルヴィン団長さえよければ・・・」

やっとしっかり質問に答えられた彼女の言葉は、肝心な最後の言葉に近付くにつれどんどんと小さくなっていってしまった。
まだ笑っているエルヴィンは、良かった、と言った。
そして彼が、今度の休みはどうかな?と付け加えたので、なまえは真っ赤な顔で、大丈夫です、と答えた。やっぱり、とても小さな声で。



団長室を出てもなまえの心拍数は全く治まらなかった。
熱い顔をぱたぱたと手で扇ぎながら、早足で事務室へ向かう。
さっきあそこで起きたことが、まるで夢のように思えた。
エルヴィン団長と、大好きなあの店で、大好きなおいしいケーキを一緒に食べられることになってしまった。
さっきまであんなにもしょんぼりしていたくせに、自分は何てゲンキンなんだろう。
あの後エルヴィンから持っていくよう頼まれた書類は、事務室長に渡す頃には熱くなっていたなまえの手汗で持っていた部分が少しだけ湿ってしまっていた。

「なまえ・・・さっき、私のせいで怒られちゃって・・・本当にごめんね」

事務室長に書類を手渡した後なまえを給湯室へ呼び出した先輩が、泣きそうな顔でそう言った。
お昼前、上司になまえがひどく怒られた原因になったミスをした先輩だった。

「私なんですって、あの時言えなくて・・・」

ごめんね、ごめんねと先輩が繰り返すので、なまえは逆に恐縮してしまった。
そんなこと気にしないでくださいと話していると、先輩たちが集まってきて、今日お昼何で来なかったの、心配したよと話し掛けて来てくれた。
なまえは嬉しくて思わず泣きそうになってしまったのだけど、ぐっとこらえて、ごめんなさいと答えた。
あの時一人になりたいと思ってしまったことが、とても申し訳ないことのように感じた。
あんなに辛かったお昼前の気持ちがウソのように、まるでお昼休みにあのお店のケーキを食べたときのように、なまえの胸はやさしい気持ちでいっぱいに満たされていた。


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