今日もうちのお店に“あの人”が来た。 彼がうちに来て頼むものはいつも決まっている。 コーヒーと、今日のおすすめケーキ。 ケーキはうちの父の特製のケーキで、毎日3〜4種類をショーケースに並べている。贔屓目抜きにとても美味しいと思う。 “あの人”は小柄で静かな印象だけど、鋭い目で眉間にいつも皺を寄せて難しい顔をしている彼がそれを注文するのは何だかほほえましい。 黒髪をさらりと揺らしてコーヒーカップを傾ける彼の横顔は、とても綺麗だ。 彼がいつも一人でこのカフェに来てくつろいだ雰囲気でお茶をするのを眺めるのが、密かな私の日々の楽しみになっている。 この店を手伝うようになってからしばらく経つからか、父は最近私に厨房も手伝えと言うようになった。 今まではウエイトレスと、お茶とかコーヒーを淹れたりとか、それくらいのことしかしていなかったから。 お料理は嫌いじゃないけど、お店でお金を出して食べてもらえるようなものが作れるとはとても思えなくて、私は尻込みしていた。 それなら菓子から始めるか、と父が言ったので、私は最近開店前と閉店後の時間を使って、お菓子をこそこそと作るようになっている。 いつかケーキを作れるようになってショーケースにそれを並べて、“あの人”におすすめして食べてもらえたら。 そう思いながら毎日少しずつ、自分の中では勉強を重ねているつもりだ。 その日は珍しく父と母に急用ができたというので、店は臨時休業ということにしていた。 私はせっかくの機会だからと、朝早くから店の厨房でお菓子作りに勤しんでいた。 2種類のカップケーキ、スコーン、タルトケーキ。 今日はその三つを何とか作ろうと朝から張り切っていた。 初っ端に気合を入れて作ったカップケーキは、焼いてみると上手く膨らまず不本意な出来だった。 アイシングをして見た目は可愛くしてみたけれど、やっぱりあまりおいしくなかった。 気持ちを切り替えて作ったスコーンを焼き始めたその時、店の戸が叩かれる音がした。 気が付いた私は、厨房からそちらに視線をやる。 “あの人”だった。 彼が何をしている人なのかは定かではないけれど、不思議なスパンで彼はうちに来ている。 何週間か来ない日が続いて、また顔を出してくれると平日・休日・時間もばらばらにうちに通ってくれる。 彼が来るタイミングというのはなかなか計れない。 この何週間か彼の姿を見ることのなかった私は、ガラス越しに見た彼の姿に胸を少しだけ、高鳴らせた。 どきどきしながら、戸に向かっていく。 “あの人”は中に私の姿を見つけて、ノックを止めた。 「今日は、休みか」 ドアを開けると、彼はそう言った。 “定休日”と書かれたプレートが下げてあるのに。 「定休日は昨日だと思ったが」 「あ、そうなんです。父と母が急用で――――」 そうか、と言うと彼は諦めたような顔をした。 私は少しだけ期待をしてしまったことがあって、胸に浮かんだちょっとした勇気を、出してみることにした。 「あの・・・お久しぶりですね」 あぁ、と彼は少し意外そうに答えた。 彼と私は、殆ど話したことがない。 店員が客に話す最低限度くらいの会話しかしたことはない。 だって彼はあまりおしゃべりが好きそうじゃないし、見た目は話しかけやすいタイプじゃないし。 「もし良かったら・・・コーヒー、飲んでいかれますか?ケーキはありませんけど・・・」 せっかくいらして下さったので、と付け加えると、彼はやっぱり少しだけ意外そうな顔を浮かべたまま、店の中に入った。 「悪いな」 誰もいない店内で定席に腰掛ける彼にコーヒーを出すと、彼は静かに言った。 「いえ、久しぶりにいらっしゃったので何だか嬉しくて。・・・あっ!」 突然大声を出した私に、彼は鋭い目を丸くした。 「す、すみません。オーブン使ってたこと忘れてて。失礼します、ごゆっくり」 私は慌てて厨房に戻った。 この店に彼と二人きりというシチュエーションにどきどきしてすっかり忘れていたけれど、スコーンを焼いていたのをすっかり忘れていた。 ばたばたとオーブンに駆け寄り蓋を開けると、ふっくらと立ち上がったスコーンが焼きあがっていた。 良かった、と私は胸を撫で下ろす。 (あ・・・・・・) これは、チャンスじゃないの。 私の作ったケーキを“あの人”に食べてもらえる第一歩じゃないの。 そう思うと、目の前のスコーンに手を伸ばすのに、何だかとてもどきどきとしてしまう。 熱い焼きたてのスコーンを半分に割り、口に運んでみた。 外側はざくっとして、中はしっとり。 うん、理想に近いんじゃないの。 思ったよりも良かった出来に、私は少し落ち着かない気分で客席の“あの人”を見た。 ・・・食べてもらおう。 絶好のチャンスだ。 「あの・・・もし良かったら、食べられませんか。スコーン・・・」 皿に焼きたてのスコーン2つと小さな器にそれぞれジャムとクロテッドクリームを乗せてテーブルに置くと、彼はうちに持ち込み読んでいた新聞から顔を上げた。 「焼きたてなんです」 彼が戸惑う風にしたので、私は少し押してみた。 カサ・・・と音を立てて彼は新聞をたたむ。 「・・・すまねぇな」 「い、いえ。その・・・試作品なので、お気になさらず・・・」 私は彼の顔色を窺うように、どきどきとしながら彼を見つめた。 彼が口にするまでここにいようか。 いや、彼の反応を見るのが怖いから、さっさと厨房へ戻った方がいい。 スコーンを作れたから、今度はタルトケーキを作ろう。 私は落ち着かないまま厨房に戻り、タルト生地を作る準備を始めた。 テーブルの上に卵やボウルを揃えてから、厨房の端から踏み台を引きずり持ってくるとそこに乗って、高い棚に乗っている小麦粉を引っ張りだそうとした。 さっき作ったスコーンですっかり小麦粉がなくなってしまったのだ。 踏み台であの棚に手が届く身長のある父親と違い、私は踏み台だけでは棚には手が届かなかった。 仕方ないので勝手口に置いていた木の箱を持ち出して、その上に置く。 踏み台と木箱がかみ合わず、グラグラガタガタと踏み台が揺れる。 あと少しで手が届くのに――――― 「おい、」 “あの人”の声が後ろから聞こえた時、私はタイミング良く踏み台から落ちてしまった。 どしんと音がして、目の前が真っ白になる。 そこから落ちた私のお尻からは声が出ない程の痛みがじんじんとする。 それから、どこかにぶつけたのか、腕も――――― 「・・・大丈夫か」 呆れたように、目の前にしゃがんだ“あの人”が私の顔を覗き込んだ。 客席から私がグラグラとしながら小麦粉を取ろうとしていたのが見えていたのだろう。 「す、すみません、大丈夫です・・・」 ウソだ。 一人だったら多分泣いていたくらいに痛い。 半泣きの顔を隠そうと額に手をやると、べとり、とおかしな感触がした。 「・・・ん?」 手を見てみると、白いものがついていた。 まさか、と思い舐めてみると、クロテッドクリームの味がした。 はっとして周りを見ると、クロテッドクリームを入れていたボウルが転がっている。 多分落ちた時、テーブルの上に置いていたそのボウルを手に引っ掛けてしまったのだ。 よく思い出してみると、落ちた時に頭に何かが当たった気がする。 それが多分、クロテッドクリームを入れていたボウルだったのだ。 自分の体を見てみると、腕にも服にもクリームが付いている。 「あぁっ・・・!勿体無い・・・!」 私は更に泣きそうになった。 クロテッドクリームを作るのはとても難しくて面倒だというのに。 悲しくて情けなくてでもどうしようもなくてただ動揺している私の隣で、ふっと笑う声が聞こえた。 そうだ、“あの人”がいたんだった。 「そんなもんよりてめぇの心配をしろよ」 「・・・あ、すみませ―――――」 そう言って彼に視線を戻した時、初めて見るやわらかい笑みを浮かべた彼の顔が見えた瞬間、それはすぐに見えなくなった。 遅れて、ぺろり、と額が舐められた感触がする。 「・・・うまいな」 再び見えた彼の顔は、やっぱりやわらかく笑っていた。 (・・・いま、・・・いま・・・!?!) 額を、彼に舐められた。 私は急に顔が熱くなって、何も言えなくなってしまう。 「勿体無くないように、してやろうか?」 やわらかい表情を少し意地悪くすると、彼はそう言った。 「あ、あの―――――」 あたふたと言葉を探すよりも早く、彼の唇が私の唇を捉える。 ぺろりと私の唇を舐めて彼が顔を少し離したので、私はたどたどしく、言った。 「く・・・口に、付いて、ました?クリーム・・・」 「さぁな、」 意味深に笑い、彼は再び私にキスをする。 彼の舐めたクリームの味が、私の口にも伝わってくる。 このキスが甘いのか、クリームが甘いのか分からない。 ただ、それは本当にとろけてしまいそうな感触で、私はただ目をとろんとさせて、彼のキスを味わった。 「親父さんに怒られちまうな」 ニヤリと笑うと彼は顔を離し、側に転がっていたボウルを手に取ると立ち上がった。 ボウルをテーブルへ置くと、彼は私に手を差し出す。 緊張で震える手でそれを掴むと、私はゆっくりと立ち上がった。 やっぱりお尻と腰がじんじんとしている。 「うまかった・・・スコーン“も”」 彼は口角を小さく上げると、私に背を向けた。 背を向けてくれてよかった。 私の顔は真っ赤になっていたから。 ・・・おいしかったのは、スコーンと、何ですか・・・? 彼は客席の方へ進み、厨房のカウンターに代金を置く。 いつものコーヒーとケーキの値段分だけ。 「あ、スコーンはサービスで――――」 私は服についたクリームをタオルで拭きながら、慌てて言った。 いいや、と言い、彼はそのままテーブルに向かい、持ってきた新聞を手に取る。 “あの人”が帰ってしまう。 私はまだ胸をどきどきとさせたまま、勇気を出して、彼に話しかけた。 「あの・・・普段、何をしていらっしゃるんですか」 彼はいつもの難しい表情で、私を振り向いた。 新聞を脇に挟み、静かに口を開く。 「・・・兵士だ」 「兵士・・・駐屯兵団とか、ですか?」 「・・・いや」 「憲兵団・・・」 ちがう、と彼は言う。 「じゃあ、調査兵団ですね・・・?」 彼は沈黙を返した。 変な空気が流れたのが分かったので、私は誤解されているのではないかと早口で続ける。 「あの、尊敬してます。調査兵団の皆さんのこと・・・勇敢で、壁の中の希望だって、思ってます」 調査兵団の協力者も一定数いるのだけど、なかなか目に見える成果が上がるものではないものだから、彼らを悪口を大っぴらに言う人も多い。 私はもちろん彼らのことを悪くなんて思っていないから、彼に誤解をされたくなくてぎこちないながらも、そう話した。 けれど、“あの人”は黙っている。 一体何を話せば、このおかしな空気がさっきのようにやわらいでくれるのだろう。 「リヴァイ兵士長って・・・いらっしゃるんですよね。最強の兵士だとか・・・。」 調査兵団についての共通の話題を探ろうと、誰もが知っている英雄の名前を出して、彼の顔色を窺ってみた。 「・・・あぁ・・・大したことねぇよ、別に」 「えっ、でもすごい方なんだって伺いましたよ。難しいことは分からないですけど・・・何でも一人で一旅団並みの兵力だって・・・それって、すごいことですよね?お知り合いなんですか・・・?」 「・・・まぁ・・・」 私は彼が口を開いてくれるようになったので、ほっとしてその話題を続けることにした。 「そうなんですか・・・やっぱり英雄だって言われるだけあって素晴らしい方なんでしょうね」 「・・・そうでもねぇよ」 「そういえば友人が以前調査兵団の皆さんが壁外調査に向かわれるところを見送ったとかで、お見かけしたって言ってました。金髪碧眼で、すごく背が高くて、筋肉隆々で、いかにもヒーローって感じのダンディーでとってもカッコ良い人だったって―――――」 「・・・・・・・・・」 「本部って割とここに近いから、うちに自慢のケーキでも食べに来てくれないかなってはしゃいでたんですけど。ケーキなんて食べてたら何だか幻滅しちゃうって友達が笑ってました。それくらいカッコイイ人なんですね」 「・・・・・・・・・」 ・・・やっぱりプライベートな事には立ち入ってはいけなかったんだろうか。 それ以上話したくない、という空気がなんとなく彼から伝わってくる。 ごめんなさい、立ち入ったことを話して、と私は謝った。 「いや、別に・・・。・・・じゃあな。今日は悪かった」 いえ、と私が答えると、彼は戸を開けた。 カラン、とベルが鳴る。 胸をぎゅっと握り、私は最後にもう一度、勇気を出した。 「あの!・・・お名前、何ておっしゃるんですか?」 彼はぴた、と止まり、私を振り返る。 「・・・お前の、名前は」 「あ・・・すみません。なまえ・みょうじといいます・・・」 「なまえ・・・いい名前だ」 「・・・あなたの、お名前は・・・?」 どきどきとしながら、彼の目を見た。 彼はどうしようか考えるように、私の目をじっと見つめている。 やっぱりさっきの会話で気を悪くされてしまったのだろうか。 ・・・どうか、教えてください。知りたいです。あなたの名前を―――― 「・・・・・・ジャン」 「・・・え?」 「ジャン・キルシュタインだ」 「ジャン・・・さん。ジャン・キルシュタインさんって、おっしゃるんですね」 「・・・あぁ」 “あの人”の名前を、やっと知ることができた。 私は噛み締めるように、彼の名前を呼ぶ。 「またいらっしゃってくださいね、ジャンさん・・・。」 頬を赤らめたまま、私はぎこちなく笑った。 ジャンさんは「じゃあな」と言うと、戸を閉め、歩き出した。 カラン、とまだ小さく鳴っているドアベルの余韻に浸りながら、私は窓からジャンさんが歩いていくのを見つめた。 少し離れたところでジャンさんはこちらを振り返ると小さく手を上げたので、私は胸がいっぱいになった。 (ジャンさん。ジャンさんっていうんだ。) 背を向けた彼は少し頭を垂れて、額に手を当てていた。 まるで、がっかりした時のような仕草。 何故彼がそんな仕草をしたのか私には分からなかったけれど、その時の私はただ幸せで胸がいっぱいだった。 ――――とうとう、彼の名前を知れた。それから、キスまで、されてしまった。そして、私の名前をいい名前だと言ってくれた。 『なまえ・・・いい名前だ』 低い声で紡がれた彼の言葉、それから甘くてとろけるような彼のキスを思い出すと、胸が甘く痺れる。 彼がキスをしてくれた私の唇は、少し舐めてみるとまだクリームが付いているみたいに甘い。 ――――これから彼に、もっと近付ける気がする。 見えなくなった彼の背中をいつまでも探すように私は窓の向こうを眺めながら、やっと知ることのできた“あの人”の名前を心の中で繰り返した。 ( ジ ャ ン ・ キ ル シ ュ タ イ ン ) おわり back |