浮 か れ チ ェ リ ー / 5-2




「ここにいると思った」

もう、随分夜も更けてからだった。
器具庫に現れたなまえは戸口につっかえ棒をして、壁を向いて座り込んでいるジャンに、後ろから声を掛けた。
彼女が現れたことにとても驚いたけれど、ジャンは黙り込んでいた。
彼女に合わせる顔がないと思っていたからだった。

「変なことに巻き込んでごめんね・・・怪我、大丈夫だった?」
「・・・痛ぇけど、何ともねえよ・・・」

ほんとに?となまえは言い、ジャンの顔を覗き込むように座った。

「お前は、大丈夫なのかよ」
「うん、大丈夫。ジャンが守ってくれたから・・・」
「・・・守った?ふざけんなよ。オレは何もしてねぇよ。なまえが教官呼びに行ったからあいつらが治まっただけだろ・・・」

ジャンは吐き捨てるように言った。

「あーあ、マジカッコ悪ィよ。お前も分かってるなら来るなよな」

ふてくされたように、彼はなまえから顔を反らす。
昼間の事件から、ジャンは自分に苛立って仕方なかった。
彼女を守る為に自分は何もできなかったと。
鼻がツンとしてきて、ふいに泣きそうになる。
ああ情けない。これ以上カッコ悪いところは彼女に見せられない。
スン、とジャンは鼻をすすった。

「ジャン、聞いてほしいことがあるの。あなたにだけ、話すわ」

なまえは静かに言った。
けれどその言葉に、彼女の何か大きな決意が感じられて、ジャンはなまえを見る。
妙な胸のざわめきを覚えつつ。

「私ね、訓練兵を辞めることになったの」

ジャンは瞼が切れて痛い片方も一緒に、両目を見開いた。
何も言う事ができなかった。
一体彼女が何を言っているのかも、理解できなかった。
教官とあのガラの悪い連中と話して、結果がそうなったということなのか?

「―――――どういう、ことだよ、・・・それ・・・」

ジャンは眉を寄せた。
胸のざわめきが大きく彼に押し寄せる。

「きっとジャンも聞いたことあると思うんだけど・・・。」

なまえは座り込む自分の膝を見るようにして、淡々と、話し出した。

噂通り、自分が内地の娼館で生まれたことは本当であること。
母親はもちろんその娼館で働いている娼婦であったこと。
その母親はもう他界していること。
そして、自分はそこから逃げ出して、この訓練兵団に入ったこと。
彼女を逃がしたのは彼女をそこから身請けしようとした、母親の恋人だった娼館の客だという。
彼は幼いなまえがそこで働くのを不憫に思い、彼女をそこから何とか出してやろうと画策してくれた。
娼館に約束の金を払ったものの、詐欺紛いにさらに金を要求されてどうしようもなくなり、命からがら彼女を逃がしたらしい。

ジャンはどこか遠い国のおとぎ話か安っぽい小説のようなものを聞かされているような気がして、とても目の前にいる自分の愛しいなまえの身に実際に起こったこととは思えずに、半ば呆然と話を聞いていた。

「・・・待てよ。全然分かんねぇ・・・」

頭を抱え込むジャンに、なまえは困ったように微笑んだ。

「それが本当だとしてだ、お前は訓練兵を辞めるっつったよな。・・・つまりなまえ、お前は――――――」
「そう、生まれ育った娼館に戻るのよ」
「――――バカな事、言うなよ!お前、自分が何言ってるか分かって―――――」

彼女は真っ直ぐに自分を見据えていた。
必死に彼女にそう言ったのだけれど、その目を見て、分かっていないわけないな、ジャンは一瞬でそう思った。
彼女は考えに考えた末の決断をもうとっくにしていて、それは彼女の中でゆるぎないことなのだ。
普段のなまえより更に大人っぽくみえる彼女のその表情が、それを物語っていた。

「――――大体、お前を逃がそうとした男は今何をしてるんだよ。随分無責任じゃねぇか」
「その人は、ジャン。あなたがこの間町で見かけた、私と一緒に歩いていた人よ」

それは、この間、町に外出したときのことを指しているとすぐに分かった。

「・・・お前、気付いてたのか・・・?」
「あんなに大きな声で騒いでいたら・・・」

なまえは笑った。
そして、ありがとう、と言った。

「私とあの人が、他のみんなに見付からないように気を遣ってくれたんでしょ?」
「・・・ああ・・・、まあ・・・」

そうか、あの男が、なまえを娼館から逃がそうとした男だったのか―――――
彼女の幸せそうに浮かべていた微笑みが蘇り、ジャンの胸がきつく痛む。
そして、頭のいい彼に1つの予測が生まれた。

「なまえ、そいつをかばってるんじゃねえだろうな?」

彼女は黙って小さく目を細めた。

「お前さ・・・あいつらに囲まれたとき、ウソつくんじゃねえよ・・・“ちゃんと戻るから”とか・・・よくそんな心にもないウソを言えたもんだ」
「・・・・・・・・・」
「オレはそんなに頼りない男かよ。・・・そりゃそうだよな、あいつらに囲まれて、オレは無様に殴られるしかできなかったんだから」
「そんなことないよ、ジャン。私はジャンのおかげで―――――」
「聞きたくねぇよ。オレが言いたいのは、他人のためにお前が身を差し出すっていうのが――――その男だって、お前を守りたいと思ってるわけで―――――」

たぶん、その男の身の安全を保障してやるから戻って来いとでも言われたのだろう。
それにしたって教官たちも頼りにならない。
筋を通せば、もちろん逃げ出したなまえたちも悪いということになるのだろうが――――――

「オレは、イヤだ。なまえがそんなところで働かされるなんて・・・絶対に、イヤだ。絶対に、絶対に――――――」

「・・・ジャン」

なまえはジャンの手を取った。
やっぱり彼女の手はしっとりとして、ひんやりとしていた。
両手で大切そうに、ジャンの両手を包み込む。

「ジャン、私ね、あそこで生まれて育ったから、“外”の人たちよりも、そこで働くことに抵抗がないのよ。生まれてからずっとあそこにいたから、そこがどんな場所で、どんな人たちがきて、どんな日常なのか・・・全部、私にとっては普通なことなのよ」

まるで駄々っ子を諭しでもするように、なまえはやさしく、静かに語りかける。

「だから、ちっとも私は辛くないの。・・・だから、ジャンが泣く必要はないのよ――――――」

ジャンは、頭を垂れて背中を揺らし、みっともなく泣いていた。
大粒の涙がもういくつも流れて滝のようになっていたし、鼻水すら垂れていた。しかも両穴から。

「どうしようもないの。しっかりカタを付けずに逃げ出した私が悪いのよ。だから、元の場所に戻るだけなの。あなたを巻き込んで、辛い思いをさせて、本当にごめんなさい」

彼の手をやさしく包み込むなまえの手のひらにも、彼の涙がぽたぽたと落ちる。

「・・・なまえ・・・。オレは、・・・まだガキで・・・。」

両目と鼻水を袖で乱暴に拭って、しゃくり上げるように、ジャンはたどたどしく口を開く。

「何も、できなくて・・・。お前に何も、してやれなくて・・・・・・」

なまえに包まれている手の中で、ジャンはギュッと拳を握った。
情けない。自分は一体何を泣いているんだろう。辛い決断をしたのはなまえの方だと言うのに。
だけど、その彼女の決断をどうしても受け入れることができない。
でも、自分にはどうしてやれることもできないということも痛いほど分かる。
あのガラの悪い男たちにボコボコにされたときのように、悲しいほどに自分は何もできなくて、ただ無力だ。

ふわりと頬を撫でられて、ジャンは顔を上げた。
なまえの細い指が、彼の涙を拭う。
ジャンは瞳を揺らし、彼女を見つめた。
ゆっくりと、彼女の顔が近付いて来る。

そして、“やさしく、そっと――――――”

ジャンの涙で濡れた唇に、彼女の唇が触れた。
この間と違ったのは、それが大人のキスだということだった。
彼女はジャンの唇をやさしく食むように口づけをする。
涙に濡れて冷えた彼の頬が、熱を帯びる。
少し唇を離し、なまえは「もしも私を汚いと思わなければ」、と小さく言った。

「ジャン。あなたに触れてほしい、私に」

ジャンは少し涙がおさまっていたというのに、その言葉にますます顔を歪めた。

「・・・何が汚いって言うんだよ」

きっと自分は今ものすごくみっともない顔をしているんだろうな、とジャンは思った。

「なまえは、きれいだ。誰よりも、きれいだ」

その言葉に彼女がその美しい瞳にすうっと涙をためたことが分かったので、ジャンはますます心が昂った。
そして、彼女の唇を奪うように、キスをした。




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