最近のジャンはすっかり猥談に加わらなくなった。
男子たちは彼の変化に気付いていた。
ハッタリと分かっていてもあいつの猥談はなかなかソソるものがあって面白かったのに、と惜しむ声も上がる。
皆で輪を作り手をこまねいても、一瞥するとすぐ振り返り、小さくため息をつく。
気取りやがってと憤慨する者もいたが、彼の変化に、猥談仲間たちは首をひねっていた。

ジャンがその輪に加わらなくなったのは、よくターゲットにされるなまえの名前を聞きたくなかったからだった。
もちろん一人で「いたして」いたし、猥談はキライじゃない(むしろかなり好きだ)。
けれど、今までのようになまえの噂話をあれこれして卑猥な妄想を繰り広げる輪の中に、どうしても今までのような気持ちで加わることができなくなっていた。
尤も、自分はなまえの恋人でも何でもないのだから、やめろという資格もオレに気を遣ってやめてくれという資格もどこにもない。
だから加わらなくなった。そういうことだった。

ジャンは激しく後悔していた。

(あの日、何で「好きだ」って言えなかったんだ)

「キスさせてくれ」と言えたのに、何故「好きだ」と言えなかったんだろう。
――――――たぶんあの男の存在が引っ掛かっていたからだ、とジャンは思った。
あいつはなまえの恋人なのだろうか。
一緒にいた彼女の幸せそうな表情から、ただの知り合いということもないだろうと思う。
告白してもただフラれるだけだと、心の底で危惧していたのかもしれない。

次の約束はしていない。
いつ、また彼女と会えるだろうか――――――







浮 か れ チ ェ リ ー / 5-1







「最近ため息ばっかりしてるな、ジャン」

休日の朝、朝食を済ませておかわりのコーヒーを飲みながら一息ついたとき、ふいにマルコが言った。

「そーか?別に何ともないぜ、オレは」

ふふ、とマルコは笑った。

「なまえと何があったの?」

「―――――――!!!!!うっわ!!!うっわ!!!!きっったねぇな、ジャン!!!!」

前の席に座っていた男子が飛び上がって悲鳴を上げた。
ジャンはコーヒーを彼の顔に思い切り噴出していた。

「わ、悪い」

ジャンはハンカチを持っていなかったので、席を立ちあたふたとした。
ハンカチを持っていたマルコが彼にそれを差し出す。
彼は顔を拭いたが、服はコーヒーですっかり汚れている。
洗濯して返す、とジャンは言った。
もう朝からマジ最悪だよ〜と彼は騒ぎながら食堂を出て行った。

「マルコ、おどかすなよ・・・」

席に座り、ジャンは肩を落とした。

「ごめん、あんなに驚くと思わなかった」
「・・・・・・・・・何でだよ」
「・・・・・・?」
「何で分かった」

ジャンは隣に座るマルコには目もくれず、ふてくされたように頬杖をついて言った。

「最近いつも、視線の先になまえがいるし・・・この間夕食の後、ジャンのとこになまえが来ただろ。だから、ひょっとしてってさ・・・」
「・・・・・・・・・」

色恋ごとには全く縁がなさそうで、そういうことにも鈍そうに思えるこの友人に、何で気付かれてしまったのだろうとジャンは思った。
実際それはジャンが思うその通りだ。
なぜなら、なまえがたとえ一度ジャンに話しかけに来たからといって、高嶺の花である彼女とジャンの関係を疑う者などいなかった。
ジャンのタイプ上、そして今まで彼女が付き合ってきたとされる男たちと比較して、彼女がジャンを相手にすることなど全く考えられないことだからだった。

はぁ、とジャンはまた大きなため息をついた。

「別に、付き合ってねぇよ」
「ああ、そうなんだ」
「・・・付き合いたいと、思ってるけどな。でもそんなヤツここにはゴマンといるぜ」
「はは、そうだね」
「だろ?」
「うん。でも、ジャンは特別なんじゃない?」

ジャンは彼の鋭い(目つきの悪い、ともいう)目を大きく開いて、マルコを見た。

「・・・何でだよ」
「彼女は目立つ存在だけど、行動では目立つようなことをしない人だから・・・」
「・・・?」
「この間、みんなのいる前でジャンに話しかけに来たっていうのがね、そうなんじゃないかなって思ったんだ」

急に心臓がどきどきとした。
本当か?マルコに問いただしたい。でも、本当のことはマルコには分からない。人を見る目に定評のある、賢い彼なりの予測なのだ。

「あ・・・。分かんねぇよ・・・そんなこと」
「でもさ、チャレンジしてみる価値はあるんじゃない」
「軽く言うなって・・・」
「ジャンと彼女の間にどんなことがあったかは知らないけど・・・ジャンが思うようにしてみたらいいと思うよ。ため息を一日中ついてるくらいならね」

頬杖をついたままジャンはマルコから視線を外し、カップを口にした。
もうコーヒーは殆ど残っていなかったので、飲んだフリをして、テーブルに置いた。




「・・・なまえ、ちょっといいか」

昼食の後食堂で突然声を掛けて来たジャンに、なまえを取り囲んでいた男子女子は驚いた顔をしていた。
今まで彼が自分たちの輪の近くに来たことすらなかったので。

「うん」

なまえは少し驚いたような顔をした後小さく微笑み、その輪を抜けた。
ジャンは落ち着かない様子で外へ、と親指でジェスチャーをする。
先にぎこちなく歩き出したジャンの後ろを、なまえはついて歩き出した。
二人が外へ出て行くのを見て、残された者たちは何事かと顔を見合わせていた。

「あのよ・・・ちょっと、歩かないか」
「うん、いいよ」

食堂を出て、後ろを歩くなまえの顔を見られないまま、ジャンは言った。

「ビックリしちゃった」
「・・・ああ、オレが、なまえと話がしたかったから―――――」

頭の後ろを掻くようにして彼は話す。
これくらいのこと恥ずかしがっていてはいけないとジャンは思った。
だってこれから彼女に、もっと恥ずかしいことを伝えなくてはいけないのだから。
「なまえが好きだ」と。

そっか、と彼女は言い、ジャンの隣に並んだ。

どこで話そうか、とジャンは思った。
なるべく人目のないところがいい。
しっかりゆっくりと自分の気持ちを伝えられるところがいい。
既に人気のない場所には来ているのだけど、施設内っていうのもなぁ。
かと言って、ミーナにフラれた湖もなぁ――――――
そんなことを考えながらふと気付くと、なまえが足を止めていた。

「・・・なまえ?」
「あ・・・ジャン、あっちに行こう」

彼女は見たことのないような青い顔をして、ジャンの袖を引いた。

「ああ、いいぜ――――――」
「なまえ!!!」

ジャンが彼女を振り向いた瞬間、歩いていた方向から彼女の名前を呼ぶ男の声が聞こえた。
その声を聞いただけであまりガラのいいタイプではないことが分かるから不思議だ。

なまえはその声に背を向けたまま立ち止まっていた。
彼女が聞きたくなかった声であることは明白だったので、ジャンはどうしようか迷った。
このまま彼女と何事もなかったかのように声とは反対方向に行くか、それとも走って逃げるか、それとも――――――

一瞬の判断を迷っている間に複数の足音が近付き、ガシ、となまえの腕が掴まれた。

「やっと見つけたぜ。母親にますます似てきたんじゃないか?2年でいいオンナになったなぁ・・・」
「さぁ、帰るんだ。分かってるだろ?」

二つの声に、なまえは青い顔をして黙ったまま、地面を見つめていた。
いつも穏やかな顔をしている彼女しか見たことがなかったので、ジャンは迷わずにその男の手を振り払った。

「おい、やめろよ。何なんだ、アンタらは」

ライナーよりも体格のがっしりとした、ガラの悪い男二人。
一人は赤毛で、もう一人は色あせた麦わら帽子のような髪の色をしていた。
少しの不安を隠して、ジャンは彼らをにらみつけた。

「おーおー、威勢がいいな、ボウズ。お前はこいつのカレシか?」
「あ、あァ?」

お前ら間が悪いんだよ。これからそうなってもらいたいと思ってたところなんだよ。と、ジャンは嘆き半分で叫びたかった。

「なまえ、さすがはお前だなぁ・・・血は争えねぇよな」

ハハ、と一人の男が笑った。
彼女は先程のまま、青ざめた顔で地面を見つめたまま黙っている。

「おいボウズ、お前はこいつがどんなオンナなのか知らないのかぁ?こいつは―――――」
「や・・・やめて!!!」

なまえは、ジャンが聞いたことのないような大きな声で叫んだ。

「・・・やめて下さい。この人は関係ないの」

彼女は血の気の引いたような顔のまま、キッと男を見上げた。

「お前がそう言ったって、このボウズは大有りだって顔してるぜ」

ニヤニヤともう一人の男が言う。

「おい、なまえ行こうぜ」

ジャンは彼女の手を引き、今歩いてきた道を引き返そうとした。

「おっと、そうはさせねぇよ」

赤毛の男がジャンの肩を力任せに掴んだ。
このオンナは置いていくんだ、と彼は言う。
ふざけんなよ、とジャンが言おうとしたとき、なまえはゆっくりと自分の手を引いていたジャンの腕を解いた。

「・・・なまえ?」
「ジャン、戻って。私は大丈夫だから」
「はぁ!?お前、何言ってんだよ」
「後でちゃんと戻るから。ね、だから、行って。」

なまえは小さく笑ったけれど、それはどう見ても無理やり取り付けた笑顔にしか見えなかった。
たぶん「後でちゃんと戻る」ことはないのだろうと分かる。
それでジャンは、いま目の前にいる二人が彼女にとっての最低最悪の脅威なのだと感じた。
その瞬間に、ジャンは、ここからどうするかを考えるよりも先に、赤毛の男に体当たりをしていた。
ふいをつかれた男は、地面にしりもちをつく。
ジャンはそのまま、もう一人の男に殴りかかるようにしてしがみついた。

「なまえ、逃げろ!!」

てめぇ・・・と赤毛の男は青筋を立てて起き上がったが、ジャンに掴みかかられた男は全く相手にしないように彼の腕を掴み、笑っていた。

「やるなぁなまえ・・・さすがは生まれついての淫売だ!」

淫売、という言葉に凍りついた表情のなまえを見て、ジャンはわけも分からず頭に血が上った。
腕を掴まれていたので、その男の胸に思い切り頭突きをした。
対人格闘の成果あってか、男は衝撃でジャンの腕を放し、うめき声を上げた。
逃げようとなまえに近寄ろうとしたが、赤毛の男がジャンに殴りかかった。
ジャンは地面に倒れこむ。
「やめて!」となまえの悲鳴が聞こえてきたが、うめき声を上げていた男が立ち上がろうとしたジャンに何度も蹴りを浴びせた。
ジャンは抵抗しようとするが、赤毛の男もそれに加勢したので起き上がれもしない。
この体格の良さと腕っぷしからいって、二人は兵士上がりなのだろうかとジャンは思った。
赤毛の男はやめてと自分の体にすがりついてきたなまえの腕を逃げないよう逆に掴もうとしたが、彼女はそれを避けるようにして突き飛ばした。
そして、そのまま食堂の方へと走り出す。
ジャンはやっとの思いで倒れこんだ赤毛の男の足首を掴んで、彼が逃げないよう抱え込んだ。

(・・・ああ、良かった)

痛ぇなぁ、カッコ悪ぃなぁ―――――でも、なまえさえ無事であればそれでいい。
それにしても、対人格闘術、屈強な男二人に襲われちゃ何も役に立たねぇじゃねぇか。
やっぱり適当にサボっとけばよかったんだ。
口の中にたくさん入った砂のジャリジャリとした感覚と鉄のような味を感じながら、ジャンは彼女の背中が小さくなるのを半ばほっとしたように、朦朧と、見つめていた。

「おい、何をしてる!!」

なまえの背中が見えなくなってすぐに、ドスの聞いた恐ろしい声が聞こえた。
普段は自分たちが震え上がっている声だが、今はそれが天からの声のように聞こえる。
完全に無抵抗というわけではなかったけれど、ジャンをボコボコにしていた男たちは手と足を止めた。

意識がフラフラとしている。やっとの思いで目を開けると、キースと一緒に何人かの教官と、泣いているなまえの姿があった。
彼女が連れてきてくれたのだ。

「上官のおでましか。オレたちは何もしてないぜ!このボウズが掴みかかってきたから相手をしたまでだ」
「中で話を聞かせてもらおう。みょうじもだ」

はい、となまえは小さく返事をして、教官の後ろで頷いた。

「あ・・・あの、オレは・・・」
「キルシュタイン、お前はいい。手当てを受けて、寮へ戻れ」

やられ損かよ、とジャンは思った。
鍛えているおかげか骨折とか深刻な負傷はなさそうだけれど、体のあちこちがめちゃくちゃに痛い。

自分には何もできなかった。
ぎゅっと、拳を握るけれど、力が入らない。
力なく握った拳を目の前に見つめていたら、目がじんわりと熱くなってきた。
ジャンはなまえと教官たちが歩いていくのを後ろから眺めながら拳を力なく下ろし、フラフラとぼとぼと歩いた。




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