世 界 の す べ て / 2


ウォールローゼから内地へ戻り一人暮らしの小さな家のドアを開けると、なまえは閉口した。

「勝手に入らないでって言ってるでしょ」

合鍵を使って家に入った執事とばあやが、ひっそりとなまえの帰りを待っていたのだ。
それぞれお馴染みの、立派な服を着ている。
小さく狭い庶民的な家に、何という不釣合いな二人。
彼らはなまえが内地に戻って以来、こうして度々現れては彼女の世話を焼きたがった。

「お嬢様、本日はこちらを旦那様から預かって参りました」

執事は白い、厚手の封筒を両手で恭しくなまえへ差し出した。
みょうじ家の紋章で封蝋がされている。

「パス」

そもそも王家を守る組織である憲兵団に所属するなまえには、それが何の封書か分かっていた。
一ヶ月後に行われる、王家が主催する舞踏会に出よ、と。
父はそこで既に婚期が遅れているなまえを社交界に出し、しかるべき嫁ぎ先を見つけさせるつもりなのだ。

「大体私、憲兵団の兵士なんだよ。その日は参加する側じゃなくて警護する側で忙しいの。」

そうおっしゃらず、と執事は再度封筒を差し出した。

「なまえ様が内地に戻られてから、もうずっとこうしたお誘いをお断りになられ続けていらっしゃいます。今回は旦那様も、お嬢様のご了承を取り付けるまでは、帰ってくるなと・・・」
「冗談やめてよ」

辟易とした顔を浮かべるなまえに、彼女と面と向かっていることが嬉しくてたまらないのであろうばあやはにこにこと言った。

「お嬢様、私はお嬢様が舞踏会への参加をご了承くださるまでは、彼とずっとお嬢様のお世話をしながらここにお邪魔するつもりです」

―――何という実力行使。

彼女は渋々封書を開ける。
懐かしい父の字で、今回は王家主催の舞踏会でお前にもお呼びがかかったのだから、お前もいい加減参加をしなさい。これは絶対だ、と書き付けてあった。
執事とばあやに視線を移すと、彼らはこの小さな部屋に持ち込んだ大きなトランク5つ程を解きにかかっているところだった。

(・・・本気で居座ろうとしてる・・・)

なまえは、大きくため息をついた。
確かに今までは、どのような誘いがあっても頑なにその全て断り続けていた。
王家主催の舞踏会でわざわざ自分にお呼びが掛かっているのならば、さすがに参加しなければ父の顔が立たないだろう。

「・・・分かったよ、参加します」

どうせ私の我がままで家を飛び出していても、結局は家と父の手のひらの上でもがいているだけなのだから、となまえは心の中で吐き捨てた。
リヴァイが言った通り、結局はそれが、自分の選んだ道なのだ。
ばあやはなまえの胸中も知らず、「きゃっ」と無邪気に手を合わせて喜んだ。

ではその証としてこの手紙にサインをくださいと安心顔の執事がペンをおずおずと差し出してきたので、なまえはあからさまに嫌な顔をすると、これでいいでしょ、と投げやりにサインをし、ペンと一緒に執事へ押し返した。



一ヶ月後。なまえにとってはとても気の進まない舞踏会の日がとうとうやってきた。
憲兵団の本部近くに住む彼女にとっては王宮で行われる舞踏会へは自分の家から行った方がずっと近いのだが、舞踏会に参加するには身支度も必要で、家を飛び出して以来頑なに帰ろうとしなかった彼女の実家へと、なまえは久しぶりに戻ることになった。

久しぶりに帰った屋敷の様子を懐かしみをもって眺める間もなく、父はなまえの顔を見るなり駆け寄るとぎゅっとその体を抱きしめ、「よく帰った」と言い、嬉しそうにその背中を何度も強く撫でた。
母は涙を浮かべて短くなってしまった愛娘の髪に愛おしそうに触れる。
どんな顔をしてこの家に入ればいいのかと考えていたのに、両親のその幸せそうな顔に、なまえはすっかり毒気を抜かれてしまった気分になった。

家出をしたあの日から全く変わっていないなまえの部屋に入ると、花のいい香りがいっぱいに広がっていた。
「お嬢様がいない間も、毎日こうして花を飾り、毎日ベッドメイキングもしておりました」とばあやが嬉しそうに言った。
自分がここにいなかった10年以上、毎日自分がいるかのように、この部屋には時間が流れていたらしい。
ベッドの上に置かれた懐かしいぬいぐるみが、胸をちくりと刺した。
家出をしたあの日に残した自分の髪の毛とメモ以外、全てが昔のままだ。
部屋を見渡すと、暖炉の前には家族が久しぶりに社交界へ顔を出す娘の為に用意した新しいバッグや靴やアクセサリーの入った包みがいくつも積まれていた。
バッグだけでも3つは箱が積まれているのが見て取れる。

(・・・1つしか身に着けられないのに、一体いくつ用意してんの)

その光景になまえが呆れていると、何人かの侍女たちがいそいそと部屋になだれ込んできて、風呂の準備を始めた。
体を綺麗に洗い終わると上質なやわらかいタオルで丁寧に拭かれ、侍女に4人かがかりでコルセットを強引にはめられた。
コルセットを久しぶりに着けるなまえは、上半身をぎゅうぎゅうと締め付けられ窒息しそうに苦しんだ。
訓練兵になって以来調査兵団を去るまで毎日あの制服と固定ベルトを着けて来た彼女は、ドレスを着るのはこんなに苦しいものだったろうかと苦笑した。
固定ベルトはその動きで常に筋肉に負荷を掛けることになるが、いまや固定ベルトを着けている方が、なまえにとってはコルセットを着けるよりもずっと楽なことに感じられた。

コルセットを着け終わると、「好きな物をお選びください」と、キャスターつきの大きなハンガーラックいっぱいに、色とりどりのドレスが運ばれてきた。
赤、ピンク、青、緑、ゴールド・・・グラデーションを描くように、さまざまな豪奢なドレスが並んでいる。
はしゃぐ母親とばあやを尻目になまえはどれでもいいやと辟易したが、淡いクリーム色を基調に白いレースが施されている(その中では)シンプルなドレスを選んだ。
侍女たちは5人がかりでなまえに骨組みを被せ、ドレスを着せていった。
久しぶりのメイクを施されると、侍女がお茶と、大好物だった特製のチョコレートを運んできた。
やっぱり好物は変わらない。
久しぶりの美味しさに感動しながらチョコレートを口に運んでいる間に侍女に長いウイッグを被せられると、化粧っ気のないいつもの自分とは別人のような姿になったが、なまえは昔に時が戻ったかのような気がした。
髪はハーフアップに結い上げられ、なるべくシンプルにとのなまえの注文通り、さりげなくいくつかの白い花が飾られた。

それにしても、先ほど家に着いたときとは全くの別人のようだ。
長い髪、ばさばさの睫、綺麗に塗られた肌と、艶やかな唇。
これではふと鏡を見た時に自分でも自分と気付かないかもしれない。
なまえは久しぶりの「貴族の娘らしい」自分の姿が他人事のように少し面白く感じ、鏡をしげしげと見つめる。

「美しいですわ、お嬢様・・・」

うっとり喜ぶばあやに苦笑しながら、これを今の仲間たちが見たらきっと爆笑するだろうな、となまえは諦めたようにぼんやり思った。



日が暮れかけ、なまえは今回招待のあった兄、父親、母親と馬車に乗り込み、王宮へ向かった。
オレンジ色の夕日が、濃い赤色に塗られた馬車に反射してまぶしく感じた。
なまえはウォールローゼの学校で研究に励んでいることになっており、久しぶりにお前に会えるからとみんな楽しみにしていると父親が言ったのを皮切りに、馬車の中で3人はなまえは久しぶりの社交の場だから、失礼のないように気を付けなさいとしきりに注意をした。
身のこなしも、言葉遣いも、機知に富んだ会話も、全てがそこでは求められる。
最悪、お前は器量がいいのだから万が一王族の方に誘われでもしなければ、黙って微笑んでいれば踊らずともそれでいいと言われた。

馬車をエントランスにつけ階段を見上げると、既に多くの招待されたゲストが到着していたようだった。
久しぶりの華やかな場所。
いつもなら今日も私はここで警備を――――――
ふと辺りを見回すと、いつも通りに警備に当たっている、同じ班の兵士と目があった。
しまった!と、なまえは目を逸らす。

(みんなは今日も普通に警備についてることなんか分かりきってたのに!)

なまえは恥ずかしさに消えてしまいたくなった。
ここ王宮で舞踏会が開かれるときには、勿論憲兵団が警備に当たる。
顔見知りが警備しているところにこんな格好をして乗り込むなんて。
よりにもよって同じ班の兵士がエントランスに配置されていたのは彼女にとってとびきり不幸なことだったが、よく考えなくてもその恐れがあることなんて分かりきったことだというのに、なまえは舞踏会に参加するのが嫌だということで頭がいっぱいで、そんなことはすっかり頭から抜けていた。
自分がこうしてここに貴族として参加していることがバレては、私も家族も非常に困る。
さっと扇子を広げ顔を隠そうとしたのだが、目の合った兵士は顔を赤くして会釈をした。
その仕草は兵士が貴族に対するそれと全く同じだ。

(あ、そっか・・・)

普段仲間として男扱いしかされず働いている自分が、こんな長い髪をしてこんな派手なドレスを着て貴族の一員として舞踏会に参加しているなんて、誰が思うだろう。

(私だって気付くわけないか。自分でも別人かと思ったもんね)

なまえは胸を撫で下ろすと広げかけた扇子をパチンとたたみ、家族と連れ立って舞踏会場へと続く、赤い絨毯が広げられた大理石の階段をゆったりと上った。


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