兵長とシャンプー/3 「こんばんはぁー」 ここ2週間近く、朝と夜、私のせいで怪我をし右手を使えなくなった兵長の家に伺うのが私の日課になっていた。 家に着くとまず兵長の固定ベルトを外し、シャンプーをし、兵長が出てくるまでの間に兵長が夕食に使った食器を洗い、髪をタオルで拭き、洗濯物を一緒にたたんで家へ帰る。 あの日、突然うちに兵長が現れこの家に連れ込まれた時は本当に怖かったけれど、二週間経った今では日常の一部にこの兵長の部屋がある。 あの「シャンプー事件」以降、意外にも、特に色っぽいハプニングが起こることもなく、シャンプーも普通〜に行われている。 「兵長、夜ごはんのおすそ分けです。明日の朝ごはんにでもどうぞ。自信作です!」 家から持ってきた陶器の鍋の蓋を開け自慢げに中身を見せると、兵長は「“お前の母親の”自信作だろ」、と私に付け加えた。 まあ、そうですけど。 兵長のきめ細かいきれいな肌、さらさらな髪、整った顔、薄くて形のいい唇。 最初の頃はマントやジャケットを脱ぎ着するお手伝いをする時でさえそれを間近にする度ドキドキしていたけれど、今は大分平静にそれを手伝えるようになった。 ハダカにタオル一枚のシャンプーだって、まあそこまで緊張はしなくなったから、服を着てたらなおさらそうだろう。 というよりも、最初の頃より冷静にお手伝いができればできるほど、兵長のシャンプーを手伝うという行為そのものに対して緊張が走るようになった。 あの神経質な兵長の頭を、洗うというその行為。 もちろん誰にも話してないけれど、誰に話しても全く信じてもらえないだろう。 今夜も、タオル一枚を下半身に巻きつけた無防備な兵長の頭を丁寧に洗う。 小柄な体に着くその小さな頭に最初に触れる瞬間が一番緊張する。 兵長は最近一丁前に(失敬)、ここをもう少し、あそこをもう少しと私に洗い方を要求するようになってきた。 やっぱり最初のうちは、兵長だって多少は緊張も遠慮もしてたのだろうか。 (余談ですが、あの事件以降私は自分の体に巻くタオルをもっときつく巻くようになりました。 初日のアレを受けてからの、次の日のシャンプーが一番緊張したけど、あっけなく、ごく普通に行われ、今に至る。) 兵長がバスルームから出てきて髪をタオルで拭いてあげる時間が、最近の私の日常で一番の満足感を感じる瞬間だ。 私が髪を拭いている間、あの兵長が大人しくリラックスした感じでくつろいでいるのが気を許されている感じでたまらなく嬉しい。 「兵長、いま思ったんですけどー。ひょっとして私って貴族の方の飼ってる猫とかのトリマーになれるかもしれないです」 「あ?」 「だって兵長にこんなに上手にシャン・・・」 シャンプーできるんですもん、と言おうとした瞬間、兵長は左腕で私の腕を掴み、前へぐいっと引っ張った。 ふいをつかれた私は前に倒れ掛かる。 「わ、わ、」 「なまえお前、調子乗るなよ」 前に倒れ込んで兵長と目線が同じになった私に、目つきの悪い目を一層悪くして、兵長が静かに言った。 「や、やだ、冗談ですってぇ・・・」 うふ、と笑うと、兵長のおっしゃる通り悪ノリに釘を刺された私は背筋を伸ばし、いつもより更に丁寧に兵長の髪を拭いた。 だって何か気位の高い猫っぽいじゃん、兵長は。とは、口が裂けてもいえない。 髪を拭き終わると、取り込んだ洗濯物も一緒にたたむようになった。洗濯物をたたむというのは、片手ではやっぱり難しいようだ。 アイロンがけは一度お手伝いをしたんだけど、滅多に自分でしない私は兵長に怒られてばかりで、そのうち片手で自分でやった方が早いと言われてしまった。 兵長が、私が家に来る前に自分の下着だけは先にたたんで片付けていることはちょっと意外だった。 一応女扱いをしてもらっているんだろうか。 「じゃあ、今日はこれで失礼します。」 「ああ」 兵長は、毎晩律儀に私を家まで送っていってくれる。 私だって兵士の端くれなんだし、別に一人で帰ったってどうということはないのに。 特に道中話すこともないし、人に見付かりあらぬ噂を流されてもイヤなので、兵長から少し離れてキョロキョロ回りを見渡しながら私は毎日歩いている。 兵長も気にしているのか、割と人通りの少ない道を選んでいるようだ。 月明かりに照らされた静かな道を、二つのうすい影を並べて歩く。 風がさわやかで、夜の散歩にはちょうどいい。 (何か、恋人みたいでちょっと怖いな・・・) ふと、自分に染み付きだしているこの兵長に密着した生活に、ちょっとした恐れを抱く。 警戒心が強い、友達も多くはなく、(少なくとも今は)恋人もいなさそうな兵長に、曲がりなりにも傍にいさせてもらって、私はいまちょっとした優越感に浸っているし、それを嬉しく感じ始めてさえいる。 兵長に怪我を負わせてしまい補佐を始めるようになって約2週間が経ったいま、お医者様に3週間と言われていた兵長の療養期間はあと3分の1。 この兵長でいっぱいの生活が、この距離感が、あと1週間したら失われてしまう。 少なくとも兵長は、元に戻って今までのように何にも煩わされない、楽な生活ができると喜ぶだろう。 私だって、自分のことだけをしていればいい元の自分の居場所に戻るだけだけど・・・。 (私って、兵長のこと、好き、なのかな・・・?) 兵長の補佐を解かれた後のことを考えると、変に胸が痛む。 (いやいや、たぶん、これは情が沸いてるだけで・・・) そう、私は小さい頃野良猫を拾っては親によく怒られていたっけ。 やっぱりほら、兵長って猫っぽいじゃん。 「そうそう、わっ!」 「何がそうそうだ。じゃあな」 自分に納得した独り言をつぶやいた瞬間、考え事をしていてしっかり前を見ていなかった私は兵長の背中にまたもぶつかってしまった。 いつの間にか家に着いていたらしい。 「あっ、兵長」 「?」 「・・・お、・・・おやすみなさい・・・」 「・・・早く、休めよ」 月明かりに照らされた、振り向いたその端整な顔。 表通りのにぎやかな声が、遠く聞こえる。 今日のお別れをする前に、もう一度兵長の顔が見たいと思った。 ――――明日の朝、また見ることができるのに。 小さくなる兵長の背中を見つめながら、私はまた、胸が小さく痛むのを感じていた。 「ここ、スペルが間違ってる」 兵長に差し出された書類を受け取った私は、すみませんと小さく頭を下げるとそれを受け取り、デスクに腰掛けた。 エルヴィン団長の計らいで、兵長のワーキングデスクと直角な方向に、私用の小さなデスクが配置されていた。 「それを直したらエルヴィンのところへそれを持って行ってくれ。そのまま食堂で昼飯を食って来い」 兵長は左手でフォークを持つと、さっき私が食堂から運んできた兵長用のランチに手をつけた。 彼の右手の怪我は秘密事項のため、食堂で食事をしないよう、エルヴィン団長から言われている。 カチ、カチ、と皿を叩く音がする。 兵長の手元へ視線をやると、なるほど、そういえば今日は平たい皿にポロポロと乾いた豆を炒めた料理がレタスと一緒に盛られていた。 平たい皿にすくいにくいポロポロした料理、それにフォークでは余計にすくいにくいだろう。 スプーンで料理をすくい皿からこぼれるのを敬遠して、潔癖症の彼はフォークを握り締めているにちがいない。 私はぷっと吹き出して、スペルを直した書類と共に、兵長の傍へ向かう。 「兵長、言ってくださればいいのに」 皿の横にあったスプーンを手にすると、私は豆の炒め物をすくい、兵長の口元へ運んだ。 「・・・・・・・・・」 兵長は一瞬驚いた表情の後憚りもせずとても嫌そうな顔をしたが、しばらくして観念したのか、私から視線を逸らし、渋々口を開いた。 ぱくり、とフォークを口にする。 (・・・・・・・・・・・・・・・かっ、・・・かわいい・・・・・・っ・・・!) 私は頭いっぱいに薔薇が咲いたかと思うくらいに浮かれた。 私の手から、あの気位の高い兵長が物を食べるなんて・・・! 実際には兵長は相当ふてくされた顔をして私に差し出されたフォークを口にしていたんだけど。 問題の豆料理を全て兵長の口へ運んだ後、調子に乗った私は(それなら当然兵長が左手で食べられるであろう)つけ合わせの蒸したじゃがいもをスプーンで小さく割り、兵長の口へ運んだ。 「はい兵長、あーん☆」 兵長のプライドは、我慢の限界だったらしい。 青筋を立てて一瞬固まった後、私の差し出したスプーンをかわすように顔を回り込ませ、スプーンを持つ私の指の間から手の甲へ、べろりと舌を這わせた。 「!!?!?!」 私は驚き、じゃがいもがスプーンと一緒に手から転げ落ちる。 そうなることが分かっていたかのように、兵長は左手ですばやくそれをキャッチした。 「しょっぺえ・・・なまえてめぇ、ちゃんと手ェ洗ったんだろうな」 兵長は汚いものを舐めてしまったかのように顔を思いきりしかめた。 「な、ななななな・・・!!!?」 「なまえよ、マジで調子に乗るなよ・・・治ったら絶対タダじゃおかねぇからな・・・」 「へ、兵長、これってセクハラですよ!」 「何がセクハラだよてめぇだろセクハラ野郎は」 ・・・否定、できません・・・。 多分私は、顔が真っ赤だ。 初日のあのシャンプー事件が一瞬で蘇り、血が上った。 うろたえている私を尻目に、兵長は何事もなかったかのように左手でスプーンを持ち食事を再開していた。 彼が私に全く興味なさげなのがまだ救いだったのかもしれない。 私は真っ赤な顔のまま書類を握り締めると、お昼にいってきますと言い残して部屋を出た。 (そもそもさぁ、あの初日のシャンプー事件だって結局何だったのかよくわかんないし!) 私は熱い顔を冷ますように、廊下を早歩きで団長室へ向かっていた。 (あのえろい舐め方ってどうなの!そりゃ、私が調子に乗りすぎたんだけどさぁ・・・、兵長って遊び人なのかなぁ・・・) あのシャンプー事件を忘れたとは言わせない。 でも、それを蒸し返すのは自分にとっても得策とは思えなかったから触れないようにしてきた。 「団長、なまえ・みょうじです。失礼します」 「どうぞ」 団長室の大きな扉を開けると、立派なデスクに座ったエルヴィン団長がにこやかに私を迎えてくれた。「こちらの書類を提出に参りました」と先ほど兵長に確認してもらった書類を差し出すと、団長はありがとうと受け取った。 兵長とは四六時中一緒にいるからか彼の近くにいることに慣れてきたけれど、調査兵団のトップであるエルヴィン団長とこうしてお話をするのはやはり最大級に緊張する。 今のような特殊な状況でもなければ、こんな風に面と向かって話をすることもないような私の所属組織のトップだ。 「なまえがリヴァイと上手くやってくれているおかげで助かるよ」 食後のコーヒーなのだろうか、エルヴィン団長はコーヒーカップに口をつけると、穏やかに笑った。 「い、いえ・・・上手くやれてるんでしょうか。最小限のご迷惑に留まっていればいいのですが・・・。」 「いやいや、気難しいヤツの補佐を急に任せたのにお前は逃げ出しもせず、上手くやってくれてるよ。もっとも、補佐するような状況にしなかったらもっと良かったんだが」 「す、すみません!」 核心をつかれて謝るしかない私は、恐らく90度以上頭を下げていたと思う。 はは、と団長は笑うと、さぁ昼でも食べて来い、と私を送り出した。 食堂は昼ごはんを食べにきた兵士であふれていた。 どこに座ろうか、と顔見知りの姿を探していると、ふいに声を掛けられた。 「なまえさん」 振り向くと、リヴァイ班のペトラだった。彼女は神妙な面持ちで、兵長はまだお忙しいんですか?と尋ねてきた。 「こちらにも訓練にも、ちっとも姿を見せられないから・・・よっぽど忙しいんですよね。今だけなまえさんを補佐に付けられてるって聞きました」 「うん、早急に処理しなきゃいけないことが山積みで、なかなか手が離せないんだと思う・・・私もなるべくお手伝いできるように頑張ってるんだけど・・・ごめんね。」 「いえ、私たち班員もこうなかなか兵長のお顔を見られないと、不安になっちゃうんです。でも、兵長がお忙しいのなら仕方ないし。すみません。」 「・・・兵長に、伝えておくね。」 ペトラは不安そうに小さく頷くと、失礼しますとランチを乗せたトレーを持ち、席の方へ向かっていった。 彼女の言葉が調子に乗っていた私に罪悪感を呼び戻すのは簡単なことだった。 団長から、団長、医師、私以外と極力接触しないよう言われたことを守り、兵長は自分の特別班の班員たちに顔を合わせてもいなければその訓練にも顔を出していないのだろう。 調査兵団きっての精鋭たちといっても、リーダーである兵長を頼りたいに決まってる。 彼を信頼し、慕い、彼に心臓を捧げる覚悟で従っている部下たちなのだから。 「なまえ、なまえったら!こっちこっち」 はっと我に返ると、同期の仲間たちが同じテーブルに着くよう私を手招きしていた。 「ごめん、ぼーっとしてて」 トレーを机に置くと、ペトラとのやりとりで動揺していたのか、トレーの中のスープがこぼれてしまった。 一緒に取ってきたスプーンとフォークがびしょびしょだ。 「わ、しまった・・・」 「そんなんでリヴァイ兵長の補佐なんて勤まるのぉ〜?」 クスクス笑い声が起きる。 兵長の補佐についてから昼ごはんをのんびり食堂で取れるような時間もなかったから、同期とこうして話をするのも久しぶりだ。 「すごいよね、配置転換を見越した研修なんでしょ?なまえもキャリアコースかぁ〜・・・」 「や、そんなんじゃ・・・」 「いやいやまじですごいよ。お前がリヴァイ班に入るかは分からんねーけど、少なくとも事務能力を買われての補佐抜擢だろ?」 話はかなり尾ひれがついて大きくなっているようで、エルヴィン団長が私を見込んで将来のために兵長の補佐に大抜擢をしたとの噂になっているようだった。 兵長といつも何を話してるのとか、どんな仕事をしてるのとか、興味深々で同期の面々は矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。 本当は私の失態で兵長に怪我をさせ、責任を取らされているだけなんだけど・・・。 「なぁなまえ、兵長の仕事で何が一番大変だったりすんの?」 「そーだね、掃除かな・・・」 しょんぼりな気持ちで結構まじめに答えたんだけど、みんなには何それ!と大爆笑されてしまった。 ペトラと話をしたことで、正直同期との雑談中私は全くの上の空だった。 兵長の補佐になって、彼とお近付きになれて浮かれてる場合じゃない。 私は自分の不注意でこの調査兵団という組織から一番大きな兵力を削り、彼を必要としている部下から彼を奪っている。 大変な事をしでかしてしまったという当初の後悔と罪悪感が、いま再びどっと自分に押し寄せていた。 ブルーな気持ちのまま兵長の元へ戻る。 一度深呼吸をしてからドアを開けると部屋に主はおらず、開いた窓辺でカーテンがゆらゆらと揺れていた。 ジャケットはハンガーにかかったままだが、マントはなくなっていた。 (多分・・・お昼の掃除をして、どこかに行かれたんだな) 私はまず、兵長の食べた後の食器を食堂へ返しに行くことにした。 通ったばかりの食堂への道を歩くのももったいない気がして、少し遠回りをする。 右手に、「医務室」と書かれたプレートが目に入った。 空の部屋を見た時、兵長はひょっとして医務室に行ったんじゃないだろうかと、私は思っていた。 彼の経過が気になる私は、余計なお世話と思いつつ、兵長の声が聞こえるんじゃないかとドアに耳を近づけた。 ・・・ううん、人の話し声はするけどよく聞こえない。 私は耳を古ぼけた医務室のドアに押し当てた。 やはり思った通りで、お医者様と、兵長の声が聞こえる。 さらにぐいっと私は耳を押し当てた。 「・・・あなたも不運でしたが、調査兵団も不運でしたね。あなたの100%の兵力も仕事も得られないのではダメージが大きすぎる。あの女の子に補佐してもらっても、埋まるものではない。団長から伺いましたよ。あなたの業務量をいつもよりかなり減らしているんだって―――」 「そんなことはない。怪我は俺の不注意だ。業務もいまは殆ど量は変わってない。・・・なまえはよくやってくれてる」 お医者様の言葉を聞いて、私はショックのあまりその場を後にしようと思ったのだけど、兵長の言葉を聞いてもっとひどく、ショックを受けた。 兵長がそんなことを言ってくれるなんて。そんなことを思ってくれていただなんて。 申し訳なさと、感謝と、彼という人に対する尊敬の念と―――― 兵長に対する感情の波が一気に押し寄せて、目の前があつく、滲んでくる。 ぱた、と涙がトレーに落ちた音で我に返り、私はその場を後にした。 見る目に分かりやすい「良い上司」とはいえない兵長が、なぜ特別班のメンバーに慕われているのか、分かる気がする。 リヴァイ兵士長とは、こういう人なのだ。 私は少し赤くなっているだろう自分の目を誰にも悟られぬよう少し早歩きで食堂へ行き部屋へ戻り、いつもの昼休みの習慣通り、デスクを拭いた。 昼のあたたかな風が部屋へ流れ込んでくる。 兵長の言葉を反芻すると、その風のように私の心にその言葉が、気持ちがすーっと入り込んでくる気がした。 ぼんやり窓の外を眺めていると、右手にマントを被せた兵長が戻ってきた。 「おかえりなさい、医務室ですか・・・?」 「ああ」 「経過はいかがでしたか」 「3週間経たずに完治しそうだと。来週の初めにはお前ともオサラバだな」 「うそ!ほんとですか!?良かったですね・・・!?」 「ああ、本当にな」 「さっき、ペトラに会いました。特別班の皆が、兵長のお顔を見られなくて少し不安がってるみたいで・・・」 兵長はそうか、と言うと、手を伸ばした私にいつものようにマントを渡した。 まだ右手には、さっきまでと同じように包帯がぐるぐるに巻かれていた。 その後特に話はしなかったけれど、兵長の表情はいつもより軽く感じられた。 順調な経過を告げられ本当に嬉しかったのだろう。 「なまえ、やり直せ。また間違ってる」 「えっ、すみません!」 えじゃねーよと兵長は言うと、ぼさっとするなと付け加え、書類を私にぐいっと押し付けた。 間違いも指示も二度繰り返すと兵長は怒る。 同じ間違いを繰り返すのは、兵長の補佐についた2週間で初日以来のことだった。 (たぶん、心が少し混乱してる) 自分でも分かっていた。 兵長の補佐に着かなければいけないと告げられた期間、「3週間」が永久のように感じられ絶望したあの日が、ついこの間のように感じられる。 来週の初めには、ということは、長くてあと3日で兵長の下で働く日々が終わる。 ほっとしたような、少しさびしいような、そんな気持ちが許せないような、複雑な気持ち。 兵長も私も元の生活に戻る、それだけのことなのに。 「今夜は家に来なくていい」 帰り際、兵長にそう告げられて私は驚いた。 家でのお手伝いをすることの決まった2日目以来、初めてのことだった。 兵長のプライベートに口を挟む理由もないので、分かりましたと素直に返事をしてその日は帰路に着いた。 (お昼にあーんとか言って調子に乗ってたのがウソのようなこのブルーな気持ちは何・・・) ぼんやり取った夕飯後、兵長の家に行かない夜がとてつもなく長く感じられて、私は手持ち無沙汰でベッドに突っ伏した。 (兵長、今頃何してるんだろう・・・) せっかく久しぶりにのんびりできる夜だというのに。 (何でこんなさびしい気持ちになるんだろう・・・) 「来週の初めにはお前とオサラバだな」と嬉しそうだった兵長に、まるで捨てられたような。 (・・・“オサラバ”とか、あんな嬉しそうな顔しやがって・・・!) 今頃、リヴァイ班で仲良く集まったりしてるのだろうか。 (今夜は家に来なくていいとか、偉そうに・・・!) 枕に顔を押し当てる。 何でこんなに悲しい気持ちになる? 怒りに変えようとしても、結局はこの不可解な胸の痛みを増幅させる原因にしかならず。 でも本当は、その理由なんて分かっていた。 私は兵長に恋しているからだ。 兵長は、怪我の原因を私に押し付けたり、追究することも、怒る事もしなかった。 ぶっきらぼうな態度でも、私に気を遣ってくれていたことを知ってる。 本当は優しい人だと、今は知ってる。 (どうしよう・・・) 補佐の任を解かれれば、私はまた元の班に所属し、訓練とちょっとした雑務をこなす生活に戻る。 兵長とは全く係わりのない、ただの一兵士の生活に―――――― (それが、私の今までの「当たり前」なんじゃない) それなのに、何というこの喪失感。 気がつけば目にはいっぱいに、涙が溜まっていた。 「・・・兵長、」 名前をつぶやいてみたら、もっと悲しくなった。 (すきです) その言葉が頭に浮かんだと同時に、私はベッドから勢いよく起き上がった。 そこにあった適当な服を着て、部屋を飛び出す。 「ちょっとなまえ、どこ行くの!」 「ちょっと出かけてくるだけ!」 風呂から上がった母親が、血相変えて玄関のドアを開けた私を驚いた顔で見送った。 私は衝動的に、兵長の家へ向かっていた。 ←/→ back |