アイラヴユーの口付けを
あのとき、少し泣いて、でも嬉しそうに笑ったあいつを、俺は今でも鮮明に思い出せる。何よりも大切な、俺たちの思い出だから。
◆◇◆◇
「ブン太、試合お疲れ様! 昨日の試合すごかったね〜!」
「当然だろい。あれくらい軽い軽い」
練習試合の次の日の朝。名前は開口一番にそう言った。運動をするのはあまり好きじゃない名前だが、スポーツを見ること、特にテニスの試合を見るのは好きらしく、試合があるなら教えてくれと言われている。
試合のあるときは、どんなに小さな試合でも、伝えている。見に来てほしいという気持ちは、果たして名前に伝わっているのか。いや、おそらく伝わってはいない。名前はまったく知らないのだ。試合会場で名前を見つけたとき、俺の胸がどんなに高鳴っているかを。
「余裕だねえ。軽いんだったら、幸村くんに練習量増やしてもらえばー?」
「おい、変なこと言うなよ。これ以上練習量増えたら、大変だっつの」
「何を言ってるの。ブン太様なら余裕でしょ?」
「試合は余裕でも、練習はきついって。幸村くん厳しいからなー。あと真田も、口うるさいし。ちょっとしたことでグラウンド走らすんだよ」
言いながら、後ろを振り返る。そこには幸村くんが−−なんてこと、あるわけないか。ほっとしながら名前との会話に集中する。
ときは春。暖かい、というよりも少し暑い日も増えてきた。クラス替えでは見事名前と同じクラスになり、浮かれていた頃。俺は名前を“デート”に誘おうとしていた。
「なあ、名前」
さりげなく、さりげなくだぞ? 緊張してることなんて、察せないように。いつもの調子で、ってあれ。いつもの調子って、どんなだっけ。
「今度、二十一日、暇?」
緊張のあまり、よく分からなくなったが、なんとか言えた。そして俺は、名前の答えを待つ。じっと、名前を見つめて。
「……うん! 暇だよ、なになに? どこか連れてってくれるの?」
にこ、と笑いながら、名前は言った。ほっとして、おう、と返事をした。駅前にできたケーキバイキング屋、一緒に行こうぜ。そう誘うと、名前は身を乗り出して、行く行く! と言った。
「ちなみにそれはブン太の奢り?」
「んなわけねえだろい。こっちも金欠なんだよ」
「ちえっ。まあいいや、それじゃあ、どこに何時集合?」
○○駅に、朝十時集合で、と約束をした。ちょうどそのときに、ホームルーム開始のチャイムが鳴って、名前は「楽しみ!」と満面の笑みを見せて、自分の席へと戻っていった。
楽しみ、そんなの、俺だって。
俺の腕時計が十時をさして、一分ほど経った頃、名前が駅から出てきた。「おっ、早いねー」なんて言いながら、俺のもとに駆け寄ってくる。
「一分遅刻だぞ、名前」
「ええ、それくらい遅刻に入んないよ! 誤差の範囲内だよ! そんな細かいこと気にする男なんて、女の子に嫌われちゃうよ!」
「俺、割とモテる方だと思うけど」
「うわ、嫌なやつ〜!」
名前が笑って、それを合図に俺たちは店へ向かう。並んで歩いてると、恋人同士とかに見えるのかな、と思う。
たとえ人からそう見えていても、残念なことに現実はその関係ではないけれど。
「なんかさあ」
「ん?」
名前が俺を見て、呟く。「こうして歩いてると、デートみたいだね」って、悪戯に笑って言うから、それを望んでるんだよ、って言おうとして、言えなかった。
「デートっていうよりも、友達同士で遊んでる感じだろい。俺たちそんな甘ーい雰囲気なんてねえじゃん?」
その代わりに口から出たのは、そんな言葉。友達同士、恋人同士。できれば恋人同士になりたいな、とは言えない。意気地なしな俺に、こっそりとため息をつく。
「それもそうか」
名前は、俺の言葉に納得したように頷いたから、やっぱり名前は俺と同じ気持ちではないのか、と少し寂しくなった。
駅から十分ほど歩くと、目当ての店が見えてきた。「あそこだね」と名前が嬉しそうに言う。
俺たちは並んで、その店に入る。甘い匂いが、鼻腔を刺激する。うまそう、と、店に入って一番に出た言葉はそれだった。
「本当に、美味しそうだね〜! 早く食べたい!」
女性店員に席に案内され、俺たちは向かい合って座る。
「ねえねえ、あの女の人、可愛かったね」
「さっきの?」
「うん、店員さん。ブン太の好みじゃない?」
「男同士みたいな会話だな。……まあ、割と好みだったけど」
俺が言うと、 やっぱり! と名前は笑った。名前にそんな好みまで把握されていたのか。嬉しいような、はずかしいような……少し複雑な気持ちだ。
「よしっ。それじゃあ……ケーキ取りに行こっか?」
「おー、賛成。早く行こーぜ」
「そんなに焦らなくても、ケーキは逃げないよ」
「もしかしたら逃げるかもしれねえだろ? 「名前に食べられたくないよぅ!」って」
「そんなわけないでしょ〜! もう、ブン太は変なことばっかり言うんだから」
けらけらと、名前が楽しそうに笑う。変なことばかり言う、と名前は言うけれど、それは名前のせいでもあるんだと、そろそろ気づけばいい。俺が変なことを言えば、名前は楽しそうに笑ってくれるから。
どうせ名前は、そんなことに微塵も気がついてはいないだろうけど。
思う存分ケーキを取って、それを平らげて。ああ、大満足だ。名前も、「お腹いっぱい、幸せ〜」と言っている。そんな嬉しそうな名前が見られて、こっちも嬉しい。
食後にコーヒーを飲みながら、ケーキ美味かったな、とそんな感じのことを話す。美味しかったねー、大満足! 連れてきてくれて、ありがと! 名前はそう言う。
こっちこそ、ありがとな。やっぱ、一人で食うより、誰かと食った方が美味く感じるな。俺はそんな風に返して、さて、と二人で席を立つ。
このあとどうするかは、何も約束をしていない。このまま帰るのか、それとも二人でそのへんをぶらぶらしたりするのか。俺的には、後者の方が好ましいが、それは少し贅沢を言いすぎだろうか。
店を出て、なんとなく歩いて、そうしたら駅に着いた。
「……ブン太!」
元気な名前の声が、俺の耳に届く。
「あのさ、ブン太昨日誕生日だったでしょ?」
「おう。なんだ、知ってたのかよ」
「知ってたも何も、あんなにプレゼントもらってたら、さすがに分かるよ」
「まあそうか。で、それがどうかしたか?」
訊ねる俺に、名前は小さな袋を差し出す。小さな白い紙袋。
「……なんだ、これ」
「昨日、いっぱいお菓子もらってたから、私もお菓子にしたらよかった、って思ったの。残るものよりもそっちの方がいいかな、って」
「うん?」
「ブン太の誕生日、本当はもっと前から知ってたよ。それで、何かプレゼントしたいなとも思ってた。けど、ねえ……あんなに女の子に囲まれてたら、渡す暇もないっていうか……」
俺はそっと紙袋の中身を取り出す。その中に入っていたものは
「……お守り……?」
小さなお守り。形が少しいびつだが、もしかすると、これは
「名前、これって」
「ブン太が、ケガしないように、大会で活躍できるようにって、作ったの。ブン太、あのね」
「ちょ、一旦タンマ!」
何かを言おうとした名前を止める。そのまま行くと、なんだかとても幸せな言葉を聞けそうだったのだが、まだ思考がついていかない。
名前が俺の誕生日を知っていた。まあそれは、分からなくもない。それで、名前は、手作りのお守りを誕生日プレゼントに……?
俺が女だったら、好きでもない男に手作りのものなんて渡すか? いや、絶対に渡さない。それどころか、よっぽど好意を抱いてなきゃ、プレゼントも渡さないだろう。
「えっと……俺、名前に嫌われてることはないって思ってたけど」
「そ、そんなの当たり前だよ! 嫌いだったら……一緒にケーキバイキングなんて行くわけないし……」
「うん、そうだよな。俺、こんな手作りのものもらったの、初めてで。なんていうか、すっげー嬉しい」
「……迷惑じゃない?」
不安げに問う名前は、いつもの名前とは結びつかなかった。
「迷惑じゃない。全然!」
「ほんと? よかったあ……」
もしかして、もしかして。一度考えてしまったその可能性を、確かめたい。だって、もしかしたら俺たちは、ずっと同じ想いだったかもしれないから。
「名前」
「何?」
名前が言おうとしたのは、まったく別の何かだったのかもしれない。そうなると俺は、バカな勘違いヤローだ。でも、そうなったっていい。今を逃したら、一生言えない気がした。それなら、今ここで言ってしまってもいいだろう。
「俺、お前のこと好きなんだけど」
嫌われてはない。だけど名前が俺のことを恋愛的な意味で好きなんて証拠はどこにもない。
「俺のことそういう風に見られない、とかだったら、もう断ってくれていいから! でも、もし……もしも名前が俺と同じ気持ちなんだったら……俺と、付き合ってください!」
俺は、頭を下げた。一瞬だけ、二人の間に沈黙が訪れて、そしてすぐに名前が口を開いた。
「……バカ。ブン太の馬鹿!」
名前は、俺にそう言った。突然、しかもこっちが一世一代の愛の告白をしたあとに、バカ、と罵られ、俺の頭は軽くフリーズしてしまった。
バカ、って。やっぱり俺はバカな勘違いヤローだったってことか? 全部、俺の自惚れだったのか。
「本当に、ブン太ってバカ!」
下げていた頭を、ゆっくりと上げる。名前は、決して怒ったような表情ではなくて。でも、分からない。どうして、どうして名前は目に涙を溜めているのか。
「私も、ブン太と同じ気持ちに決まってるでしょ。なんで全然気づいてないの、バカ!」
俺はその言葉を聞いて、しばらく呆然としてしまった。きっとアホみたいな間抜けヅラを晒していたのだろう。名前は、瞳に溜まっていた涙を、一粒だけ落として、そのあと、ぷぷぷ、と笑い出した。
「何その顔! バカっぽいよ〜」
一瞬で、いつもの名前に戻るから、俺が告白したのも全部夢なのかとさえ思えた。でも、名前の頬に、涙の跡があったから、やっぱりさっきまでのことは本当にあったことなんだな、と思えた。
「……バカで悪かったな。でも、そんなバカを好きになったお前もバカだろい」
俺も、そんな名前を見てたらいつもの調子を取り戻して、バカ、とお返しに言ってやった。
「ふーんだ。じゃあ、バカ同士お似合いだね?」
「そうかもな。それじゃ、バカはバカ同士仲よくするか」
「今までも仲よかったと思うけどね。これからは……ちょっと、違う感じ?」
「まあ、俺らだとあんまり変わんないかもよ。友達みたいな感じっていうか」
俺が言うと、名前はにやっ、と笑った。こいつがこんな笑みをするのは、大抵変なことを思いついたときで。
今回もまた、変なことを思いついたのかと思っていたら、名前は言った。
「やっぱりバカだね、ブン太。恋人同士は、キスとかするんだよ」
今、何か飲み物でも飲んでいたら、きっと口からこぼしていただろう。いきなりそんなことを言うから、俺は少しばかり動揺してしまった。
「まあ、私たちにはまだ早いし、まだ先のことだね」
「……別に、俺は今すぐしてもいいけど」
名前は目を丸くして、「やだ〜」と口に手を当てて笑った。
「ブン太ったら大胆〜!」
「名前が急にそんなこと言うからだろい」
「友達と恋人は違うんだよ、って教えてあげただけだもん」
そう言ったあと、名前は妙に改まったような顔をして、「まあ、これからもよろしくお願いします」と頭を下げてきた。
「こちらこそ」と、少しおどけて俺は言った。
「じゃあさ、今からデートしよ!」
「おう! どこ行く?」
そうだねー、と悩む名前を見ながら、恋人同士になったんだな、と改めて感じた。実際には、そんなことないのかもしれないけれど、名前を近く感じて、なんだかとても嬉しい。
今はまだ、それこそ友達の延長かもしれない。だけど、ゆっくりと恋人になっていきたいと思った。すでに名前からはキスまではしてもいいと許可をもらっているので、そのときが来たら遠慮なくさせてもらうとしよう。
そんなことを考えていると、名前が「決めた!」と声を上げた。「この近くにある水族館にしよ!」と言いながら、俺の手をぎゅっと握ってくるから、不覚にも顔が赤くなるのを感じた。そしてそれと同時に、なんだか暖かい気持ちも感じて。これが幸せってやつなのか、とそんなことを思った。
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