無防備な君に贈るキス
私の彼氏はとても奥手だ。その、奥手な彼氏は名を真田弦一郎という。
中学一年生で同じクラスになって、私は弦一郎くんに恋をした。友だちに協力を頼んで一緒の時間を作って貰ったり、私自身も一言で言い表せないようないろんな努力をしたりして、なんとか弦一郎くんと恋人になれたのは中学三年生になってからだった。精一杯アプローチしてもなかなか気づいてくれない弦一郎くんにはもどかしい思いをすることも多かったけれど、片思いが辛いと思ったことはなかった。それに、少しずつ距離を縮めたその時間があったからこそ私は今弦一郎くんの隣にいることを許されている。
弦一郎くんは他人に厳しい人だ。でも、自分にはもっともっと厳しくて、だからこそ弦一郎くんの彼女になりたいと相談した時に柳くんから言われた「難しいだろうな」という言葉に重みがあったのを覚えている。だって、弦一郎くんったら彼女が出来たとはしゃいでいる部活の人にすごく怖い顔で「恋愛に現を抜かすとはたるんどる!」なんて怒っていたんだもの。
色々あって彼女になって、それまでも大変だったけれどそこからもまた大変だった。先に言ったように、彼がとても奥手だったのだ。
私は少しだけしばらく前のやり取りを思い出してみる。
「弦一郎くん。手、繋ぎたいな」
「……手……手を繋ぐ、だと!?」
「……ううん、なんでもない」
手を繋ぎたいと伝えただけで、弦一郎くんは真っ赤になって固まってしまった。その様子を初心で可愛いなとは思ったけれど同時にまだ手を繋ぐのは無理なのだろうなぁとも思ってしまったのだ。弦一郎くんはとても古風で大人っぽいし声も大きくて表情も硬いから、みんな弦一郎くんを怖いと言う。だけどそれは弦一郎くんの可愛い面を知らないからだと思う。もちろん、私以外に知られたらやきもちを妬いてしまうけど。
弦一郎くんは、私とのことをどう思っているのだろうか。告白したのも私から。デートに誘うのも私から。顔に出やすい弦一郎くんが私のことを好きでいてくれるのは分かっているけれど言葉は貰ったことがない。気持ちを疑う訳ではないけど、ちょっと不安になるくらいは仕方ないじゃない。まったく進展しない関係に少し焦ってしまった私はある計画を立てたのだ。
それを決めて、実行に移したのは三日後。弦一郎くんの友だちの柳くんにも計画を相談してお墨付きをもらったから、きっと大丈夫。
弦一郎くんは強豪テニス部の副部長ということで、とても忙しい人だ。部活が終わった後も自主練習をしていたりするから、必然的に帰りは遅くなってしまう。私が一緒に帰りたいから待つと言っても弦一郎くんは首を縦に振ってくれなくて、互いが譲歩した結果週に一回は一緒に帰る日を決めることで落ち着いた。それが、今日。
「苗字、待たせたな」
「ううん。今来たところ」
今日の部活はミーティングだけで、それでも一時間は待った。今来たところなんて嘘だけど、そんなことはどうでもいい。遅い、なんて言ったら一緒に帰ることも難しくなっちゃいそうだし、待つ時間だって弦一郎くんのことで頭がいっぱいだから楽しい。それに、いかにも恋人っぽいやり取りは少し恥ずかしいけれど嬉しいし。
背の高い弦一郎くんの隣を歩くとき私たちの間にはいつも一人分くらい間が空いていて、その隙間を早く埋めたいなぁと思うのだけど良い言葉が見つからない。きっと、正直にもっと近くに居たいって言ったらまた固まってしまうだろうし。そんなことを考えていたら、なんだか少しおかしくなって思わず笑いが漏れてしまった。弦一郎くんは不思議そうな顔で私を見ていたけれど、どうして笑ったのかは聞いてこなかった。気になっているって、顔に書いてあるのに。
「弦一郎くん、公園に寄りたいな」
「……?」
理由を聞きたそうにしている弦一郎くんに「駄目?」と首を傾げてみれば、やや間があったけれど構わないと返って来る。うん、順調。
公園の奥にはベンチがあって、丁度木の影で人の目につかないことはリサーチ済みだ。弦一郎くんは相変わらず不思議そうな顔をして私に言われるままついて来てくれる。
「……苗字?」
「少し、座らない?」
「あぁ」
二人並んでベンチに座る。私は弦一郎くんの男らしい座り方が好き。背筋を伸ばして、少し足を開いて膝の上に握った拳を乗せたその姿がとても好きだ。何かを考えている時の難しい表情も好き。好きなところは、いくらだって挙げられる。
「弦一郎くん、ちょっとだけ目を瞑ってて」
疑問を感じているだろうに、理由は聞かないで素直に目を閉じてくれる弦一郎くん。その唇は少しへの字になってきつく結ばれている。私は弦一郎くんの、その引き結ばれた唇に自分の唇で触れた。さすがに超がつくほど鈍い弦一郎くんでも何をされたのか分かったのか、カっと目を見開いたと思ったら真っ赤になって固まってしまった。
私は弦一郎くんが好き。すごく、好き。弦一郎くんがしたいなって思ってくれた時にはじめてのキスをしてもらいたいと思っていた。だけど、今まで甘い雰囲気になんてなったことないし手を繋いだだけで真っ赤になってしまう弦一郎くんに合わせていたら、私はいつまで経っても弦一郎くんにこうやって触れることは出来ない気がして。はしたないと思われる怖さよりも、弦一郎くんに触れたいという欲の方が勝ってしまった。これが切っ掛けで、もっと私に触れてくれたらと、そう思ったのだ。
「……奪っちゃった」
いつかのどこかで聞いたセリフ。私は弦一郎くんの頬にそっと触れて、少しだけ手を滑らせる。私の肌とは質感の違うそこにも、唇を寄せてみる。今度は目が開いているから避けられてしまうかもしれないと思ったけれど、弦一郎くんはそんなことしなかった。ただ、口をぱくぱくと開いたり閉じたりして、顔は湯気が出そうなほど真っ赤だけれど。
私の計画とは、とても単純なものだった。弦一郎くんとキスがしたい。それだけだもの。きっと目を瞑ってほしいとお願いすれば、弦一郎くんは何も疑わずに従ってくれるだろう。そんな私の計画は大成功だと言っていいはずだ。だって、目的は達成しているのだから。……それでも、まだ一言もしゃべってくれない弦一郎くんに不安な気持ちは少しずつ増していく。弦一郎くんは嫌なことは嫌だと言う人だ。嫌なことをされたら怒る人だ。だから、きっと嫌がられてはいないと、そう思うのだけど。
「い、今のは……」
しばらく無言で固まっていた弦一郎くんがどもりつつもようやく発してくれたのはそんな言葉だった。
「だって、したかったんだもん」
「なっ」
弦一郎くんの質問の答えになっていないのはわざと。きっとキスの確認をしたかっただろう弦一郎くんに、私は自分の気持ちを伝えた。収まりつつあった頬の赤みがまた増してしまったけれど仕方ない。
「弦一郎くんは、嫌だった?」
小さな、それでも無視できない不安と戦いながら弦一郎くんの顔を見る。嫌だと言われない自信はある。だけど、自分の過信だったら……そんな不安を早く消して欲しかった。
「嫌では、ない」
私が求めていた答えと一緒に、弦一郎くんの手が私の手に触れる。握られたとは呼べない、ただ上に乗せられただけの手。弦一郎くんから触れてくれたのははじめて、だった。それが嬉しくて苦しくて、思わず泣いてしまいそうになる。
「……よかった」
私は下を向いて、それだけ言うのが精いっぱいだった。本当はもっと言いたいことも、聞きたいこともあるのに胸がいっぱいで、言葉が上手く出てこない。こんなことははじめてで、自分でも驚いてしまった。
次は弦一郎くんからしてくれたら嬉しいな。でも、待ちきれなくてまた私からしちゃうかもしれない。そうしたら、今度は弦一郎くんも固まらずに応えてくれるのかな。弦一郎くんの大きな手にもう片方の手を重ねて、私は微笑んだ。
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