無防備な君に贈るキス | ナノ

 濡れた眦に口付けを

「…もしもーし…」

電話越しのハスキーボイス。
澄んだソプラノはどこへやら。それはどこかのニューハーフのようで、財前は軽く苦笑した。

「えらい声っすね、大丈夫っすか?」
「うー…らいじょーぶ…」
「…大丈夫ちゃいますやん、それ。熱は?」
「朝より下がった、と思う」
「そうすか。薬は飲みました?」
「飲んだよ」
「今大学出ましたから、もうちょっとで着きますわ。なんか欲しいもんありますか?」
「あったかいゆずのやつ、欲しい」
「わかりました、買ってきます」
「うん、待ってるね」

名前が風邪をひいた。
一昨日から頭痛と喉の痛みがあったが騙し騙し働いて。今朝起きたら発熱していたらしい。
自力で病院に行ったはいいが、どうにも辛くなった彼女からSOSが発せられた。

―もっと頼ってくれてもいいのに。

ついつい無理をしがちな彼女への思いを胸に、財前は冷たい風を切りながら足早に改札を通り抜ける。

この間まで名前が抱えていた仕事が、結構大きな案件だと聞いていた。
それが終わった矢先に、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように発症。
二歳年上の彼女は責任感が強く、なかなか他人に甘えられない頑張り屋さん。
今回は自分との連絡も控えて睡眠時間を削り、遅くまで仕事をしていたから、疲労が溜まっていたのも知れない。
春には社会人の仲間入りをし、こんな風に無理をせざるを得ない機会もあるだろう。
一日でも早く自立した大人になって彼女に追いつきたいと思う反面、気ままな学生生活最後の冬を寂しく思う自分もいる。

名前の自宅の近くにあるコンビニに立ち寄り、定番の高級バニラアイスと柚子ドリンク、そしてレトルトのお粥を買い物かごに入れた。
経口補水液の類いは病院の帰りに薬局で買ったと言っていたからまだあるだろうし、とりあえずはこれで。必要なものがあればまた買いに走ればいい。
会計を済ませて、通い慣れた部屋を目指す。

名前の部屋は、財前が通う大学の三駅隣。
最寄り駅から徒歩5分のところにある単身者向けアパートだ。
女性の一人暮らしも安心の、セキュリティがしっかりしている物件。家賃は相場よりお高めだ。

インターホンは鳴らさずに持っている合鍵で静かに部屋に入る。
薄暗い廊下を進み、洗面台でしっかり手を洗って。

寝室の扉を開けると、部屋の隅に置かれた間接照明のほのかな灯りが目に入った。
壁際のベッドがこんもりと丸く膨らんでいる。

「名前さん?」

呼びかけても動かないその膨らみは、一定の間隔で上がったり下がったりを繰り返し、耳を澄ますと小さな寝息が聞こえてきた。

ベッドサイドへ腰掛けて顔を覗くと、閉じられた瞳には長い睫毛、淡く染まった頬。
額にかかる前髪を指で掻き分ければ、しっとりと汗をかいているのが分かった。
パジャマ代わりのTシャツも汗ばんでいる。

トントンと肩に触れ何度か声をかけると、薄く瞼が開き、目が合った。
とろりとした涙目に、唇も乾いている。

「…ひかる、くん?」
「お待たせしました。汗かいとるみたいやし、着替えましょか」
「うん…」
「起きれます?」
「起きる…」

財前はクローゼットからパイル地の肌触りのよさそうな部屋着を取り出すと。
もぞもぞと起き上がった名前に手渡した。

ぼんやりした頭では、久しぶりに会う彼氏の存在など忘れているのだろうか。
躊躇なく着替え始めた彼女の、綺麗な背中を盗み見てからキッチンに向かう。
買ってきた柚子ドリンクをマグカップに移しながら目をやったシンクには、食べかけのヨーグルトがあった。

再び寝室に入ると、着替え終わった名前は、頭を垂れて気だるげに座っていた。
手入れの行き届いた艶髪には寝癖がついている。
まるで無防備を絵に描いたようだと思った。

「ええ感じに温くなっとりますわ」
「ありがと」

触れあった指先が熱い。

名前は両手でマグカップを持ち、柚子とカリンの香りを鼻から吸い込み一口すすった。

「おいしい…」

ふいに、額にひやりとしたものが触れる。
低体温の財前の手のひらは、冷たくて気持ちがいい。

「まだ熱いっすね。メシは食いました?」
「んーん。食欲、ないの…」

無理して食べた結果があれ、と名前は肩を竦める。

「もっかい寝ます?」
「うん。……あ、ひかるくん…」
「はい」

飲み終えたマグカップをナイトチェストにコトン、と置いて。
ベッドに横になった名前が、こちらを見上げて名前を呼ぶ。
囁くような声は、弱々しく掠れている。
財前は思わず膝を折って顔を近づけた。

「どないしました?」
「…かえる?」
「なんて?」
「もう、帰る?」

羽毛の掛け布団から顔半分を覗かせて尋ねる名前は、行為の最中よりも甘えん坊だ。
熱の効果は、普段は何かと大人ぶる名前をいつもより可愛く素直にさせる。加えて、ノーメイクであどけない彼女の愛らしさといったら。
胸のときめきを自覚した財前は、しかし平静を装って。

「…しゃーないから、今日は泊まったりますわ」

言葉の裏側に隠された、不器用な愛が嬉しくて。名前は頼りなく微笑んだ。
頭をひと撫でして、ベッドサイドに肘をつくと名前がぽつりと呟く。

「…ライブ、行けなくてごめんね…」
「なんで謝るんです?」
「…だって、楽しみにしてたでしょ?やっぱり今から…」
「一人で行っても、おもんないっすわ」

音楽、映画、白玉ぜんざい。

『光くんの好きなもの、私も好きになったよ』と笑う彼女は、長く一緒にいるうちに、いつの間にか自分色に染まっていた。
今夜は、いつか生で見たいねと話していたイギリス系ロックバンドのライブだった。チケットは即完売するほどの人気ぶり。
運良く取れた席は前方センター寄りのアリーナ席。発券した瞬間は二人で喜んだ。

この日を励みにして仕事を頑張っていたのも知っている。自分も知らせを受けるまでは、眠れないほど気分が高揚していたのだから。
大好きな人と、熱く燃え上がるほどの感動を共有できないのは残念だが仕方ない。例え一人で行っても、名前の容態が気になって音楽に集中出来ないし。
二枚のチケットは、医学部の先輩に譲った。きっと今ごろ興奮の渦に酔いしれていることだろう。

「ほんとに、ごめんね…」

布団を少しめくって頬に手をやると、名前は目を伏せて。不甲斐ない自分を情けなく思ったのか、震える睫毛から涙が伝い落ちた。

自分だけに見せてくれる、か弱く儚げな姿はどこか色っぽくて、庇護欲を掻き立てられる。

「泣かんとってください。大人しい名前さんを見るんも悪くないと思っとりますから」

財前はふっと笑うと、濡れたまなじりに唇を寄せた。
舌先で掬い取った雫は、ほんのり塩辛い。

カサカサに乾いた唇を親指の腹で撫でると、いくらか口元を緩ませた名前は『キスはしないよ』と言う。

「させてくれてもええやないですか。名前さん不足なんすわ」
「ダメ。光くんも風邪ひいたら困るでしょ」
「そないヤワな鍛え方しとりませんし」
「も、ダメだってば」
「ちょお黙りや」

もう片方の手で名前の頬を包んで、乾いた唇へ強引に口づけた。
いつもより口の中が熱くて、病人なのだということが分かる。
零れる吐息も熱かった。
唇を離すと、恨めしそうな視線を向けられる。
キスで少しは潤った唇が赤くぽってりと膨らんでる気がした。
そんな顔をしたところで、劣情を煽っているようにしか思えないのだが。

「…名前さん、口ん中も熱いっすわ」
「熱、あるんだってば…」

だから言ったでしょと言わんばかりに睨む名前を残して、キッチンへ向かう。
冷凍庫に一旦しまったアイスを一口分含むと、濃厚な甘さがじわりと溶けていく。

名前のそばへ戻り、どうしたの?と問いかける言葉を遮るように口づける。
熱い口内へアイスを少しずつ入れていくと、名前は驚いたように一度身じろいだが、すんなりと受け入れた。

「…冷たい」
「気持ちええ?」
「ん…」
「眠れそうですか?」
「…うん」

相変わらずとろりとした虚ろな目でじっとこちらの様子を窺っている。
掛け布団から伸びてきた手が、ベッドサイドについていた腕に重なった。

「なんすか?」
「……」
「名前さん?」

大きな瞳が潤んでいる。
ためらいがちな瞬きを数回したかと思うと、可愛い我儘が耳に届いた。

「もっかい…」
「ん?」
「キス…してくれたら、寝る…」

消え入りそうな声で言う名前に、ハートを鷲掴みにされた財前は『さっきあかんて言うてませんでした?』とポーカーフェイスのまま尋ねた。
力のないまなざしで何かを言いたげに、端正な顔をじっと見つめている。
腕に乗せられた手がおずおずと動き、その先にある骨ばった指をきゅっと握った。

「名前さん、いつもそんくらい素直に言うたらええのに」
「…素直でしょ、いつも」
「ほな、“熱下がったらエッチしよ”って可愛く言うてみてください」
「っ…!」

鼻先が触れ合う距離でふざけてそう言うと、名前は手を握っている反対の手でぎゅうっと体を押し返す。
男女の力の差を見せつけるように、財前は華奢な手をぐっと掴む。
無意味な抵抗を難なく制して、おでこにちゅっと唇を寄せた。

「…光くん、優しくない…」
「アホちゃいますか。俺はいつでも名前さんには優しいですやん」

その通りだ、と名前は二の句が告げなくなった。
言葉はキツいけれど、その分態度で愛情を示してくれる。
やる気がなさそうに見えて、実は意外とマメで情熱的。周囲が話す財前の印象とのギャップに、彼にとって特別な存在なのだと幸せを噛みしめた。

「あ、就職祝い…何がいい?」
「名前さんがええっすわ」
「もう、またそんなこと言って…」

薄明かりの空間で、誰が聞いているわけでもないのにひそひそと小声で話しているその様子は、まるで秘密の逢瀬をしているみたいだなと、財前は忍び笑いを漏らす。

「ひかるくん…?」

怪訝な顔で見つめてくる名前の唇を、今度は少し長めに味わってから。
わざと音を立てて唇を離し、ゆるゆると頭を撫でてやると。
瞬く間に気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

就職祝いに二人で住む部屋の鍵が欲しいと言ったら、この人は何て言うだろう?
少女のように愛らしいはにかみ笑顔を思い浮かべて、財前は穏やかに微笑んだ。


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