口に入れるもの全てに味を感じることが出来なくなってから、好きだった食べ物も嫌いになった。当たり前のように食べていた米の味も、味噌汁の味も、大好きだったショートケーキの味も、全部どんな味が忘れてしまった。こんな味だったような、と想像して口に運んでみる。しかし何も味はしない。感じることができるのは食材の食感、歯ざわりのみで、何も味がしないのに異なる食感だけ感じるのは中々気持ち悪かった。
医者は私の味覚障害を一時的なものと言った。一時的なものだから、そのうち味覚が戻るかもしれない。食べ続けることが治療になるそうだ。
私が味を感じることが出来なくなったのは去年の冬。元彼の誕生日だった。私は彼のためにショートケーキを作った。不格好ながらも愛情がこめられたケーキは一口運ばれた限り、手をつけられることはなかった。「不味い」という彼の一言に、「そうだね、不味いね」と笑いながら残りのケーキを食べた。ケーキは何も味がしなかった。彼は私を振った。私は本気だったけれど、彼は遊びだったらしい。
その日から何を食べても味がしなかった。
食べることは苦痛だ。何も味がしないのは寂しいし、食べることがとても無駄に感じるようになった。しかし、食べないと生きてはいけない。栄養補給のゼリー飲料は流し込むだけで楽だった。だからゼリー飲料を主食に、週に何度か他の食べ物を食べた。
学食でカレーライスを注文したのは野菜と肉が入っているから栄養バランスも良いからだ。嗅覚は合っても味覚は無い。渡されたカレーの匂いは美味しそうな匂いなのに、私は美味しいと思うことは出来ない。ひょっとしたら濃い味なら感じることが出来るかもしれない。そう思い、テーブルの上に置かれた醤油をカレーにかけた。どぽどぽと音を立てながら醤油はあっという間にカレーを侵食していった。ぐちゃぐちゃに混ぜて口に運ぶ。やはり味はしない。醤油とカレーの混ざった匂いは何とも言えない匂いで、只でさえ味がしないカレーが更に不味く感じた。
二、三口、口に運べばそれでいい。スプーンを置き、残してしまおうと立ち上がる。
「おい」
隣の席から聞こえたその声を、初めは自分のことでは無いと思った。そのまま返却口に向かおうとした時、もう一度、「おい」と声が聞こえた。自分の事ではないだろうと思いながら振り返ると、口一杯にカツ丼を頬張った赤髪の男が私のトレーを指差した。
「え、なに」
「お前、それ残すのかよ」
正確には食べながら話しているため、ふごふごとしか聞こえなかった。トレーを指差して怪訝な顔をしているのだから、なんとなく言いたいことは分かった。
「醤油かけてるの気になって見てればちょっと食べて残すし、どういうつもりか分かんねえけど勿体無いだろい」
今度は口の中のカツ丼を飲み込んではっきりと話す。余計なお世話だ。如何にも食い意地を張っているであろうこんな男に何がわかるのだ。説教される筋合いなんて無い。私は腹が立った。
「別にいいじゃん。不味いんだから」
吐き捨てるように言葉を投げつけてその場を立ち去る。彼がぎゃあぎゃあと何かを言っていたが相手にしないで無視をした。
返却口にトレーを返すと、食堂のおばさんが心配そうな顔をした。おばさんは校内で唯一私の味覚障害を知っている。今日も駄目だった?と尋ねるおばさんに、ごめんなさい、と謝る。気にしなくていいのよ、と言われ、ちくちくとした気持ちも幾分か和らぐ。
「丸井くんには上手いこと言っておくから」
「丸井くん?」
「名前ちゃんが揉めてたあの子。悪い子じゃないのよ、幸せそうにご飯を食べてくれるし」
ふうん、と空返事をして先程自分が座っていた席を見ると、隣の席で“丸井くん”がカツ丼にがっついていた。視線を感じたのか、目が合うと彼がぎろりと睨んだ。何故だか相当嫌われているようで、何もしていないのに何故邪険にされなければならないのだ、と胸が痛くなった。
駅前に新しく出来たケーキ屋は友人が以前から何度も行きたがっていた話題の店で、一生のお願いだという彼女に私はついていくことを了承した。
それなのに彼女はケーキが運ばれて間もなく、急なバイトの追加出勤の連絡で、急遽その場を離脱せざるを得なくなってしまった。
テーブルの上には宝石のようにきらきらと艶のある苺タルトと厚みのあるスポンジのショートケーキ。「残りのケーキはあげるから!」という友人の言葉は私にとってありがた迷惑だった。ついていない、と思った。この2つのケーキを私はどうしようか。友人もいないなら無理して食べなくてもいいではないかという気持ちが反面、殆ど手を付けずに残してしまうのは気が引けるという気持ちが反面。
「あ」
頭から降ってきた間抜けな声に顔を上げると、そこには昼間食堂で噛み付いてきた赤髪の“丸井くん”が驚いた顔をして立っていた。チョコレートと抹茶と生クリームのケーキが計3つ乗ったトレーを持っている。見ているこちらが気持ち悪くなりそうだ。
「げ。なんでいるの…」
「ケーキ食べに来たに決まってんだろい。お前こそ何でいるんだよ」
「来たくて来たわけじゃない」
眉間に皺を寄せて苺タルトを口に運ぶ。味のない苺はぶよぶよとした食感が気持ち悪くて、水で無理やり腹に押し込む。私がケーキを嫌々食べる姿をじい、と観察した彼は平然と私の目の前の席に座り、トレーをがつんと乱暴に置いた。
「お前ってさ、味が分かんないんだって?」
「何でここに座るの。向こう空いてるじゃん」
「別によくね?それ食わないんだろ、俺食っていい」
自分のケーキがあるのにとんでもない食い意地だと呆れながら、友達が口つけてるけどそれでもいいなら、と皿を彼に渡す。彼は嬉しそうに笑って早速ショートケーキにフォークを突き立てた。
「あー、うまい!でも俺が作った方がもっとうめえな」
汚い食べ方だけど、とても幸せそうな顔をしている。少しだけ羨ましく思った。
驚くべき早さで友人と自分の分のケーキを平らげた丸井くんは、私の苺タルトを指差す。寄こせ、ということなのだろう。食べてもらえるのは有難いが、自分の手をつけたものを渡すのは少しどきりとする。しかし、頬を大きく膨らませて早く寄こせと言わんばかりの顔をする彼を見て、一気にそんな気持ちは失せた。まるで食欲旺盛なハムスターだ。
「食堂のおばさんから聞いたの?」
ケーキ皿を押し付けて私は言う。頷き、口の中のケーキを飲み込んだ丸井くんは、昼間は悪かった、と謝った。
「食べ物を粗末にする奴って許せねえんだよ。だけど事情もしらずに突っかかったのは悪かった」
「別に。粗末にしたのは事実だし」
「マジで味がしないの」
「マジ。粘土とか泥を食べているみたい」
私の言葉を聞いて、丸井くんは顔を真っ青にする。幸せそうにケーキを食べる彼からしたら私は不幸に見えるのだろうか。私だって美味しいなら目の前のケーキを食べたい。あんな嫌な思いをするまではショートケーキが大好きだった。それなのに今は味のしない生クリームは舌触りが気持ち悪いし、味のしないスポンジケーキはただのスポンジを食べているみたいだ。砂糖だけを食べたこともある。味のしない砂糖は砂利のようだった。
「明日の1時、駅前に来いよ」
空返事をしてから彼の言ったことに耳を疑う。ケーキを全て平らげた丸井くんは、にやりと笑って言って立ち上がる。慌てて「待って」と呼びとめるも、「じゃあシクヨロ」と手をひらひらさせて丸井くんは立ち去ってしまう。一人になった私は溜め息を吐いた。できることなら構わないで欲しかった。
口の中に残るクリームの舌触りが気持ち悪くて、氷の溶けた水を流し込む。去り際に丸井くんが「明日はもっと美味いものを食わせてやるぜ」と言っていたような気がしたが、聞こえないふりをした。
寝坊すればいいのに、という時に限って何故か早く目覚める。時計を見ると8時を指していた。冷蔵庫の中から栄養補給のゼリー飲料を取り出し、いつもの食事を済ませる。それから、部屋の片付けをして雑誌を読んで、あっという間に約束の時間が近付いていた。
断ればよかったと後悔していたくせに、私は化粧をして着替えていた。連絡先を知らないのだ。断るタイミングを失った私は渋々駅まで向かうことにした。
「おっす」
「どうも…」
待ち合わせ場所には既に丸井くんが待っていた。私を見つけた彼は買い物袋を私に押し付ける。袋を覗くと卵のパックとイチゴと生クリームが入っていた。嫌な予感がする。行くぞ、と先を歩く彼を追いかけて私は声をかける。
「ねえ、どこ行くつもりなの」
「俺ん家。それ、ケーキ作っから」
案の定、彼はケーキを作るつもりだった。しかも行き先は丸井くんの家だ。迂闊だった。ぼうっと空返事をしてしまうからこんなことになるのだ。
「お金出すから帰っていい?」
「無理。嫌ならはじめから来なきゃいいじゃん」
ぐうの音も出なかった。どうして仲良くもない男の家に向かっているのか分からないまま、ただ早く帰れますようにと願いながら、私は彼の後ろを歩いた。
丸井くんの家はこじんまりとした一軒家だった。
平日だからなのか家族は誰一人居ない。リビングに荷物を置くように促され、端っこに鞄とコートを纏めて置く。キッチンにいる彼に買い物袋を預けると、それと交換で茶色のエプロンを渡された。
「なにこれ」
「働かざるもの食うべからずって言うだろい?」
丸井くんは紺色のエプロンをきっちり身につけ、手際良く材料を並べる。ボウルがふたつ、泡立て器ひとつと電動泡立て器が1台。牛乳、砂糖、薄力粉。それと、買い物袋の中身。
牛乳とバターは耐熱容器に入れて、予めレンジで温め、オーブンの予熱も始めておく。その間に腕まくりをした丸井くんは、卵を綺麗に割って黄身と白身を分別する。
「俺、卵白担当。苗字、生クリーム担当」
突然苗字を呼ばれ、びくりと肩が震える。きっと食堂のおばさんが教えたのかもしれないけれど、少しだけ嬉しいような、むず痒いような気持ちだ。
彼からボウルを受け取り、生クリームのパックを開けて中身を移す。
「さて、どっちが電動泡立て器を使うかだけど」
「え、私じゃないの」
「俺だって疲れたくねえ!」
「私の丸井くんのイメージ、教えてあげる。食い意地を張ってる、図々しい、強引、自信家、ジャイアン」
「…しょうがねえ、電動泡立て器はお前に貸してやる」
電動泡立て器のスイッチを入れ、生クリームを泡立てる。シャカシャカと心地のいい音が聞こえる隣からは、音とは反して不機嫌顔の丸井くんがぎろりとこちらを睨んでいた。
ある程度泡立てた後、砂糖をどれくらい入れればいいかと迷っていると、丸井くんが「大さじ2」と教えてくれた。普段料理をしない上に、生クリームは味見をしながら作っていた私は感心する。手際の良さからも感じていたが、彼はただ単に食い意地を張っているだけではなく、料理も得意なようだ。現に彼の持つボウルではきめ細かなメレンゲが出来上がっていた。
「生クリームは最後にもう一度泡立て直すから、それまで冷蔵庫に入れといて」
頷いて、冷蔵庫に仕舞う。丸井くんはメレンゲに卵黄を入れてゴムベラでさっくりと混ぜる。砂糖と薄力粉を加えるように頼まれ、ふるいにかけて少しずつ加えていく。甘い匂いがする。久し振りの料理に楽しさを感じていたが、一瞬で我に返る。こんなにいい匂いがするのに、私は味を感じることができないのだ。
「おい」
「えっ、あ。ごめん、何すればいい」
「電子レンジにあるバターと牛乳入れて」
「うん」
「言っとくけど、絶対うまいからな」
「…そう」
ケーキが出来たら食べずに帰ってしまおう。そんなことを考えながら、私はバターと牛乳を加えて混ぜてもらう。クッキンシートを敷いた型に生地を移して、オーブンの中に入れた。丸井くん曰く、スポンジケーキは180度のオーブンで45分が鉄板だそうだ。
「いつも作ってるの」
「たまに。家族の誕生日とかは必ず作る」
きっと丸井くんなら家族に喜ばれそうなケーキを作りそうだと思った。私の不格好で不味いケーキとは大違いだ。黙っていると、彼はリビングにあるテレビをつけた。ケーキが焼き上がるまで時間がある。
「ゲームしようぜ」
「得意じゃない」
「んじゃ、何なら得意?」
「ハンバーガー作るやつなら…」
そんなクソゲー持ってねえよ、と丸井くんはゲラゲラ笑う。ツボに入ったのか暫く笑い続けた彼は、テレビとゲーム機を接続して、ブヨブヨした微生物を4つくっつけて消すゲームを起動した。
パズルゲームは苦手と言う私に丸井くんは容赦なく連鎖をキメてボコボコにする。少しは加減を知らないのかと思いながらも、楽しそうな彼を見ていると不思議と私も心が穏やかになっていく気がした。こんなに安らげる時間は久し振りかもしれない。
恋人と別れ、味覚障害になってからは毎日が作業的で、日常を楽しいと思える瞬間は少なかった。
「すげえうまそう!」
そんな声と共に運ばれたスポンジケーキはこんがりと焼き目と黄色の中身でとても美味しそうだ。スポンジケーキを冷ましている間にゲームを2戦行い、またしても私の惨敗でそのままケーキの仕上げに取り掛かった。
イチゴを挟んだスポンジケーキの周りを丸井くんが生クリームで塗っていく。絞り袋で生クリームの飾りをつけてから仕上げにイチゴを乗せれば、ショートケーキの完成だ。ケーキ屋でも売ってそうな綺麗な見た目に私はとても感動する。
「どう?」
「…すごいと思う」
「じゃあ食うか」
「いや、いいよ。きっと味、分からないから」
こんなに美味しそうなケーキも味がしなかったら、きっと私は悲しい気持ちになってしまうだろう。だから、このまま食べずに帰るのがいい。
「言っただろい?絶対うまいって。だから食え」
丸井くんはナイフでケーキを切り分け、2つの皿に乗せる。フォークでケーキを掬って私の目の前に突き付ける。一口だけなら、と口を開き思い切ってフォークに齧りついた。ショートケーキは甘かった。
「うそ。すごく、甘い」
その声を聞いて、丸井くんは笑う。ほら、ともう一口差し出され、口に運ぶ。間違いなく、甘い味がする。
彼からフォークを奪い取り、夢中でショートケーキを味わった。ふわふわのスポンジケーキに口どけの良い生クリーム、甘酸っぱいイチゴ。全てがはっきりと味がする。一年間も忘れていた甘い味だ。
その甘さは私の心にすとんと落ちてくるような素直な甘さで、心の中があたたかい気持ちで満たされていく。
「どう?天才的」
私がケーキの味を感じることができたのは偶然で、他のものは何も味がしないかもしれない。だけど丸井くんは、当たり前だと言うような、そんな顔をしている。まるで魔法のようだ。彼もショートケーキを大きく掬って、幸せそうに頬を膨らませた。それを見て私も頬がほころぶ。
まずは今日、久し振りに食べたケーキが甘かったことを誰かに伝えよう。家族でも、医者でも、食堂のおばさんでもいい。
味を感じることができるのは、とても幸せなことだ。
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