見えない糸で引き寄せて
 自分が言ったことの重要性なんて、おそらく言われた人にしか分からないのだろう。自分の振る舞いもまた、同じこと。
 美術部である自分にとっての負けは、描いた作品が選ばれなかったということ。今までずっと選ばれていたものが、急に選ばれなくなって、尚のことどうしてと思って。
 その感覚は、ただどうしようもなく頭に残るものだった。周囲にさえも、それは伝わっていただろう。遠巻きに感じた、憐れみと嘲笑。胸の内に留まるむしゃくしゃとしたものを、言葉と共に吐き出してしまったこともある。
 弱くて、幼い自分が嫌で、仕方ない。
 それなのに、その感覚を抑えつけて、何でもない顔をして。次の勝利のために考える人は、自分からすれば、とても強い人。
 だからこそ、心のどこかで、そうなりたいとさえ、思ったのだ。



「ごめんねー、名前。部活の買い物なんかに付き合わせちゃって」



 県内最大と言われるスポーツショップの片隅。手にした事はなくとも、一度は目にした事のある黄色いボールを眺めていた名前は、後ろからかけられた言葉に軽く振り返る。
 手にした籠にたくさんのテニス用品を詰め込んだ友人、美咲は、「私一人じゃちょっときつかったのよねー」と、困ったような表情で呟いていた。もちろん、名前の両手にも、籠一杯の荷物の山。
 「別に良いよ」と、名前はくすりと笑って呟く。「今日は私、部活休みだったし」と。



「テニス部は毎日忙しそうだからね。ウチは文化祭とか、大会とかない限りは、部活に顔出してもそんなにすることもないし」

「……って言いながら、いつも何か描いてるよね。美術部」

「まあ、基本的に絵を描くのが好きな人たちの集まりだからね」



 下手すれば今日も、部活が休みにも関わらず、美術室には数人の部員たちがいることだろう。自分もたまに、そこに加わるのだけれど。
 何故か今日は、そんな気分じゃなくて。
 次の大会までにはまだ時間がある。それまでに、自分は前回の大会に出した作品を見直さなくてはならないのだけれど。
 なぜ、選ばれなかったのか。何が、いけなかったのか。
 次の大会で、少しでも評価を得られるために。
 それが自分たちの、大会。
 だが連日そうして今までの作品を眺めていたら、少し気が滅入ってしまっていたわけで。
 「本当、名前がいてくれて助かったわ」と、美咲は苦く笑いながら呟いた。



「ウチの部活、マネージャー少なくて。季節の変わり目でもあるから、何人か休んだらもう、買い出しに行ってもらうのも躊躇われる走り回りっぷりでねー。もう自分で行こうってなっちゃったもんだからさ」



 「丁度名前に会って良かったわー」と、美咲はからりと笑って見せた。
 名前はくすりと笑って「どういたしまして」と返す。
 元々、特に予定があるわけでもなくて。名前としても、ただ家に帰ってぼんやりするよりも、普段来ることのない場所に足を踏み入れられる方が楽しく、気晴らしになるというもの。
 むしろ好奇心をくすぐられるスポーツ用品の数々に、きょろきょろと辺りを見回していた。
 テープ一つでもこんなに種類があるんだ。あ、これとこれ種類違うんだね。分かんなかった。こっちは何だろう。見たことないな。
 ディスプレイに置かれた道具をじっと見ていたら、「名前」と声をかけられてそちらを振り返る。
 美咲は手にもう一つ籠を増やして、「もう少しかかりそうだから、好きなとこ行ってきて良いわよ」と笑って見せた。



「さっきから興味津々って感じだもん。私が行くの、地味な道具のとこばっかだし。向こうの方にラケットとかウェアとかあるから、そっちの方が楽しいと思うわよ」



 「買い物終わったら呼ぶから」と言われ、一瞬目を瞠るも、知らず首が上下に揺れる。地味な道具とは思わないが、やはり王道と言うべきか、ラケットやスポーツウェアなど、目にしてみたい物はあるわけで。
 「すぐに戻るから」と呟いて、名前は手にしていた籠を通路の端の方に置き、歩き出す。後ろから美咲が、「行ってらっしゃーい」と呟くのが聞こえた気がした。



「うわ、たくさんある……」



 陳列棚の間を一人歩き回り、見つけたのは色とりどりのスポーツウェアにシューズ。形一つとっても様々な物があって、スポーツと縁のない自分には、どれが良いのかさっぱり分からなかった。
 何かもう、値段が高ければ良いんだろうなんて、素人考えしか浮かばないもんなぁ。
 そんな自分に苦笑しつつ、一歩一歩足を進める。
 さすがに県内最大のスポーツショップと言うべきか。平日の午後という時間もあるのだろうが、人とはほとんど擦れ違わない。広い上に、スポーツごとにきちんと区画分けされているため、用のある陳列棚付近以外には誰も立ち寄らないのである。
 テニス用品の区画を回っていた名前は、ラケットが並ぶディスプレイの前で足を止めた。数歩、今までとは違う方向に足を進め、手を伸ばし、その内の一つを手にする。
 青い色合いに、黒と白、黄色のラインの入ったそのラケットは、どこかすっきりとした印象で。何となく、手に馴染んだような気がする。
 まあ、良く分からないんだけど。
 思いながら、他のラケットはどうなんだろうと、そのラケットを手にしたまま辺りを見回した時だった。「すまん」と、声をかけられたのは。



「そのラケット、買うんか?」



 かけられた声に、はっとそちらを振り返る。いつの間にそこにいたのか、一人の青年がこちらを見ていて。
 目が合った瞬間、思わず身を固くしてしまったのはきっと、その青年の目付きがあまりに鋭くて、背も高くて、その上。
 髪が、色素を感じさせない、銀色だったから。
 う、わ。こんな所で、不良に会うなんて。
 何て運が悪いんだろうと思いながら、相手を見ていたら、彼はきゅ、と眉根を寄せて、じっとこちらを見ていて。
 「おまん、まさか……」と、彼が口を開いたものだから。



「すみません、別に、買いませんので」



 そう声を上げてラケットをディスプレイに戻すと、名前は踵を返して、僅かに小走りになりながらその場を後にした。
 不良にからまれるなんて、冗談じゃない。逃げるが勝ちというもの。
 「あ、おまん、ちょっと」と、どこか慌てたような声が背後から聞こえて来た気がしたけれど、気にせずに足を進めて。
 何度か陳列棚の角を曲がった所で、「あ、名前、丁度良かった」という、美咲の声が聞こえた。



「今、買い物が終わったの。学校に戻りましょ」



 そう言う美咲の言葉にほっと息をついて、頷き、平静を装って、「うん」と返した。
 僅かに振り返って見た店の中の様子に、銀色の髪は少しも見えなかった。



「名前!校門の所で、男の人が呼んでる!」



 学校が終わり、美術室で部活の準備をしていた名前は、ばたんと音を立てて扉が開くと同時にかけられた言葉に、ただきょとんと顔を上げた。
 男の人が呼んでる?私を?何で?
 疑問符をただひたすら頭に浮かべていたら、声をかけてきた部活の友人が駆け寄ってきたかと思うと、ずいっと顔を寄せて「誰!?」と訊かれた。



「めちゃくちゃ格好良いんだけど、あの人。何?彼氏!?」

「え?ちょっと待って、話が……」



 見えないんだけど。
 そう言おうとするが、友人は余程興奮しているのか、「もぉー!」とどこか怒ったように声を漏らしていて。
 「だから!」と、更に続けた。



「校門の所で、男の人が、『苗字名前』を呼んでるの!あの制服、立海大附属中学だと思うけど。すごい格好良い、銀髪の人!」



 ……銀髪の人。
 瞬間、ぴたりと名前の表情が固まる。
 一体何のことを言っているのかさっぱり分からなかったのだけれど、これではっきりした。
 ……この間の、不良だ。
 スポーツショップで偶然会ってしまった、不良。
 何で彼がここに、と思うも、彼以外に銀色なんて奇抜な髪色の人を、見たこともなくて。
 「ほら、行くわよ!」と、友人が自分の腕を引いて走り出すのを見ながら、名前はただどうすれば逃げられるのだろうかと必死に頭を働かせていた。



「この間ぶりじゃのう。こんにちは」



 校門の外に出ると、どこか間延びした調子で彼はそう声をかけて来た。にっこりと笑いながら、どこか胡散臭さの滲み出るその笑みに、ひくりと頬が引きつる。
 何、私、何かしたっけ。
 そう、ぐるぐると頭を働かせながら、名前は精一杯の笑みを浮かべつつ、「こんにちは」と返した。
 ただスポーツショップで会っただけで、学校まで来るとはただごとじゃない。余程何か気に障ることをしてしまったのだろう。自分は。でも。
 何もしてない、よね。
 声をかけられたのを無視して立ち去ったくらいで。
 ……あれがマズかったのかな。むしろ。
 思い、とりあえず謝ろうと口を開いて。
 「そう警戒せんでも」と、どこか困ったような声が聞こえて来た。驚いて顔を上げれば、やはり声音と同じ、困ったような表情の彼がいて。
 「取って食いやせんよ」と、彼は続けた。



「立海大附属中三年、仁王雅治ナリ。おまんは苗字さんじゃろ?」



 「二年三組、苗字名前さん」と、仁王という名らしい彼は呟く。
 何で、名前。
 驚きに目を瞠りながら仁王を見ていたら、彼はどこか慌てたように「ああ、勘違いしなさんな」と声を上げた。
 ズボンのポケットを探り、何やら取り出していて。「ほら、これ」と、彼は名前の方に手の中の物を差し出して来た。



「この間、落としとったじゃろ?生徒手帳」



 「呼んでも聞こえとらんかったみたいじゃし」と言う彼の手元には、確かに自分の学校の生徒手帳があって。彼はそれを、ぺらりと1ページ捲って見せる。顔を寄せて確認すれば、それは確かに、自分の物だった。
 おそるおそる手を出し、それを受け取る。
 どうしよう、と思った。
 彼はあの時、自分がこれを落としたから、自分を呼んでいたわけで。今日もこうして、わざわざ自分の学校まで届けに来てくれていて。
 自分は、不良と関わるとろくなことないって思って、逃げたのに。
 ちらりと仁王を覗えば、彼は「な?」と言うように小さく笑って見せた。



「困っとるんじゃないかと思ってな。ウチの学校から、そんなに遠くないけぇの」



 そう笑って言う彼に、申し訳なさだけが湧いて来て。
 「ごめんなさい」と、口が勝手に動いていた。



「私、あなたのこと、その、不良だと思ってまして……」



 思わず逃げてしまったのだと正直に告げれば、仁王はきょとんとした顔になった。ついで聞こえたのは、くっくっという、楽しげな笑い声。
 屈託ないその笑みは、どこか優しくて。
 「そんなに素直に、不良だと思ったって言われたんは初めてナリ」と、彼は呟いた。



「まあ、正直、髪はこんなじゃし、目付きも悪いきのう。ついでに態度もそんなに良い方じゃないし。怖がらせて、悪いことしたのう」



 くっくっと、尚も笑いながら言われた言葉の内容に、名前はぶんぶんと首を横に振る。
 「こちらこそ、すみません」と呟きながら。



「せめて振り返れば良かったんですけど……。わざわざ届けてもらって、ありがとうございます」



 言い、ぺこりと頭を下げる。
 仁王はただ楽しげな様子のまま、「気にしなさんな」と呟いた。



「俺が勝手に持って来ただけじゃけぇのう。……なあ、それより、この近くのコンビニの場所教えてくれんか?腹減ったけ、何か食いたくて」



 「この後部活あるけぇのう」と、彼はどこか疲れたように呟いていて。
 名前はこくりと頷き、コンビニへと案内を始めた。



「すまんかったの。何か、カツアゲでもした気分ナリ」



 コンビニから、彼が自転車を停めて来たという公園までの帰り道。仁王は持っていたコンビニの袋から、購入したサンドウィッチの袋を取り出して、中から一切れ取り出す。「ほら、苗字さんの分」と言われ、一瞬躊躇うも、「ありがとうございます」と呟き、名前はそれを大人しく受け取った。
 それに対して、仁王はくすりと笑う。「苗字さんが買うてくれたんじゃけ、ありがとうも何もないじゃろ」と続けていて。
 名前は「いえ」と軽く首を横に振った。



「一応、お礼のつもりで差し上げたものですので。ありがとうございます」

「律儀じゃのう。どういたしまして」



 再度言い直せば、仁王はやはり楽しげに笑ってそう返した。
 自分の分のサンドウィッチを一切れ手に取りながら、「腹減っとったんじゃよなぁ」と、彼は嬉しそうに呟いた。



「そんなに腹が減る方じゃないんじゃが、さすがに昼メシ抜いたらきついもんじゃのう」



 言い、彼はもくもくとサンドウィッチを頬張る。
 名前は少し驚いて、「お昼ご飯、抜いたんですか?」と思わず訊ねていた。



「何でまた……よくそれでもちますね」

「ん?まぁのう。昨日遅くまで起きとって、眠くてのう。メシ食うよりも、寝る方が忙しかったんじゃ」



 言いながら、早々にサンドウィッチを一切れ食べ終わり、次の一切れに手をかける。
 お昼ご飯を抜くほどに眠たいってと思いながら、自らもサンドウィッチを口に運びつつ、興味本位で名前は「ちなみに、何時まで起きてたんですか?」と訊ねてみた。
 仁王は頬張っていたサンドウィッチをごくりと飲み込むと、「んー、確か4時じゃったな」と呟いた。
 ……4時って。



「……もう、朝じゃないですか」



 「何してたんですか」と訊ねる声が、呆れた色を含んでいたのは仕方がないことだと思う。何故そんな時間まで。
 仁王は少しだけ間を置いた後、「さぁて、何でじゃろうな」とだけ呟いた。



「仁王さん、まだ部活なさってるんでしょう?ちゃんと寝て、ご飯食べないと、身体壊しますよ?」



 思わずそう呟けば、仁王はちらりとこちらを見た後、やはり楽しげな様子で「大丈夫、大丈夫」と笑った。



「俺、あんまり寝らんでもええ方ナリ」

「……昼寝してるなら、足りてないんですよ」



 分かり切った話じゃないかと思わず突っ込めば、仁王はまたくっくっと笑って、「そうかもしれんな」なんて呟いていた。
 そうかもも何も、間違いなくそうだろうと思うんだけど。
 知らずじとりと相手を見ていたら、「けど、昨日は本当に、寝付けんかったんじゃ」と、どこかぼんやりとした様子で彼は呟いた。



「考え事しとってのう」

「……考え事、ですか」



 朝の4時まで頭を悩ませる考え事って。
 思うも、仁王はどこか歯切れ悪く「まぁ、の」と呟いた。
 もくもくと、ただ口を動かして。
 「なあ、苗字さん」と、再度口を開いた仁王は、先程の歯切れの悪さとは一転して、意を決したというように、真っ直ぐこちらを見ていた。



「一つ、聞きたいんじゃけど。……今年の夏にあった、テニス部の全国大会決勝の会場に、おまん、おらんかった?」



 「何か、見た気がするんじゃけど」と、続ける彼に名前はきょとんとした顔を向けていて。
 特に深く考えることもなく、こくりと一つ頷いた。



「いましたよ。全国大会の決勝の会場、都立アリーナテニスコート。友達の付き添いですけどね」



 何でも、今年の男子テニス部の全国大会の出場者は、例年に比べてレベルが高いらしく、美咲がどうしてもと自分に声をかけて来たのだった。もっとも、テニスのことをよく知らない自分は、会場の人の多さを目にして、会場の中に入ることすら諦めたわけだが。
 そう言えば、仁王はどこか嬉しそうな様子で、「やっぱり、あれは苗字さんじゃったか」と呟いていた。



「会場の外で、見かけてのう。……絶対に会うことなんてないと思うとったから……」



 「会えて、良かった」と、彼は本当に嬉しそうに相好を崩していて。その笑みは、先程までのどこか気取ったような、胡散臭い笑みと違って、優しく、柔らかくて。
 少しだけ、心臓が跳ねた気がした。



「苗字さんのおかげで、のう。……俺は、前を向くことが出来たんじゃ」



 「ありがとさん」と、彼は続けていて。
 思わず、首を傾げる。
 自分のおかげで?
 けれど、仁王も言ったはずだ。自分を見かけただけだと。
 どういうことだろうと頭を捻る名前を余所に、仁王は何かに気付いたように、「ああ、ここじゃ」と呟いていて。
 近付いて来た学校の最寄りの公園の隅に、木々に隠れるようにして自転車が一台停まっていた。



「ここに停めとったんじゃ。学校まで乗って行こうかとも思ったんじゃが、自転車挟んで話すのもどうかと思うてのう」



 言いながら、サンドウィッチの袋を鞄の中に入れて、仁王は自転車の方に歩み寄る。ポケットをがさごそと探って。
 「ん?」と、彼が不思議そうな声を上げた。



「……ここに入れとったんじゃが、鍵、どこに行ったんじゃろ」

「え?」



 尚もがさごそとポケットを探しながら、仁王は心底不思議そうな様子で呟いていて。「鍵、なくなっちゃったんですか?」と訊ねれば、彼は素直に頷き、「そうみたいじゃのう」と呟いていた。



「こっちのポケットにもないし、鞄は開けた記憶がないし。……まあ、ええか。来週にでも、予備の鍵持ってまた来ようかの」



 「あんまり遅くなっても、真田がうるさいしのう」と、彼は何やらぼやくような調子で呟いていた。
 つまり、ここから立海大附属中学まで、彼は歩いて帰ると言うのだろうか。
 思い、「良いんですか?」と名前は首を傾げて呟いた。



「ここから立海大付属中まで歩くことになるんですよ?この後部活なのに。……それに、ここに自転車を停めておくと、悪戯とかされるかもしれないし」



 それ程治安の悪い土地柄ではないが、駐輪を認められていない場所に一週間も停めて置いたら、何が起こるかは正直分からない。
 仁王は困ったような表情になると、「そうじゃよなぁ」と呟き、息を吐いていて。
 「どうすればええかのう」と続ける彼に、名前もまた首を傾げていて。
 あそこなら大丈夫かも、と、ふと思った。



「じゃあ、また来週じゃな」



 そう言って歩き去って行く仁王の背中を見送りながら、名前は傍らにある彼の自転車を見遣った。
 さすがに学校の駐輪場なら、悪戯されても大したことないと思うから。
 停めて置いた場所から、学校まで二人で運んできたのだった。もちろん、ほとんど仁王一人で運んだのだが。
 また来週、来るって言ってたし。
 来る時は連絡をするからと、何故か連絡先まで交換していて。手にした携帯電話を見ながら、ぼんやりと思う。
 人は見かけに寄らないとは、よく言ったものだと。
 不良どころか、凄く優しい人だよね。変な所で真面目みたいだし。それに。
 笑った顔は、本当に柔らかくて、穏やかで。
 ……また話してみたいな。
 思いつつ、手に持っていた携帯電話をポケットに戻せば、かちり、と何か金属が擦れるような音がした気がした。思わず、そちらに目をやって。
 ……空耳かな。
 思い、名前は部室に向けて、歩き出した。
 仁王の、あの笑みを見て。何故か無性に、絵を描きたいと思ったから。あの、屈託ない、柔らかい笑みを見て、あの笑みのように優しい絵を、描きたいと、そう思ったから。
 今度こそ、前よりもずっと、素晴らしい絵を。
 皆の心を動かす、最高の絵を。
 だから名前は、気付かなかった。
 携帯電話を入れたポケットに入っていた生徒手帳。そこに挟まっていた、小さな金属の存在に気付き、名前が立海大附属中学まで自転車を届けに行くのは、まだ先の話。



見えない糸で引き寄せて



 それは、テニス部の全国大会決勝の日のことだった。試合には負け、副部長には殴られ、散々な日で。
 ただひたすらむしゃくしゃしていた仁王は、「兄ちゃんの馬鹿!」と大声を上げて走り去って行く小学生の弟を、ただいらいらとした心地で見ていた。
 何が、負けて悔しくないの、じゃ。
 悔しいに決まっている。
 ただ、それを示すのが気に食わないだけ。
 試合に負けたすぐは、さすがに悔しさが落ち着かなくて。けれど少しの間、頭を冷やして、真田に殴られて、やっと冷静な思考で、負けたのだと、そう認識して。試合を見に来ていた弟に、「すまん」と、なるべくいつも通りを心がけて声をかけたというのに。
 弟には、それが気に食わなかったらしい。
 悔しくて悔しくて仕方なくて、けれどそれを弟にぶつける程、子どもではなくて。しかし弟はその平気そうな様子を、本気にしたようで。
 しばらく経った後、深く溜息を吐いて、仁王は歩き出した。
 何にしても、弟を捜さなければと、思って。
 そんな時だった。「負けて、悔しくない人なんて、いないよ」という、少女の声が聞こえたのは。



「きっと、キミのお兄さんも、すごく悔しかったんだよ。けど、すごいよね。キミが悔しくないんだって思うくらい、それを隠してたんだよ」



 「お兄さんは、もっと強くなろうとしてるんだよ」と、見慣れない少女は、しゃがみ込んで視線を合わせつつ、傍らの、仁王の弟の頭を撫でながら呟いた。



「自分の中で悔しさを留めてね。勝ち続けていた時とは違って、色んな事を考えてるんだと思うよ。何で負けたんだろうって。何で今までは勝ってたんだろうって」



 何で、負けたのだろう。自分は。
 ……技に溺れた。立場に驕った。その理由は、あまりに明白。
 それでは、何故勝っていたのだろう。自分は。
 ただひたすらに、テニスに打ち込んできた、練習量。それだけ。
 たった、それだけなのだ。
 もっと、強くならんと。
 負けてしまったのは、自分の力不足。何が足りなかった。何がいけなかった。
 少女の呟きに、頭の中が整理されて行く。
 もっと、もっと、強くなりたいと、そう思う。
 だからこそ、もっと自分を見つめ直さないと。
 「でもね」という、少女の声が続いた。



「次はもっと、ね。今までの、自分の勝ちも霞むくらい、最高の勝利をね、掴めると思うんだ」



 今までの勝ちも霞むくらい、最高の勝利を。
 完璧な、勝利を。
 ぐっと、手の平を握りこむ。
 そうだ、こんなところでむしゃくしゃしている場合ではない。
 もっと、もっと。
 次は、きっと。



「だから、応援してあげようね。お兄さんを。お兄さんは、きっと強い人なんだと思うよ。悔しさを周りに見せないで、一人で頑張ろうとしてるんだから」



 まるで誰かに重ねるように、彼女はそう言っていて。
 どこからか、「名前ー!」と、誰かを呼ぶ声が聞こえた。少女は一度そちらに目をやると、困ったように笑って、「ごめんね。もう行くね」と、立ち上がりながら、弟に向かって呟いた。
 「もう、泣いちゃダメだよ」と、ぽすりと頭を撫でながら。



「きっと、お兄さんの方が泣きたいと思うから。泣かないで、応援してあげてね」



 言い、「じゃあね」と残して、少女は友人と思しき少女の元へと駆けて行った。
 楽しげな表情で。
 優しい笑みで。
 そうじゃ、俺は、もっと強くなりたくて。
 もっと、強く、なりたいから。
 ……眩しく感じるなんて、変な話じゃなぁ。
 ただの、通りすがりの少女の言葉が、これほどまでに胸に沁み込んでくるなんて、思ってもいなかったから。



「あ、兄ちゃん」



 少女の姿を見送った後、仁王は弟の元へと歩み寄った。「何じゃ、泣いとったんか?」と、いつものようにからかう調子で声をかけて。
 弟は慌てたように目許をごしごしと拭くと、「応援しちょる!」と声を上げた。



「兄ちゃん、次は絶対、勝ってね!おれ、泣かんで、応援しちょる!」



 弟は、先程までの暗い表情を消して、ふわりと笑ってそう言っていて。
 本当に、何て眩しいのだろうと、思った。
 「ああ、頑張るぜよ」と笑い、仁王は弟の手を引いて歩き出す。ちらりと振り返る先は、先程の少女が去って行った方向。
 もう、先程まであったむしゃくしゃした気持ちは、少しも残ってなくて。
 「名前、ちゃんね」と、小さく口の中で呟き、仁王は目を細くする。
 もし、万が一、彼女と会うことがあるならば。
 心から、礼を言いたい。礼と、そして、自分の話をして、彼女の話を聞いてみたい。
 もし、万が一が、あるならば。
 俺のテニスを、見てもらいたい。敗北を越え、最高の勝利に近付いた、俺のテニスを。
 そう、ぼんやりと思っとっただけなんじゃけど、な。
 いつしか本当に、偶然、出会ってしまって。
 少女の学校から、立海大附属中学への帰り道、仁王はくつりと笑って目を細める。
 偶然なんて、そう何度もあるものじゃないから。出会ったことと、落ちていた生徒手帳。次は自分で、作り出してやらないと。
 生徒手帳に挟んだ小さな鍵に願いを込めて、仁王はただ少女に見せる最高の勝利のために、テニスコートへと足を進めた。
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