幸福へと進む枝
 西の空はやがて沈むであろう陽の名残が微かに滲み、頭上は既に濃紺の夜空で覆われていた。

 今朝は彼女の家にいたが、夜は俺の家へと戻ることにした。生憎にも明日は出勤しなければならないから、教令院に近い俺の家の方が楽だった。とはいえ明日はまともに仕事をする気はない。今回の事に関しては緊急事態なのだから、仕事中に彼女の異変について調べる事に時間を使っても問題はないだろう。厄介な申請を持ち込んでくる学者たちに捕まらないことを祈るばかりだ。
 結局睡魔に負けて眠ってしまった彼女を抱きかかえながら玄関の扉を開けると、室内は灯りがついていた。既に同居人が帰宅しているのだろう、溜息を零しながら家の中に入る。案の定広間で寛ぎながら、メラックから表示された設計図を眺めていたカーヴェは、俺を見るなり困惑した表情を浮かべていた。
「どうしたんだその子は」
「……説明が面倒だな」
「そこは面倒臭がらないでくれ」
「俺の部屋から彼女のブランケットを持ってきてくれないか」
「あ、ああ。わかった」
 起こしてしまうのは忍びないから抱えたままソファに腰掛ける。慌ててブランケットを持ってきたカーヴェからそれを受け取り、彼女が寝冷えしないようにかけてやる。よほど眠かったのか、多少の物音では起きる気配はなかった。反対のソファに戻ったカーヴェの視線を感じる。俺が小さな子供を抱えているのがそんなに可笑しいか。
「なんで彼女は小さくなっているんだ」
「……ほう、なぜそう思った」
「いやさすがに察したぞ、でなければ君が子供の面倒なんて見るわけがない」
「彼女との間に子供が出来れば面倒は見るが」
「そ、れは……くそっ……見てみたいな……」
 見てみたいとはどういう事だ。頭を抱えて唸っている同居人の姿を一瞥し、それから腕の中の彼女に視線を戻す。小さな彼女と過ごしながら何度もそんな空想を浮かべてしまったが、この件に関してはそろそろ本気で考えてもいいのかもしれない。今後の生涯を二人だけで過ごすことも幸福だとは思うが、他の選択肢を選ぶことも当然可能だ。まあ、彼女が未来のことを何処まで考えているかは分からないが。更にいうと目の前にいるこの同居人が明らかに邪魔だが。いや、それ以前に俺がやるべきことはあるな。
「元に戻るのか?」
「分からない。明日調べるつもりではいるが……」
「おいおい、戻らなかったらどうするんだ」
「……」
 考えないようにしていた事を彼は簡単に口にした。しかしその声色はまるで落ち込んでいるかのようで、心配の色が滲んでいるのがよく分かる。お人好しが服を着て歩いているような彼の事だ、俺の心理状態を勝手に解釈して同情でもしているのだろう。思わずため息が出る。
「禁忌を犯してでも元に戻してみせるよ」
「まあ、そうなるよな……」
「今の俺が彼女無しに生きていられると思うか?」
「君の口からそんな言葉が飛び出てくるなんてな」
 目の前の男は不愉快にも声を押し殺して笑い始めた。その声で彼女が目を覚ましてしまったらどうするんだ。そう思い睨みつければカーヴェは咳払いをして誤魔化していた。

 直後、玄関の扉を小さくノックする音が聞こえてきた。咄嗟にカーヴェと顔を見合わせるが、どうやら彼も聞こえたらしい。立ち上がったカーヴェが玄関に向かい、扉を開ける音に耳を澄ませていれば聞こえてきたのは草神様の声だった。
「帰ってきていたのね」
「……クラクサナリデビ様?」
「ごめんなさい、何度か訪問したのだけれど……ああよかった、彼女もいるのね」
 カーヴェに招かれ広間へとやってきたクラクサナリデビ様は、腕の中で眠る彼女を見つめ、それから申し訳なさそうな表情を浮かべた。まさかとは思うが、彼女の状況について把握しているのだろうか。
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