時間の矢
 勝手知ったるなんとやら。彼女の家にニィロウを招き入れた俺はキッチンへと向かった。

 ニィロウも彼女の家には来たことがある筈だが、落ち着かない様子でソファに座り部屋の中を見回していた。恐らくは家主がいないと思っているからだろう。人数分の茶を淹れ、テーブルに用意する。その後は俺の後をついてきた小さな彼女を抱きかかえ、膝の上に乗せて椅子に腰掛けると、ニィロウは少しばかり驚いた表情をした。
「結論から言うが、彼女がこの姿になってしまった」
「……えっ?」
「姿だけでなく精神や記憶もだが、およそ二十年前の状態に戻ってしまっている」
「な、なんでそんなことに……」
 困惑したニィロウの視線が、俺の膝上で大人しく座り串焼きを頬張る彼女に向く。視線を向けられ不安になったのか、俺の服を掴む彼女に「未来の君の友人だよ」と告げると、すぐに信じたのか安堵の表情を浮かべた。どうやら本当に俺への警戒心はないらしく、俺が説明をすればほとんどのことは納得するようだ。
「原因は分からない、何か超常的な力が働いているのだろう。根源の罪に関わりそうな何かだと推察しているが、故に俺は禁忌に触れることを懸念して自発的に調べられない」
「難しいことなんだね……」
 教令院の学者たちであればすぐに理解できる理由ではあるが、流石にただの民間人であるニィロウは事の重大さが分からずに首を傾げている。まあ、当たり前だろう。根源の罪というのは賢者によって定められ、学者たちが知識の追求により身を滅ぼさないよう禁止しているものだ。それらについて追求することの危険性は充分に理解しているから、当然俺にも手出しすることができない。
 
 何故彼女の状況が根源の罪に関連すると推測したのか。それは当然、これが時間の概念を崩すような、普通ではあり得ない事だからだ。
 俺たちが認識している時間の流れというのは不可逆であり、それが物理的に過去に遡るなんて本来あってはならない。例えば熱いコーヒーを放置しておくと冷めてしまうが、冷えたコーヒーが炎元素の熱エネルギーを介さずに勝手に温まることはない。この熱力学は、素論派の分野である元素学及び物理学の基礎理論のひとつである。時間の概念に関する詳しいことは、量子力学における時間の矢やエントロピーなどについて調べればおおよそは分かることだ。
 それなのに今、彼女の肉体や精神は二十年分逆行した状態で顕現している。精神の方、つまり記憶に関しては、欠落であれば認知症のように退行現象が発生する可能性はゼロではない。しかし不可逆的に「成長」をする肉体の方が物理的に過去に遡るのは、この概念に反している。要するに我々人間の手に負える現象ではない。これらを深く追求するとなると、根源の第一の罪である「人類の進化」に触れてしまう可能性があるだろう。だからこそ、ただの人間である俺には調べることが不可能であり、もし現状を打破しようとするのであればやはり神に頼るしかない。
 それよりも、今は彼女の面倒をどう見るべきかが問題だ。バザールでも考えていたことだが、いくら彼女が俺の恋人だったとしても、今は現在の記憶を持たない小さな少女だ。彼女も俺も互いに気を遣ってしまうだろう。それに、例え小さくても彼女は大切な人だ。強固な理性が万が一に崩れる可能性を今の俺は否定できない。俺は決して小児性愛者ではないんだ。確かに小柄な彼女に惚れはしたが、いくらなんでも今の彼女は身も心も小さすぎる。
 
 考え込んでいても仕方がないと、俺は溜息を吐きながらニィロウに視線を戻す。
「君に、彼女の面倒を見てもらいたいのだが」
「どうして?」
「同性の方が何かと困らないだろう。いくら俺が恋人でも、その記憶を持たない彼女には配慮が必要だ」
「うーん、それは無理だと思うなあ」
 善性の強いニィロウなら断らないだろうと思っていたが、その予想は外れてしまう。意外なのはその返答の仕方で、何らかの要因により「無理」だということをニィロウは彼女から目線を外さず口にした。一体何があるというのか。
 
 不意に己の外套が少し強く引っ張られる。膝の上で彼女が不安そうに俺を見上げていた。その様子に、ニィロウは妙に微笑ましそうな表情を浮かべている。ああ、そういうことか。
「多分だけどね、あなたから離れたくないと思うよ」
PREVTOPNEXT