チョコレートの山と花束と
 扉を開ける前から漂ってくる強いコーヒーの香りに、家主の姿を思い浮かべながらアルハイゼンは鍵を差す。渡されていた合鍵は徐々に使用頻度が高くなり、自宅とここの滞在比率も気付けば五分五分になるまで彼は通い詰めていた。
 しかし、彼が訪問した際に家主以外の人間がいるという状況は、今までに発生したことがなかった。今日までは。
「……なにをしている」
「あ、お邪魔してます!」
「ニィロウちゃん、ここわたしの家ですからね!」
「うわ、アルハイゼンだ」
「こ、こんばんは!」
 いつも自分たちが食事をしているテーブルの席にはズバイルシアターの人気踊り子ことニィロウが、家主のお気に入りであるフォンテーヌ製のソファにはアビディアの森レンジャー師弟、ティナリとコレイが腰掛けていた。キッチンの方から声が聞こえてきたが、どうやら家主である彼女がコーヒーを淹れている様子。予想外の状況に一瞬だけ呆然としてしまったアルハイゼンは、すぐに我に返りキッチンの方へと向かった。人数分のコーヒーや紅茶を用意していた彼女は、アルハイゼンを見上げて申し訳なさそうに笑っている。
「すみません、言い損ねてましたね」
「……今夜の予定は」
「みんなでチョコレート食べる会です!」
「チョコレート?」
 嬉しそうに言う彼女はテーブルを指差した。追って視線を向けると、カラフルな箱の山がテーブルの上に積まれている。あれはどうやら全てチョコレートらしい。部屋を見渡し、ここにいる女性陣が少なからず甘党であることにアルハイゼンは気付く。ティナリはコレイの付き添いだろうけど、本人も甘いものを口にする頻度は比較的高い。というよりも、スメール人は甘党の人間が多く、勿論アルハイゼン自身も決して苦手なわけではない。むしろ頭を働かせるための効率的な糖分の摂取は心掛けている程度に、甘いものは口にしているのだ。
 箱の山に視線を戻し、改めてその数を数える。十箱以上はある上に、デザインを見る限りほとんどがフォンテーヌのものだろう。あの国の甘味は品質が高いものが多く、この時期になればとある祭事のお陰もありチョコレート菓子の輸出は確かに多い。もう一度横の彼女に視線を戻すと、彼女はアルハイゼン用のコーヒーカップを棚から取り出していた。
「あの量は買いすぎだと思うが」
「きみだってお酒の大量購入するでしょう」
「……そう、だな」
「ふふふ、アルハイゼンさんも一緒に食べましょ! コーヒーでいいです?」
「ああ」
 てきぱきと湯を沸かし追加の豆を挽き出す彼女を見、アルハイゼンはタイミングを逃してしまったと溜息を吐く。彼女の視界には入らなかった彼の左手には、白と紫の花が包まれた小さなブーケが握られている。それにいち早く気付いたのは二人の様子をそわそわと眺めていたコレイで、彼女は隣に座るティナリに小声で話しかけた。
「ああ、ラナンキュラスだね」
「綺麗なブーケだ……」
 花を見てすぐに種類を見分けたティナリは、なるほどと口角を上げた。もちろんこの部屋にいた全員に二人の会話は聞こえており、ニィロウもアルハイゼンの手元に視線を向ける。
「わ〜きれい!」
「え、なになに?」
「君達はもう少し配慮を考えてくれないか」
「ご、ごめんなさい!」
「あははは、アルハイゼンも粋なことするんだね」
 全員がアルハイゼンの手元を注視するものだから、さすがに気になった彼女も覗き込む。と、同時に彼の手の中にあった花束は勢いよく彼女の顔面に当たった。もちろん、わざとである。
「んぎゃ」
「チョコレートの商戦だけが今日の祭事ではないからな」
「わ、お花!」
 花束を受け取った彼女は嬉しそうな表情を浮かべている。その様子に満足した彼は、奥の棚から背の高い花瓶を手に取った。まるで自宅のように遠慮なく動くアルハイゼンの姿に、ティナリの表情がやや呆れ混じりの笑顔になり、コレイとニィロウは顔を合わせて笑う。
「君たちいつもそんな感じなの?」
「そんな感じ?」
「熟年夫婦みたいな」
 ティナリの言葉に目をぱちぱちとしばたたかせた彼女は、やがて頬を赤く染め上げながら隣の男の陰に隠れてしまう。「照れるからやめてください!」と叫び声が彼の後ろから聞こえ、ティナリたちは声を上げて笑った。
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