教令院の書記官アルハイゼンさんから一目惚れをされて告白まで受けるという、とても衝撃的な事件が起きた次の日。自宅で書類をまとめていたわたしの元へ、菓子折りを持ったカーヴェくんが訪問してきた。彼はとても申し訳なさそうにしており、そんな顔で家の前に立たれているのも忍びないので招き入れ、ひとまずお茶の準備をする。カーヴェくんは何度もうちに遊びにきているし、こういう状況は慣れたものだった。
「きみが謝る事はないのに」
「いや、僕が鍵を忘れたのがそもそも悪いんだ。君とアルハイゼンを引き合わせてしまうなんて」
「カーヴェくんと関われば、遅かれ早かれ知り合っていたかもしれないですよ?」
「それはそう……だが……」
冷たいお茶を口にし、それからカーヴェくんは何度もすまないと口にしては項垂れていた。何故彼はこんなに申し訳なさそうなんだろうか。別に何も悪い事はしてないし、確かにびっくりしたけれど、そういうこともあるかと素直に受け止めているんだけどな。
「別にわたしは困ってないですよ、アルハイゼンさんのこと」
「君はあいつがどれだけ特殊な男が分かってない」
「その特殊な男でも恋に落ちるという症例は貴重でしょう? 興味深いかも」
「そういうことじゃなくて!」
どれだけアルハイゼンさんのことを擁護してもカーヴェくんは折れる気がないらしい。あの人がわたしに恋慕の感情を向けていることの何が駄目なのかを問えば、カーヴェくんは深い深い溜息を吐いた。幸せが逃げると例えられるその様子をぼんやりと眺めながら、わたしはお茶に手を伸ばす。視線を右往左往させ、言葉に詰まっているかのように口を開閉させていたカーヴェくんは、意を決したようにゆっくりと話し出した。
「心配なんだ。君もあいつも、恋愛経験が乏しいだろう?」
「それがどうして心配に繋がるんです?」
「君はもう少し男がどういう生き物か理解した方がいい。ましてや、アルハイゼンも恋愛に関しては恐らく素人だ。僕は彼に恋人ができたところなんて一度も見たことがない。それで一目惚れだなんて、加減が分からずに君を傷つけるかもしれないだろ」
「ははあ、なるほど。でも彼は理性的な人に見えるけどな……」
「だからこそ、その理性というストッパーが外れた時が恐ろしいんだよ。君の身に何かあってからでは遅いし、君のことを友人として大切に思っているから、あいつが君に何かしでかしたらと思うと気が気じゃないんだ。心の底から心配しているのだと理解してほしい」
「……そう、ですね。気を付けます」
カーヴェくんは恐らくわたしの貞操に関して心配しているのだと思う。彼が言葉を濁して話してくれているのも伝わってきた。この友人は本当に優しい人だ。
もちろんわたしだってそのあたりは想定していて、いくらあの書記官殿が相手とはいえ彼がただの男性であることも分かっている。アルハイゼンさんが非常に理性的な人だという印象自体は間違っていないと思うけど、気を付けるに越したことはないと言うカーヴェくんの言い分も、性差を考えれば当たり前の話だ。
その後もしつこい程に言い聞かせてくるカーヴェくんの話を聞き……時々聞き流し、その後アルハイゼンさんに関する愚痴を言いたい放題語り尽くしたカーヴェくんは、満足した表情で帰っていった。
それから二日後。とうとうアルハイゼンさんと約束した日がやってきた。どこへも出掛けずに読書をしていたわたしは、彼が訪問してくることを楽しみにしている自分に気付く。そりゃあ、運が良ければ貴重なサンプルがやってくるのだと思えば当然わくわくする。それに他の誰でもないあの書記官なのだから、尚更わたしの研究者としての好奇心が沸き上がるのを抑えられない。もちろん彼に芽生えた恋心を蔑ろにするつもりもないので、わたし自身もちゃんと向き合っていくつもりではある。上手く返せる自信は、ないけれど。それよりも、これでアルハイゼンさんが来なかった時の方が残念かもしれないな。まあ、その時はその時で、ご縁がなかったということでしょう。
なんてぼんやりと考えていたら、玄関のベルが鳴る音がする。今はちょうどお昼時か。そういえばお腹が空いてきたかも。扉を開けずに「どちら様ですか?」と声を掛ければ、先日初めて聞いたばかりの低い声でたった一言「俺だ」とだけ返ってきた。な、名乗らないだと。わたしが声だけで誰なのか理解できると思っているのか。面白い人だ……!
耐えきれずに笑い声を上げながら扉を開ければ、三日前と変わらない仏頂面のアルハイゼンさんが腕を組みながら立っていた。
「こんにちは、アルハイゼンさん」
「こんにちは。単刀直入に聞くが、昼食は取ったか?」
「いえ、まだですけど……」
「なら良かった、今から食べに行こうか」
「お、おお、そう来ましたか」
何故かこちらへ手を差し伸べてくるアルハイゼンさんに思わず首を傾げると、彼は「エスコートをさせてくれないか、君と手を繋いでみたい」とさらりと言ってのけた。いきなりハードルの高いことを要求されている気がするし、もしやその状態で往来を歩くつもりなのだろうか。そんなことしたら、街中の噂になりませんか。そもそもわたしはまだ彼の話を受け入れたわけではないので、なんだか気が早いなあと思わず笑ってしまった。
「そういうのは追々にしませんか?」
「……ちっ」
「今舌打ちしました?」
「気の所為だ。さて、行こうか」
ストレートに断ったせいなのか、彼はどことなく悔しそうな雰囲気に包まれてしまった。わたしが悪かったのだろうか。それでも小柄なわたしに歩幅を合わせて歩いてくれるアルハイゼンさんは、意外と配慮が出来るらしい。まあ彼の性格上、他の人たちにもこうなのかはちょっと怪しいけれども。
わたしの家はスメールシティ北側にあり、ビマリスタン横の通路を通りグランドバザールを抜けていったほうが南側へのアクセスがしやすい。スメールシティで落ち着いて食事をするなら大抵はカフェか酒場だから、通路を通っているということは、目的地はそのどちらかだ。バザールの喧騒をくぐり抜け、見慣れた道を知り合ったばかりの人と歩く。こういうの、なんだか面白い。時々周囲の視線を感じるけれど、それは隣の人が視線を集めているだけでしょう。
やはり目的地は酒場だったみたいだけれど、どうやら団体のお客さんが来ているのか店内はいつもより混雑していた。これじゃあ落ち着いて昼食を、とはいかないかも。溜め息を吐くアルハイゼンさんの様子を伺うと、彼からはやはり不機嫌がにじみ出ていた。人混み、嫌いそうだもんなあ。
「テイクアウトしてわたしの家に戻ります?」
「え」
「騒がしいのよりいいじゃないですか」
「女性の家に軽率に上がるのは、俺としては避けたかったんだが」
「わはは、カーヴェくんなんかしょっちゅう来ますよ」
「よし君の家に戻ろうか」
カーヴェくんの名前を出したのは意図的だったけれど、案の定彼はわたしの提案を飲んでくれた。女性の家に軽率には上がらないと言ったアルハイゼンさんの顔を眺めつつ、わたしの家にお酒を持って喚きながら上がり込んでくるカーヴェくんを思い出して思わず笑みを浮かべてしまった。シャワルマサンドとデーツナンを二人分テイクアウトし、酒場を出たわたしたちは来た道を戻る。ローストミートのいい匂いが漂ってきて、自分が思ったよりもお腹が空いていることを自覚した。こういう時ほど、家が遠く感じる。ぜんぜん遠くないけど。
「どうぞ〜」
「お邪魔します」
家に招き入れ、食事はテーブルに置いてもらってお茶の用意をする。そういえば、彼はただ遊びに来たわけではないのだ。これからどうしようかな。まずは食事がてら彼の心理状況を確認せねば。袋からシャワルマサンドを取り出し、向かいの席に座るアルハイゼンさんに向き直った。さすがに緊張するなあ。
「さて、三日経ちましたがどうですか?」
「四六時中君のことを考えていたよ」
「んふふ」
あきらかな口説き文句が彼の口から飛び出てきて、わたしは思わず声に出して笑ってしまった。すごい。真顔ですごいことを言われている。普通の女の子だったらこういう時にときめきという現象が発生するんだろうな。残念ながらわたしは面白さが勝ってしまったため、こうして笑い声を上げることしかできなかった。
わたしの様子が気に食わなかったのか、アルハイゼンさんの眉間に少しだけ力が籠もったような気がする。すごく不服そうだ。申し訳ない。
「ごめんなさい、わかってはいたんですが内容が予想外で」
「なるほど、相手にされないというのはこうも不愉快なのか」
「すみませんってば! でも、本当に気の迷いではないみたいですね」
むっとしているアルハイゼンさんに重ねて謝罪すれば、彼の眉間の皺が深まってしまう。それから彼は、静かに深呼吸をしたのちに口を開いた。
「そうだ、気の迷いではない。俺は君を異性として好意的に見ている。もっとストレートに言えば君が好きだ。君の事を知りたいし、近付きたいと思っている。君からの感情のリターンも俺は当然欲しい。だが君が迷惑だと言うのであれば今のうちに関わるのを止めよう。俺自身、突拍子のない事を言っている自覚はあるからな」
怒涛の勢いで捲し立てられて言葉を失っていると、自分から飛び出た矢継ぎ早な言葉に自分でびっくりしているアルハイゼンさんが、とうとうわたしから目を逸らして「すまない」と小さく零した。思ったよりも重症というか、カーヴェくんが心配していたストッパー問題がうっすら現実味を帯びてきた気がする。先ほど家を出た時にスキンシップを求めていたのも、平時の彼ではありえない程に暴走している結果なのかな。
とりあえず、わたしの答えを先に出してあげなければ。
「ええと、まず先に謝罪させて下さい、今すぐに同じ感情を返すのはとても難しいです。わたしは恋をしたことがない上、アルハイゼンさんのことをほとんど知らないから」
「当然の返答だな」
「でも、きみを知りたいという気持ちはわたしも同じです。だから、うーん……お友達からではダメでしょうか」
「承認しかねる」
「ぐぬぬ」
お、折れない。お友達からじゃだめなのか。まあ確かに「付き合って下さい」と告げたのに「お友達からで」と返されるのは普通に考えると嫌か。稲妻やフォンテーヌで流行している娯楽小説の、特に女性向けのものなんかではこういった恋の駆け引きも描かれていたから、状況自体が理解できないわけではない。たぶん。客観的にしか見られない事は申し訳ないけれど。
「俺を拒絶するか、恋人になってもらうかの二択だ。それ以外は却下する」
「うーん極端!」
「分かりやすいだろう」
腕を組みふんぞりかえるアルハイゼンさんの姿にわたしはとうとう頭を抱えた。サンプルとしては絶対に逃したくない、でも彼の恋慕に今すぐ応えられる自信がない。経験がないから気持ちがわからない……わからなくては研究ができない……わかるように、努力するしかない?
「はぁー……」
「……」
「じゃあ、素直に言います。きみを研究サンプル扱いさせてください」
「……ふむ」
「わたしにとって今のきみは「わたしに恋をしている」という非常に貴重な症例です、だからわたしはきみを手放したくない。そのかわり……」
いや、この提案はものすごく傲慢じゃないかな。なんだかナルシストすぎる発言かもしれない。でもこれ以外になんて言ったらいいんだ? なんにも思いつかないし、アルハイゼンさんは早く言えとばかりにこちらを睨みつけている。いや見つめているだけなのかもしれないけど、目つきが鋭いから睨んでいるようにしか見えない。
「そのかわり?」
「お付き合いしましょう。わたしへ抱いた感情を都度報告し、わたしのことを好きなだけ口説いて下さい。もしもわたしに恋心を抱かせられたら、どうぞそのままきみのものにしてください。どうです?」
「……はは、面白い事を言う」
わたしの挑戦状にアルハイゼンさんは笑い声を上げた。うわ、この人こんな風に笑ったりするんだ。ずっと仏頂面だったから、なんだか新鮮。
「いいだろう」
「では交渉成立ですね」
「交渉ではなく告白なんだが?」
「わはは……」
いい感じにまとまっ……てはいないけれど、なんとか話がまとまったわたしたちは、放ったらかしにされていたシャワルマサンドを食べることにした。
こうして、ずっと研究だけをして静かに生きてきたわたしに、有名人の恋人ができてしまった。
「ところでわたしのどこに一目惚れしたんです?」
「……小動物みたいだと思ったら、直後心臓に電撃が走った」
「小動物」
「つまり、君を可愛いと思ったんだ」
「ベビースキーマによるハロー効果!」