紙の束と紅茶の香りと

 新たな職場での業務内容は普段していた事とさほど変わりはなく、私は次の日からまた書類の山と戦う羽目になる。今日は要塞の中を二人に案内してもらったのだけれど、途中でシグウィン先輩が医務室に戻ってしまった時は内心狼狽えてしまった。どうやら『公爵様』は私の顔を見ても気付いてはいないようで、完全に初対面の態度を向けられていたからまだよかったかもしれない。もしくは、私の存在なんて忘れ去ってしまった可能性もある。それならこのまま何事もなく契約期間を終えれば、私は今まで通り彼を陰から支えて生きる事ができるはずだ。

 ここに滞在する間は看守たちが使用している居住スペースをひとつ貸してもらえるらしい。この要塞の中では特に綺麗にされている場所だそうなので、そこはちょっと安心かな。それから施設を一通り説明された私は、最後に中央にある彼の執務室へと通された。螺旋状の階段をあがると、書類や書籍と共に立派な蓄音機が置かれた大きなデスクが見える。
 
「しまった……あんたの机がないな」
「え、私もここで働くんですか?」

 上がるなり呟いた彼の言葉に驚いてそう返せば、彼は私をじっと見て「しっくりこない」と一言溢した。一体何のことを指しているのだろう。

「何故そう思うかは分からないが、何か違うんだ」
「ええと、何の話です?」
「それ、敬語」

 顎に手を添え、そう言い放った公爵様に私は面食らってしまう。敬語がしっくりこないと。それはなんというか、意味がわからない。でも彼がそういうのなら、私に敬語を使われることを何故か嫌がっているということなんだろう。私の正体に気付いたわけではなさそうだし、まあ別に構わないか。

「あなたは雇用主になるのだけれど、失礼にならないかしら?」
「構わないさ。そっちの方がしっくりくるな」
「……わかったわ」
「それから、ヌヴィレットさんの大事な部下を危ない所で働かせるわけないだろ?俺の目が届くところにいてもらう」

 そう言いながら彼は隅にあるテーブルの方へと近づき、「用意ができるまではここを使うといい」と申し訳なさそうに言った。目が届くところという言葉のせいで、今後は彼と同じ空間の中で長い時を過ごさなければならないことを改めて実感してしまう。そんな事実に不覚にも照れてしまった私は、思わず彼から目を逸らした。顔に熱が集まるのがわかり、私は咄嗟に咳払いをする。兎にも角にも、しばらく私のデスクはアレになるらしい。身体を痛めないといいけど。



 次の日、与えられた部屋で睡眠を取った私は手早く身支度をし、早速執務室へと向かう。途中看守や囚人たちの視線を浴びたような気がするけれど、きっとそのうち私の存在もここの人たちに馴染んでくれるでしょう。
 扉の前で警備している看守たちに会釈をし、扉へ。階段を上がればリオセスリはすでに自分の机の前にいたのだけれど、何か作業をしているらしい。なんだろう?

「早いな」
「何をしてるの?」
「モーニングティー、習慣なんだ。あんたも飲むかい?」

 そうは言いつつも、机に置かれたティーカップはすでに二つあるのが見え、なんだか気恥ずかしくなってしまう。最初から私の分も用意する気でいたんじゃない。照れくさい気持ちを切り替えるように軽く咳払いをし、「いただくわ」と一言だけ返した。その返事に彼は満足げな笑顔。どうしてそんな顔をするのよ、この人は。
 昨日伝えられていた通り、隅のテーブルで業務をするために既に準備がされていた。そこそこの量の書類が積まれているけれど、人手が必要なほどなのだろうか。

「あんたも知ってるとは思うが、ここは工場だからな。生産した各部品やマシナリーの納品リストやらなんやらがそれだ。データを纏めた上で政府に……まあ、ヌヴィレットさん宛に報告することになってる」
「……ああ、なるほど。よく知ってるわ、報告書をチェックしてるのは私だもの」
「そうなのか?」

 ソファに座った私の向かいから、目の前にティーカップが置かれた。ゆらゆらと立ち登る湯気を横目に書類の一番上を手に取って眺めてみれば、見慣れたデータが想像以上に乱雑に書かれていた。おそらく各部門でフォーマットの統一化が上手くされていないのだろう、これを都度纏めるのは確かに骨が折れる。事務が出来る人手が欲しいというのも、なんとなくわかってしまった。
 
「確認するデータが多いから、多忙なヌヴィレット様に代わって処理してるの」
「へぇ、そりゃ助かるな。でもそんな話、会合では一切聞かなかったが……」
「伝える必要がなかったからじゃないかしら」

 そう、彼には知る必要がない話だ。何故なら私がヌヴィレット様に口止めしている情報なのだから。
 
 私がヌヴィレット様直属の部下の地位を必要とした理由は、この人を陰から支えて生きていくためだった。彼の義妹である私は、彼と境遇の似た孤児だった。引き取ってくれた貴族の家で彼と出会い、また別の貴族の家に引き取られてから疎遠になってしまった……その程度の関係だ。一緒にいた時間は短かったと思う、けれどあの家で私はこの人に一番懐いていた、大事な人だった。約二十年、会えない間に想いを拗らせた程度には。
 彼があの貴族の夫婦を殺害してここへ収監された時、私は私であまり言いたくないような状況にあった。救ってくれたヌヴィレット様から『リオセスリ』と名を変えた彼に関しての話を聞かされた時は、ショックでその場に崩れ落ちたのを今も覚えている。だからこそ、監獄で生きる彼をどうにかして支えられないかと、私はヌヴィレット様に泣きついたわけだ。
 義兄を陰から支えるという生き方をようやく確立させられたはずだったのに、結局私という存在をリオセスリに認知させてしまったのは最悪の事態だ。もしも私が義妹だとバレてしまったら、彼は私と顔を合わせるたびに過去を思い出してしまうことになる。彼が「過去を忘れたい」と思っていることは、シグウィン先輩によく聞かされていたから、それだけはどうしても避けたかったんだけどな。

「どうした?」
「……なんでもないわ。紅茶、ありがとう」

 つい、想いに耽ってしまった。淹れてもらった紅茶に口をつければ、ほっとするような香りと甘味が口いっぱいに広がる。おいしい。思わず笑みがこぼれたのを見られているなんて知らず、私はそのまま紅茶を堪能した。

 とにかく、出来るだけ彼に悟られないように最低限のコミュニケーションを徹底して距離を取っておこう。二十年も会ってないのだから、思い出すきっかけを与えなければきっと大丈夫。
 

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